北牧宿(新田宿) 北牧 渋川市 群馬県
三国街道は上州と越後を結んだ主要道で、三国峠を越えるので三国通りといわれ高崎で中山道から別れた脇往還である。古代からの利用があり、鎌倉時代より軍事道路と共に文人・僧侶などの旅路ともなり、江戸時代に入って佐渡金山開発の本格化による官道整備普請完成は慶長15年(1610)であった。吾妻川右岸の南牧に杢ヶ橋関所が開設されたのは寛永20年(1643)で同時に対岸に北牧宿が設定されたといわれる。三国街道は高崎から越後の寺泊まで30宿48里(約192km)で北牧宿は高崎宿より4宿目金井宿より18町(約2km)横堀宿へ28町(約3km)の距離にあり宿開設により交通の要衝となった。道中奉行・佐渡奉行・寺院関係者更に参勤交代制度(寛永10・1633)の確立後の越後諸大名とその家中x藩士などの通過の記録がある。吾妻・金井・渋川方面から白井六xxへの旅客は必ず当所の通過があり、草津の温・沼田城下・前橋の市場へとxxx北牧宿は山が迫っているため通常の宿場と形態が異なる。渡場からの道は三筋に分かれ、東から芝宿(230m)・古宿(223m)・新田宿(同じ)となりこの3宿は中宿(210m)の通りと交わる。宿の機能は中宿と新田宿の交差点近くにあった。更に道場宿(173m)と延びている。(中略)休宿の際は横堀の助合(三国通りは助合)となったが、宿復帰となれば助合が解かれた。旅客の多少により横堀宿と合宿があり、他の宿と比較して旅籠屋は8軒と多い。吾妻川は通常刎橋が義務づけられているが代替えとして船橋・渡し船が使われた。杢ヶ橋の流失は数多くあり川付村として北牧村は他の村々と共にその修復に尽力している。明治3年(1870)民部省布告により北牧宿の機能は廃止された。  平成2年3月  子持村