三国街道−2 



中山−塚原下新田今宿布施
いこいの広場
日本紀行
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三国街道−6


中山

峠に向かってなだらかな坂道をすすんでいくと茶屋ヶ松の三差路の左手に大きく「道祖神」と彫られた自然石とまだ新しい小さな双体道祖神が並んでいる。地名の「茶屋」は塩原太助の接待茶屋から来ている。かって太助が故郷をあとにして江戸に向かう途中、この辺りで喉が渇いたが水がなくつらい思いをした。晩年財をなして帰郷した太助は中山峠の茶屋主中野久兵衛に茶釜と年一両の代金を払って旅人を無料で接待するように頼んだ。その茶屋跡がこのあたりだったとのことだが標識などはみあたらなかった。草地に石ころが輪状に積まれていたのがその跡だろうか。

三差路のすぐ先で右に逆「く」の字の短い道がのこっているのは古道のように見え、通ってみたが特段古めいた道でもなかった。県道の合流点にそば屋があってその道向かいに
「三国街道なぎなた坂」史跡碑と聖護院宮道興准后(どうこうじゅごう)の歌碑がある。峠に至るこのあたりの坂道を薙刀(なぎなた)坂といった。

  
杖をだに 重しといとふ 山越えて 薙刀坂を 手ふりにぞゆく

道興准后は室町時代京都聖護院門跡をつとめた高層で、文明18年(1486)の6月から約10ヶ月間、京都から鯖街道経由で朽木・小浜へでて北陸路を柏崎まで、そこから三国街道で関東に入りはるばる奥州松島まで歩いた。その長旅を紀行文にまとめたのが、
「廻国雑記」である。すでに三国峠をこえたふくろう(吹路)の里でも一首詠んでいる。

峠が近づく。旧道の峠といえば熊が出そうな鬱蒼とした山道を想像するが、中山峠はなだらかな小野子山(1181m)と子持山(1116m)を結ぶ鞍部にあたり、牧場あり、ゴルフ場あり、国民宿舎ありの明るく安心できる峠である。

峠の右手が低い切通しになっていてガードレール越しに生える松が昔の峠の一本松を思わせた。ガードレールにそって細道がのびていて、ひょっとすれば旧峠道ではないかと思われ、たどっていくと民家にぶつかった。どうやら別荘に通じる私道のようだ。
中山峠にはなんの標識もなく、少々味気ない。

すぐ先を右にはいると1999年にオープンした群馬天文台に至る。1993年群馬県の人口200万人突破と1994年群馬県出身の日本初女性宇宙飛行士向井千秋さんを記念して建設された。

その先に斜め右に入る旧道があり、国民宿舎わらび荘の前を通って県道にもどる。

吾妻養護老人ホームの向かいから「中部北陸自然歩道」の標識があって、明るい雑木林の道がでているがこれが旧三国街道である。群馬バース大学キャンパスとノーザンCCゴルフ場の境を北に歩きレストランの裏側をすすむと県道との合流点に
「旧三国街道跡」の標識と三国街道の案内板が建っている。

いよいよ中山の集落にはいってきた。右手の「史跡 中山神社跡入口 是より70m」の標識が目にとまり、100mほど入っていったが整地された台状の畑にもその背後の林の中にも神社跡の手がかりはなかった。

美しい花に飾られた三差路がでてくる。手前左手の一段高い路傍に二体の道祖神が美しく広がる高山村のパノラマ風景を満喫しているようだ。

三差路を右にとって
中山本宿に入っていく。宿場は国道145号(日本ロマンチック街道)の本宿交差点手前に開かれた。左手に大きな赤松が立つ問屋兼本陣跡の平形本家がある。母屋・長屋門は大正12年の雷火で失われ、今は簡素な門が残るだけである。その先右手の青屋根宅前には「問屋 平形徳右衛門」の解説板がある。本陣とは別の問屋なのか。

