三国街道−5 



五日町−浦佐堀之内川口小千谷妙見六日市
いこいの広場
日本紀行
三国街道−1
三国街道−2
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三国街道−5
三国街道−6


五日町

宇津野新田集落の入口にある石組の上に庚申塔や石仏が一列に並んでいる。道標が混じっていないか調べてみたがよくわからない。カメラを手にウロウロしていると、隣のおばさんがでてきて「えどかいどうの道しるべがある」と、石垣の手前にたつ卵形の石標を教えてくれた。「右六日町江戸海道」と刻まれている。その道は、ここまで通ってきた道筋とは関係なく、石仏群の右手から林の中に延びていた。三国街道の古道である。草に埋もれた道跡をたどっていくと、林の中に隠れて二十三夜塔と石仏が並んでいる。その先の上越線の線路で途絶していた。線路に沿ってその西側に延びる道が旧街道とも思え、すこしたどってみたところどうみても整備された田圃のあぜ道であった。

集落にはいり、すぐに道は直角に左折して狭い線路の地下道をくぐり、あたかも鍵の手のように右折して線路の西側の道(県道364号)をたどっていく。線路の東側をまっすぐいく道が旧道のような気がして、いってみると四十日(しとか)川で分断されていた。そのさきは連続していない。

この寄り道の途中で思いがけない発見があった。左手に大きな記念碑が立っていて、
「魚沼コシヒカリ発祥之地」と、深々と刻まれている。昭和29年この地に南越17号とよばれる原種の種まきが行なわれた。

上越線に寄り添って進む県道364号はやがて関越自動車道をくぐり、奥−寺尾の集落を通り抜けて五日町に入っていく。右手にはコシヒカリを育む豊かな田園の向こうに雪をのこした
八海山の山並みが美しい。

五日町宿場は上越線五日町駅の西側に県道364号に沿って作られていた。沿道には昔を偲ばせる古い建物は見当たらない。本陣など宿場情報を求めて駅前の観光案内所を訪ねてみたが、スキーの季節をのぞいては閉じているようである。駅前通りにも人一人いない。

町の出口付近に石塔、石仏が集められているのが唯一の街道の名残であった。

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浦佐

旧街道は九日町の信号で国道を斜めにわたって名木沢川を越えたところで県道266号から左にわかれて南魚沼市藪神地域コミュニティーセンターまほろばの前を通過、三つ目の十字路を右折する。本来はここから左(南方)の道も旧街道筋で、藪神小学校の東側を走る県道266号でなくて西側についている生活道路を通って九日町信号に出ていた。現在はその間の水田が整然と方形に区画整理されていて、そのあぜ道をジグザグにたどる意味が失せている。

先の十字路にもどり北に歩を進める。天神川をわたった右手に趣ある建物が目を引いた。「梅桜亭」の看板を掛け民芸調の建物で一見旅籠風である。居合わせた男性にたずねると、ここで寄席を開くのだそうだ。
一村尾集落を通り抜け、入口に神明社が建つ市野江集落を抜ける。赤坂川をわたったあたりから道は右に曲がり国道17号浦佐信号手前で県道71号につながっているが、旧道は赤坂川からまっすぐに進み、浦佐スキー場ゲレンデの裾を縫って毘沙門堂前の通りに出ていたようだ。今その道は残っていない。

スキー場旅館街の表通りである県道71号は途中でひだりに分れ、直進する旧街道は県道363号となって浦佐宿場街に入っていく。浦佐駅前通りとの交差点はゆるやかな曲尺手になっている。そこから300mばかりの商店街が旧宿場街である。左手「みやこ屋」はかっての芸者置き場であった。浦佐宿は普光寺、毘沙門堂の門前町として栄えた。一筋西の通りに入ると日光東照宮陽明門の極彩色を洗い落としたような威風堂々とした
楼門が川向こうにそびえている。楼門内には彫刻、壁画、天井画など優れた作品が内蔵されているとのことである。

境内にはいると右手に銅板葺きの
普光寺本堂、正面に毘沙門堂が建つ。毘沙門堂は大同2年(807)坂上田村麻呂の建立とつたわる。本尊毘沙門天は住吉椿沢村の椿の大樹を伐って彫られたといい、椿を薪にすると祟りがあると言い伝えられている。回廊ではボランティアが茶を出すサービス振りである。堂内で札等を売るいじさんに「つかぬことですが・・」と浦佐宿の本陣跡を尋ねてみると、「駐車場の前の銀行の北隣」と即座に答がかえってきた。「因みに・・」と、芸者置き場みやこ屋を教えてくれたのはこのおじさんである。

