吾妻川・杢の渡し跡 北牧 渋川市 群馬県
杢(もく)は牧(もく)で牧場のこと 10世紀中頃作成の『延喜式』利刈の牧に擬せられている箇所で、飼育された4歳駒が吾妻川の浅瀬を牧監に連れられて渡河、国府へ送られた想像図が描ける。越後・草津への通路としても旅人の往来があり、自然に渡しも発達してきた。中世となり、鎌倉街道も発達し、京の詩僧万里集九は長享2年(1488)9月ここを通過『梅花無尽蔵』に「危橋あり舟を編んで 橋と為す、目(もく)の橋という」と文献誌上に初めて紹介されている。近世となり五街道に次ぐ脇道として指定された三国街道の整備と共に寛永20年(1643)頃吾妻南岸に杢ヶ橋関所が設けられ、次いで対岸に北牧宿が設定された。この地域は両岸の谷間が狭く、増水では水位が高くなり橋が流失することが多く、元禄10年(1697)から50年間に16回の刎橋流失があり、橋付村の犠牲は多く、江戸幕府の助成で架橋している。天明2年(1783)7月の浅間押しで壊滅、以後賃渡舟が多かった。渡しは近年まであったが太平洋戦争後廃止、旧街道跡だけが渡しを物語っている。 平成2年3月  子持村