本宿の開設は慶長17年(1612)で、その12年後の寛永元年にわずか500mほど西に中山新田宿が開かれた。新田宿の問屋本陣は平形分家である平形作右衛門家が勤めている。道筋は新田宿のほうが近道だったため客は分家の新田宿に流れるようになり、ついには本家と分家の間で客引き紛争にまで発展した。宿場でよく見られる上・中・下宿間での継ぎ立て分業方式はとっていなかったとみえる。

ロマンチック街道の新田交差点から北に向かって
新田宿がのびていた。高山郵便局の北隣に堂々とした長屋門を構えているのが平形分家宅である。表札には「平形作太郎」とあった。建物は門というには立派すぎて、説明板には「門屋」という表現を使っている。明治以降は中山郵便局として昭和41年まで使われていた。江戸時代末期の二階建て建物はセガイ造りで二階の手摺、一階の格子窓には清楚な品格がただよう佇まいである。

北側にそびえるケヤキは樹齢600年をこえ、高さ30mの巨木でみごたえがある。

街道は中山集落をぬけ、杉木立の中を進んでいくと、左手に
「街道一の清水」が現れる。小さな石造りの祠が正面に設けられ岩にかこまれた窪みには水が湛えられているが、飲用ではないという注意書きがあった。

街道は赤根トンネルの手前で左の前山林道にはいっていく。
右手に赤根峠に至る道が分かれている。道は細ってきて旧道の峠道の雰囲気が濃くなってきた。

まもなく、あずま屋があってその脇に
福守石(摩羅石)とよばれる石と名も無い丸型で中央に縦すじの凹みがみとめられる自然石が並べられている。右側のマラ石は男根、左は名をつけるほど明確でないが女陰を暗示しているとみた。

その先に
「塩原太助馬つなぎの松」がある。2年前に枯れた初代の松は寿命300年を越えた大木であったという。太助は18で江戸に出奔。愛馬「あお」をこの松につないで別れた。二代目の松はまだ植えられたばかりで、初々しい。

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塚原

馬つなぎの松からすぐ先が
金毘羅峠で高山村と旧月夜野町(現みなかみ町上津)旧の境をなしている。峠から右に古道が残っている。ここで初めて熊除けベルをリュックにぶら下げた。息子が小学校の卒業旅行の時フィラデルフィアで買ってきてくれた「自由の鐘」である。本棚に飾っていたものを妻が見つけて「これでいいじゃない」とリュックにくくり付けたものだ。女声のアルトでリンリンと落ち着いた澄んだ音色を出す。気恥ずかしくなって右手を後ろに回してベルを抑えると黙ってくれる。

轍が刻まれた道をしばらくいくと不動峠にでて石垣の上に小さな石宮が建っている。長岡藩主が幕末の嘉永6年(1853)旅人の道中安全を守るため建てさせた金刀毘羅宮である。ここから山道をおりていく。
金刀毘羅宮までの平坦な道とかわって、下り坂はけわしい登山道である。途中、二体の涼しげな顔をした野仏がたたずみ、大きな岩をぬう掘割状の道は野趣あふれる古道であった。

なにごとも無く林道に出た。中部北陸自然歩道の標識があって、「金比羅宮2.0km 村主神社1.9km」と示している。
九十九折の林道をくだっていくと左にはいっていく古道がのこっている。すこし入って様子をうかがったところ歩いていけそうだが、この先塚原にでるあたりで道はなくなっているとのことだったので、古道探索は断念した。その結果街道はおおきく迂回することになる。

林道を下りていく途中見晴らしの良い展望台があった。月夜野方面の眺望に近・中・遠の三景の山並みが美しい。やがて坂を下り終わると「名湖桃(なぐるみ)りんご」として知られる月夜野のリンゴ農園地帯にはいってくる。道路わきの手の届くところに色づいたリンゴがたわわになっている。空腹を満たしたい欲望をおさえて集落をぬけ、赤根トンネル前でわかれた県道36号に合流する。「
中部北陸自然歩道入口 アオと塩原太助のみち 環境庁・群馬県」と記された標柱があった。自然歩道はここまで。