さっそくその
本陣跡に向かう。古い家屋は残っていない。表札には「坂西(ばんざい)」とあった。街道はその先で細くなって水路を渡ったところで民家に吸収されている。かってはそのまま北上して、「浦佐のへつり」とよばれた河岸段丘の東裾をつたって栃原峠へのびていた。現在は新幹線下の作業道をたどって山につきあたり石仏が並ぶところを右にまがって上越線宮下踏切を渡って国道に出るほかない。

右手遠方に越後三山の美しい山並みが眺められる。

国道を800mほど北上し町屋入口バス停前の丁字路を左折して
町屋国道踏切を渡って再び線路の西側にもどる。丁字路を右にいけば八色(やいろ)駅。浦佐からの旧道復活点を確認するために左に折れて、石仏3基がならぶ農道を進むと山の袂で行き止まりとなっていた。ここから右に曲がり山裾に沿った道をいく。

町屋観光センターの前を通り二股を左にとって真直ぐな道をすすむ。これはどうやら新しい道だ。その先、道が右折するところで左上方向にのびる土道が残っている。傍まで新しい住宅が迫っているなかでかろうじて開発を免れた山裾の斜面地という姿である。

二十三夜塔が寂しく立つ細道を上っていくと県道387号に出る。左手に
岩山集落開発センターがある。旧道は右に迂回して川をわたり、左手の民家の前を川沿いに進んで右手の山中にのびる山道に入る。木々の茂みはすぐにぬけて段丘の上をゆく快適な道となる。

土道はまもなく車道に合流する。このあたりに原集落があったのだろうか、道路の右側は広く開かれた草地になっている。街道の衰退と共に山村の集落も姿を消した。道端に取り残された石仏は無言のままで運命を甘受しているふうであった。車道はやがて県道128号に合流し栃原峠をめざして坂を上がっていく。

最初のヘアピンカーブにかかる橋の手間で左に出ている砂利道が旧街道だが、途中で通行不能となっているらしい。試みることなく県道を行くことにした。三番目のヘアピンカーブの山側に待避所が設けられている。振り返り地点に
峠道入口がある。県道の谷側を見下ろすと草深い谷底に道跡らしい筋が認められる。上り口につながる地点までの道はない。

峠道の入口は草が刈られて歩きやすい。山中にはいってもいくらか草が深くなった程度である。まもなく左手が明るくなって道が右にまがるところに天明7年(1787)の
三面馬頭観音がひっそりとたたずんでいる。双体道祖神のように体が分かれている様でもない。珍しい馬頭観音だ。

ほどなく
についた。すぐそばまで県道が寄り添っている。栃原峠越えの道は万治年間(1658〜1660)に整備されたもので、それ以前の街道は浦佐から魚野川をわたって虫野を通り、小出島から再び川を渡って堀之内へ向かっていた。2箇所の渡し船が嫌われて山越えの道が造られたのである。現在の国道17号、関越道、上越線のすべてが小出ルートであるのは三国街道の古道筋である。唯一上越新幹線が栃原峠付近をトンネルで抜けている。

旧大和町と旧堀之内町の境界を示す峠標柱の近辺には井戸跡、清水跡、茶屋跡をしめす標柱があるが、いわれを記したものはない。茶屋の安倍川餅は人気があったそうだ。文字通りの首なし地蔵がいる。首がない分草の丈とおなじくらいに低い。赤鳥居の奥に御利益が万倍にもなって返ってくという
赤坂万倍稲荷が鎮座し、左脇には「上杉謙信お手植の杉」といわれる巨木がそびえ立っている。双体道祖神の標柱があるが本体は祠内に保管されていて見えない。

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堀之内


栃原峠で南魚沼市五箇から魚沼市堀之内に入る。堀之内側へ下る道は深い藪を両手で押し分けて歩くことになった。草にかくれた沢に足をとられ転げそうになった。特にたちが悪いのは葛のつるである。一度引っかかると体に絡まるようにしつこい。前方は身の丈ほどもある草木に覆われ、目印となる砂防ダムがみえたところで断念した。

