高崎城址 高崎市 群馬県
高崎市指定史跡 (高崎城三の丸外囲の土居と堀)
 箕輪(みのわ)城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(1598)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、ニの丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁が築かれていました。明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。 都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「表門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料か残されているため、当時の姿を知ることができます。  高崎市教育委員会
高崎城の由来
天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏も滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。当時、箕輪城主であった井伊直政は家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。井伊氏築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。現在の遺構は三の丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初年の御三階櫓の写真や「高崎城大意」「高崎城断面図」「御城御土居通ほか、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されており、これらによって往時を知ることができる。