県道を左折して塚原に向かうところ、右折して
村主(すぐろ)神社に寄っていく。鳥井の脇に樹齢600年、高さ25m、根元廻り15mというケヤキの巨木がそびえている。かってはこの樹下で流鏑馬の神事が行なわれていた。静寂の境内にたたずむ社殿は明治時代の建物だが、古社の風格をそなえた気品ある姿である。境内脇に傾いた道標があった。「北 月夜野道」「南 下津川田村道」と読める。県道253号方向の道しるべのようで、三国街道とは関係なさそうだ。

県道36号を西進、1kmほどで大きな
「塚原宿」の石碑が出迎える。台座に塚原宿の由来が刻されている。「塚原」はこの周囲に古墳が多いことから名付けられた。
宿場は十字路を左に折れ、ゆるやかな上り坂に沿って作られた。越後へ向かう道順としては逆をいっており、金比羅峠から林道を下って古道をいけば、塚原のどこかにでてくる。その出口に向かっている。

集落の西はずれ、田圃と山の境に池がある。その周りについている道もすこし山中にわけいった所に野仏などがありいかにも
古道のようだが、それではなく、山の西側に短く道の痕跡がのこるのが三国街道古道である。道跡は藪にはいって消失している。ここから後戻りをする格好で中山宿から峠越えの街道歩きを再現する。

古道跡からまわりをみわたせば青い山並みと黄金の稲田がすばらしい山里風景を描いている。道はおそらくこの田圃を直線的によこぎって宿場におりていったのだろう。

あぜ道をたどっていくと素朴な双体道祖神がY字路に立っている。「右 やま道、左 江戸道 足元」と、道しるべを兼ねているとのことだが、判読できなかった。浮彫仏の片方の顔が剥奪されている。コスモスの花が古い石仏をいつくしむかのようである。

そのY字路を右にとると坂の途中に
古墳のひとつが横穴を開けていた。この地域には数十の古墳が分布しているという。この道こそ古道にふさわしく思えてしばらく遡上してみたが、そのまま南に上がっていく林道につづいているようであった。

塚原宿は住民しか通らない道の両側に20軒ほどの民家がならぶのどかな集落である。人々は道のど真ん中で立ち話をする。右手に
旧問屋(原沢家)の家紋をつけた土蔵がみえる。江戸に向かう旅人は山越えを前に、越後に向かう旅人は川越えにそなえて身支度した。

宿場街から県道を横切り赤谷川へ向かって旧道の雰囲気がただよう坂道を下ってみたが、渡し場跡のような場所はみあたらなかった。川岸に沿った道は桃野発電所に通じている。このあたりに対岸の羽場に渡る弁天の渡しがあったはずである。土手の藪が深くて流れが見える隙間もない。

現在川を渡るには県道36号を後戻りして国道17号赤谷川大橋を渡るか、そのまま西に進んで国道17号の下新田交差点に先廻りするかの二通りしかない。対岸の渡し場と旧道を探るには戻ったほうがよさそうだ。

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下新田


赤谷川大橋をわたって押出交差点の先で左におりてできるかぎり川岸近くの農道を西に進んでいった。河川敷を運動公園にしたような広場で近所の老人たちがグラウンドゴルフに熱中している。その中の一人に渡し跡をたずねると「赤い屋根の家のところを左に曲がる」ところまでの情報を得た。

川岸近くに
最勝王経塔と二体の野仏がたっている。そこを右折し、土手下の草道を進むと藪に突き当たって途絶えていた。土手にあがるとやっと川面をみることができた。川幅は思ったより狭い。治水をすすめると川の水量が減って草が繁茂する。

畑に出ていた近所の民家の主人に話を聞くことができた。まちがいなくこれが旧三国街道で、ここに
弁天の渡し場があった。二人で土手に上がって向こう岸をみわたしながら、
「塚原宿からはけっこうはなれてますね。普三国街道通、宿場と渡し場は直結しているものですが」
「ここから師田(もろた)へ渡ってそこから土手沿いに塚原まで道があったのです。最近までここに橋があったのですよ」