峠までの上り道と下り道でこんなに差があるのは行政区の違いによるものだろう。下り坂の道のりが長いことも道の維持をさらに困難にしている。もしかすると、堀之内地区は旧街道のこの区間を見捨てたのかも知れない。峠までもどり県道に出て堀之内側の旧道入口まで下る。こちらには五箇側にはなかった立派な案内板が立っている。砂防ダムの手前までは車が通れる農道になっていた。

里山の風景を楽しみながら県道128号をひたすら下って堀之内の町中に至る。道は線路で分断されており
地下道で渡る。国道17号を横断して細道にはいると左手に願念寺がある。本堂はモダンな建物だが鐘楼門だけは古風に再建された。その説明板は再建のことには一切触れずに栃原街道(栃原峠越え三国街道)の人物往来を列記していて興味深いものであった。これによると栃原峠の開削は寛永年間で、万治元年に高田藩郡奉行によって改修がなされた。

「1697 元禄10年10月 堀之内縮問屋の宮九、縮布215反を江戸へ出荷する。(この頃から縮布の需要激増し、三都との交流繁くなる)」とある。堀之内宿は小千谷(おぢや)、十日町とならんで越後縮の市を催し江戸、京都、大坂の三都から集まった買い付け業者で賑わった。

有名人では遊行上人、伊能忠敬の名がみえる。いずれも「三国峠を越えた人」である。二度にわたって佐渡送りの無宿人唐丸籠が堀之内宿を通っている。これらも三国峠を越えた連中である。この役目を負った長岡藩士8名が三国峠で遭難したことを既に見てきた。慶応4年の戊辰戦争では尾張・薩摩等の政府軍がここ願念寺に泊まった。明治18年(1885)清水街道の開通とともに栃原街道は250年の歴史をとじたとある。

道は堀之内駅からでている広い道に出て左折する。正面に風情ある木造家屋が建っている。かっての旅籠かもしれない。上仲町交差点で堀之内旧宿場街(県道371号)にでる。

交差点角にある渡辺接骨院に「宮徐々坊住居跡」の札が掛かっている。中風薬を商っていた枡屋跡で、主人は地方俳壇の宗匠吉右衛門という。

西に歩いてすぐ左手に
皇大神宮の鳥居が建つ。参道を進み古い造りの長屋門をくぐると社殿の板壁に般若と天狗の面が飾ってある。由来ありげで味わいのある面である。皇大神宮は正平16年(1361)の草創で御旅屋(おたや)(社務所)は伊勢屋という旅籠を兼ねていた。屋号は皇大神宮が伊勢神宮の遥拝所であったことからきたと思われる。御師は寺社直属の旅行業者みたいなもので、ここで伊勢参詣のツアーを募り宿泊の便宜を計っていたのであろう。

雁木造りの商店街を歩く。宿場の西、下町交差点に立つ
「堀之内やな場」の看板に釣られて寄っていくことにした。

橋をわたってすこし下流にいった所にやな場が設けられていて、おじさんが独りつくねんと座っている。堤防からは鮎の姿はみえず、橋をわたって近づきたかったが「食事なしの見学は遠慮ください」という看板をみてあきらめた。入場料がわりに店で鮎の塩焼きを食べていけということだ。のどかな風景の中でさわやかな川風に吹かれて、やなを遠くからながめているだけでもすがすがしい気分であった。いつかはこれも日本の原風景といわれる日がくるのだろう。

街道にもどり、旧道は西又川をわたったところで右にはいる
安高稲荷神社、秋葉三尺坊大権現の祠の左側をぬけていくと道は堀之内中学で断絶し、田河川の対岸で復活している。道なりに和長島集落開発センター前を通過、途中徳田集落のY字路を左にとり焼きとり屋の前の広い道を左折、すぐ右折(やきとり屋から宇賀地自動車までの旧道は消失)して赤木集落をぬけて宇賀地小学校前の下島信号で国道17号に合流する。国道南側に短く残る傍道が旧道か。

