朝日山殉難者墓碑 浦柄 小千谷市 新潟県
慶応4年(1868)5月11日から、ここ朝日山をめぐる攻防戦が始まった。前日、浦柄村(小干谷市大字浦柄)をはさんだ榎峠で、東軍と西軍の戦いがあった。その榎峠を長岡藩兵等の東軍が占領すると、戦いは榎峠を見おろす朝日山に移った。 朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵、それに衝鉾隊は、大砲を山頂にあげ、西軍陣地を砲撃した。西軍は朝日山をとろうと、たびたび攻撃した。とりわけ、5月13日早朝の長州藩奇兵隊を中心とした攻撃は、激しい戦いだった。参謀時山直八など多くの西軍兵士が命を落とした。その遺体は、小千谷に送られ、のちに船岡山の墓地に改葬された。朝日山の戦場は、5月19日、信濃川を強行渡河した西軍が、長岡落城に成功すると、にわかに戦いの要衝としての位置を失った。東軍兵士たちは、朝日山の陣地から離れ、戦いの場は、蒲原の地へ移っていった。残されたのは、戦死した東軍兵士の遺体だった。 戊辰戦争が終わり、西軍が勝利すると、明治政府は遺体のとりかたずけを禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これを見た小栗山村(小干谷市大字小栗山)の福生寺住職や浦柄村の人びとが、昭和28年に戦死の地に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともに、この地に22基の石碑を建立し英霊を祀った。今も浦柄町には史跡朝日山を守る史蹟保存会があり墓地や史跡を大切に守り伝えている。 なお、戦死したなかに、会津藩白虎隊士新国英之助(16歳)がいる。この墓標は、戦後20数年を経て、父がその遺体を探しあてて建立したものである。小千谷市教育委員会