猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)百斉の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志き麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。 史実の中では、文明19年(1486)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。 応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行なわれてきました。この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。 昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。 昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8300万円であります。橋の長さ、30.9m、橋の幅、3.3m、橋より水際まで30mです。    大月市教育委員会

 名勝猿橋 猿橋町 大月市 山梨県