国道は北堀之内駅前を通過して除雪センターの先で川口町にはいっていく。

寄り道 守門

そのまま川口宿に向かう前に一ヶ所寄り道したい所があった。徒歩で寄れるところではない。北堀之内駅から上越線で小出までもどり、只見線に乗り換えて越後須原で降りる。守門(すもん)という集落である。ここに国指定重要文化財である江戸時代の農家が二軒あるのだ。駅の正面で国道をよこぎり県道346号にぶつかったところに
目黒邸がある。守門民俗文化財館とともにちょっとした公園になっている。目黒家は江戸時代を通して大庄屋を勤め明治には衆議院議員にもなった富豪の家柄で、建物は役宅を兼ねた住居である。正面の萱葺千鳥破風が役宅の威厳を示して豪華である。土間では囲炉裏の炭火が赤々と鉄瓶を熱している。周囲の重厚な造りを黒光りに塗りこめた空間でしばし腰をおろした。この家は浅野ゆう子、松方弘樹主演の映画「蔵」の舞台となった。「一途な愛が涙を誘う。」

目黒家から県道346号を2kmほど西にたどったところに二軒目の農家住宅がある。
佐藤家で、これだけの家を構えられたのは庄屋でなくとも富農であったにちがいない。L字形の曲屋にみえるが、主屋から突き出した中門造りという厩だけでない多機能な作業場を備えている。豪雪地帯で雪除け庇が進化したのだという。裏にまわると絵に描いたような里山風景が広がっていた。

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川口

北堀之内駅に戻る。川口町にはいってすぐ左手に180度折れる坂を上がっていく。昔の街道はパーキングエリアの裏側から峠に登っていた。坂の途中に石仏が二体杉の根元にもたれている。

坂を上りきると畑地に出る。平坦で峠の感じがしない。左に曲がっていく車道と分かれて旧道はまっすぐ農道に入っていく。

林の入口で道は三俣にわかれる。真中の道が旧街道で、山中を2、3回折れながら石畳のあとが残る短い下り坂を降りると和奈津集落に出る。上越新幹線の高架の下をくぐり右手に二十三夜塔や石祠にはいった庚申塔などの石仏群を見ながら国道17号に合流する。

旧街道はすぐ先で県道557号に入り、4差路を右折して魚野川縁の農道を左におれると民家に突き当たったところ、右手の小高い岸辺に石仏がのこる渡場跡がある。木々の隙間から対岸を覗くと細い旧道の筋が見える。旧街道は国道からこのあたりに一筋で来ていたのであろう。

和南津橋をわたり野田信号を左折、堤防沿いの農道をすすみ渡場跡付近で右にまがって坂をあがると民家の脇を通って国道にでる。すぐに左の旧道にはいり、越後製菓工場の前を通って中山集落をぬけていく。関越道を潜り越後川口道の駅の西側に嘉永4年(1851)の
観音道と刻まれた道標がある。


左手に魚野川の美しい景色を眺めながら渡辺企画の前で国道17号に合流する。上越線手前で国道と分れ右の県道71号で川口宿にはいっていく。すぐ右手に石垣に囲まれた
川口宿本陣跡の石碑が立つ。本陣中林家の屋敷は玄関をつけた上段の間をもつ座敷建築で昭和8年まで残されていた。今はその入口の石組みを残すのみとなった。その石組も中越地震で大きく崩れ、修復後はセメントで固められている。

宝積寺前から
川口旧宿場街を通り抜ける。中越地震で甚大な被害を受けた川口もその傷跡は殆んど見られないほどに復興している。そこに昔の面影をもとめることは無理というものであろう。家並みが途絶えたところに川合神社が建つ。雄略天皇22年(478)創建と伝わる延喜式内古社である。

旧街道は神社前で右折、上越線高架を潜り二股を左にとって国道17号ガードを潜る。県道421号に合流して上越線と国道にはさまれた河岸段丘を北上する。左に大きくカーブしたところに待避所が設けられている。待避所というよりは絶景スポットの駐車場であろう。左に茶色の線路、中央に黄色味を帯び始めた田圃、右にはY字形をした青い流れが見える。
魚野川と信濃川の合流点だ。遥か向こうには青い山脈と白い雲。映画よりも美しい景観である。

この先の二股を右にとり北上、国道の法面下につづくうねりくねった道をたどって天納信号手前で国道に合流する。街道はまもなく川口町相川から小千谷市上片貝に入る。


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小千谷

すぐに右の旧道にはいり県道548号に合流、木津南で国道17号を横断し協和コンクリートポンプ(株)の先で旧道が途絶。国道351号に合流し上越線を跨いですぐに左から合流してくる道を追分地蔵の三差路までもどる。旧街道はそこを右折するのだが、左をみると国道下にトンネルがあってその先に細い道が続いている。これが国道351号と上越線で分断された旧道の名残りである。

地蔵の台座には趣味的な筆使いで
「右ハなごか 左ハおぢや」と刻まれている。地蔵の角を西に向かい国道351号を横切って三つ目の十字路を右に折れる。旧道は右手に十二神社を見てその先で国道291号を横切っていくのだが、今夜の宿を小千谷にとっていたので国道291号を左折して旭橋で信濃川西岸に渡る。小千谷駅、国道17号は山が迫る信濃川東岸を走るが小千谷市街地は開けた西岸にある。旧三国街道は東岸を素通りする。

中心街である本町にはいるとちょうど
夏祭の日の夕方であった。脇道には出店がならび本町通に意匠をこらした山車が繰り出していく。

街道筋でない小千谷でよるところは一ヶ所、国指定重要文化財である魚沼神社にある
阿弥陀堂である。魚沼神社は平成2丁目交差点を左折、すぐ先を右折して小千谷小学校の西方にある。境内に室町時代の建築で萱葺の清楚な佇まいを見せている。軒が短いのは豪雪の重みを軽減しようとする工夫であるという。

信濃川右岸の旧道筋にもどり
東栄地区の路地を北に向かい山崎醸造を通り過ぎて国道291号に合流する。左手に高の井酒造の杉玉をみて国道をすすむと稗生(ひう)本村信号にさしかかる。

交差点で右に分かれる県道519号が旧道だが、左にも旧道が残っていた。左の旧道は数軒の家並みをすぎて林の中を通り抜け、二股を一方は川辺へ、他方の旧道は左の草むらに入り込んで国道の盛土で途絶えていた。短いながら落ち着いた道である。

交差点にもどり国道をよこぎって県道519号にはいると直ぐ右手に
宇都宮神社の鳥居が建つ。5年前の地震で倒壊し2年前に再建されたものである。参道脇に古い石鳥居の神額が保存されている。

街道はヒ生I.C.東で国道17号をくぐり、その先の丁字路で右に曲がって国道291号に出る。左手に設けられた休憩所に大きな「越後・牛の角突き街道案内図」がある。小千谷小栗山、山古志虫亀、山古志池谷、山古志種苧原(たねすはら)の4ヶ所の闘牛場が示され5月から11月初旬にかけて角突きが開催される。図にはまた、数箇所に
「地すべり地点」が記されていた。私にとっては牛の角突きという重要無形民俗文化財も、小千谷・山古志という地名も中越大地震がもたらした情報である。ただそこを三国街道が通っていることは知らなかった。

直ぐ先の右手崖斜面に地すべり地点の一つがある。すこし上がっていくと樹木がはがれた岩盤が露出している。その奥には何もなかったかのように林がつづき、そこを境として樹木の根を擁していた数メートルの表層が滑り落ちたことがよくわかる。

段丘上を走る街道(国道291号)の一段下を上越線、県道589号、信濃川右岸が互いの距離を縮めつつ中越地震の大崩落地点に向かって収斂していく。

街道は朝日川にかかる新柄橋を渡った先で国道291号と分れ、浦柄三差路を左折して上越線のガードを潜り、川縁の県道589号に出る。

その前に国道291号をそのまま進んでいき、戊辰戦争古戦場であった
朝日山に登ることにした。上り口に浦柄神社があり、その奥に朝日山の戦いで戦死した長岡藩士等東軍の兵士22名の墓碑が並んでいる。山の中腹には棚田が開かれ遠く信濃川をのぞめる景観は素晴らしい。頂上近くでは電気関係の工事が行われていて、関係者以外立ち入り禁止となっていた。頂上にあるという古戦場跡碑を見ることなく降りた。

県道589号を川口方面にすこしもどった川辺に
錦鯉センターがあるので寄ってみた。地震のニュースで、牛の角突きとならんで全国に知られるようになったのが錦鯉であった。江戸時代に冬の食料として育てられていたものが、あるとき突然変異して黒だった鯉が赤や黄色の色混じりの鯉になった。水田のような池に丸々と太った錦鯉が泳いでいるものと期待して降りていったのだが、見つけたのは成長した鮎ほどの大きさの幼魚であった。商品になるような鯉は貴重品で別の所に保管されているのであろう。

県道589号で小千谷市から長岡市妙見町に入る。

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妙見

妙見町にはいるとすぐ右手の榎峠古戦場パークに「榎峠古戦場」の記念碑が立つ。榎峠はその西側が信濃川におちる断崖絶壁の難所である。慶応4年(1868)5月、政府軍と長岡藩・会津藩桑名藩の同盟軍は、榎峠を巡って激しい戦闘を展開した。

ポケットパーク入口から山に向かって砂利道が延びている。しばらくたどっていくと工事現場に出てその先で道はなくなっていた。ここまでの砂利道も旧道ではないらしい。

パークの直ぐ先左手が中越地震で崖の
大崩落があり、その中から幼児が奇跡的に救出された現場である。当時の県道は崖の崩壊と共に信濃川に崩れ落ちた。元の道筋は修復されず、急遽山側に引き下がった新しいルートが造られた。三国街道筋そのものの変更である。立ち入り禁止の柵をくぐって崩壊跡を覗きこむ。道路の舗装部分がそのまま川岸に落ちこんでいる。崖の崩落部分は草が生えてその傷跡の痛みを徐々に癒しつつあった。

街道は越の大橋・妙見堰の袂で信濃川左岸から渡ってきた国道17号に合流する。妙見堰の東麓に
妙見船番所があった。復元された番所の一部に当時の礎石が残されている。脇には道しるべを兼ねた二十三夜塔があり、「右小千谷 左江戸」とある。

妙見南交差点で右の旧道に入る。そこから街道は国道沿いに北に向かって妙見集落にはいっていくのだが、線路を越えて
妙見神社によることにした。もしかして榎峠への手がかりがあるかとの思いであった。妙見様踏切をわたった左手に式内社三宅神社がある。突き当たりから長い階段を上りつめた頂上に妙見神社があった。社殿は想像に反して新しい。鳥居は足下の整地を残した状態で、最近再建された様子が覗える。地震が山頂をはげしく揺るがしたのだろう。

近くに設けられた展望台からは信濃川の雄大な流れ、豊かな田園地帯にのびていく妙見、六日市、滝谷等の集落の筋が眺められる。そのさきに広がる大都市は長岡市街地だ。

神社からは舗装された参道が出ているが、榎峠につながりそうな山道をしめす道標や標識類は見かけなかった。

妙見南交差点までもどり、旧街道を北にたどる。妙見集落は六日市の南端にくっついた尾ひれのような小さな集落である。宿場の機能は六日市宿と分け合う合宿であった。あっという間に妙見の家並みをぬけ、きづいたときは六日市郵便局の前だった。

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六日市


妙見との合宿六日市も大きくはない。ランチ用のパンを求めて入った星勝商店のご主人に宿場情報を聞いてみた。まさにここが本陣跡なのだという。本陣跡地は星勝店だけではない。通りに出て「ここから向こうの小学校のあたりまで細貝本陣の屋敷だった。行列が通った道はこの裏」と、案内してもらった。本陣跡や宿場に関する案内板や標識はない。ただ星勝商店の隣で遠慮気味に立っている松の木が唯一の名残だそうだ。「観光バスはかならずここで止まるんだ。だれも降りてこないが。」町並をすすんでいくと小学校入口に細貝材木店があった。もしかしてここが本陣細貝家の末裔かと思ったりしたが、周りに人気がなく追求しなかった。

六日市北信号先で国道17号にもどるがすぐに上滝谷(たきや)信号で右の旧道(県道370号)にはいり上越線踏切をわたって滝谷町にはいっていく。目の前を貨物機関車が通っていった。


六日市の北端から十日町にいたる道は見事な一直線である。十日町にはいり、郵便局前バス停脇に並木街道の名残りらしき松がある。あるいはかまぶろ温泉旅館の庭木か。

ところで三国街道の旅ではよく似た地名にすくなからず悩まされた。その一つが六日町と六日市、六日市町。そのほか数字に「町」又は「市」をつけたところが多い。さらには同じ「十日町」がいくつかある。ひどいのは「十日町市」だ。

片田信号交差点で国道17号を横切り下條にはいる。左手に「米山塔」と深く掘られた石塔が目に付いた。今まで見たことのないものだ。米山は柏崎の南方、信越本線米山駅の東方にある標高993mの独立峰で、頂上にある薬師堂は日本三薬師にも数えられ古くから信仰を集めていた。

長岡市街に近づきつつある。


(2009年8月)
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