ここから国道17号を横切り廻戸(まわっと)にはいる旧道を教えてもらった。一仕事をした感じで気分がよい。

おとなしい犬が留守番をする一軒家の前を通り国道17号を斜めにわたってすぐ先のガードレールのある急坂をあがっていく。国道路肩に「三国街道」の矢印が旧道の道筋を示している。

三差路に立派な石碑がある。右におれたところで迷い込んだ。椅子に腰掛けひなたぼっこしているおばあさんに旧道をきくと、ここではない。もっと上の方にいっているとのこと。

この地域は赤谷川を底に幾重にも段丘がかさなる地形をなしている。河川敷から一段上に国道17号と沿線集落。国道から一段高い所に今いる(というより、この段丘を削って新国道をつけたのだろう)。さらに山側に高みがつづいているのだ。大きく国道からそれて結局花ノ木、反町、村草の集落を彷徨して下新田の塩原太助記念公園横に降りてきた。
それが旧道であったかきわめて疑わしい。

太助のことはすでに中山峠の茶屋跡、金比羅峠の馬つなぎの松で、大方の話は聞いていた。ここが彼の故郷である。下新田にうまれた塩原太助(1743−1816)は18歳で村を出た。愛馬「青」との別離は涙をそそる。江戸本所で炭商人として成功し財をなした太助は、公益事業に私財を投じた。

国道沿いの一角に「太助の郷」と銘打って
「太助記念館」「塩原太助翁記念公園」が設けられ観光客の足が絶えない。白壁土蔵の太助記念館前には下新田宿の高札台石が置かれていた。太助の郷の案内板に「上毛の五偉人」が記載されている。
武将・新田義貞(1301〜1338)、数学者・関孝和(1637〜1708)、商人・塩原太助(1743〜1816)、奇人・高山彦九郎(1747〜1793)、教育者・新島襄(1843〜1890)と、バラエティに富んだ顔ぶれである。

記念公園には渋沢栄一の筆による巨大な記念碑と別れを惜しむ太助とアオの銅像が建っている。

駐車場入口に「三国街道」の標識がたっていて、一方は山側から降りてきた道をしめし、他方は記念公園前の細道を示している。念のため公園前を廻戸方面にたどっていったが、家並みがきれたところで、田圃のあぜ道に化していた。耕運機を運転するおじさんに聞くと、この道は単なる農道で、旧街道は上を走っていると、山側を指差した。どうも話が混乱している。

下新田には本陣がなく、
問屋だけが残っている。さきのおじさんがその場所を教えてくれた。国道沿いの太助生家の隣である。
太助の生家は入口に標柱が建っているだけで、家自体はL字型の普通の民家である。
問屋跡は表札に「原澤」とあった。塚原宿の問屋と同姓である。蚕室だろうか、屋根の一部が開かれて窓が設けられている。一階の縁側が印象的な雰囲気のある佇まいである。

国道を西に歩く。唐門風の洋館が面白い。

集落の西端ちかくに松の大木と長い赤トタン屋根の塀が目を奪う。塀に取り付けられた長文の説明によると、建物は但馬院という寺で、前身は中世時代の諏訪の木城とよばれた城であった。中に観光客を招く風でもないが、存在だけは知って欲しそうな空気が流れている。

その道向かいに隠遁者の庵みたいな茅葺の家が竹林に身を潜めて建っている。これもおもしろい風景だ。


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今宿

今宿は下新田宿と布施宿との間に設けられた小さな宿場で、両宿場との距離も短い。家並みに昔の面影はない。本陣はなく、
問屋だけがあった。道ですれ違った婦人に問屋を聞いた。宮崎家がそうで元郵便局だったという。軒を大きく出した出桁セガイ造りの家で、ハーフティンバーの二階には大きな窓が切ってある。養蚕農家だったようだ。隣接する西側は空き地になっていて、石燈籠や石台などが放置されていた。ここも宮崎家の敷地内か。

婦人の話では、今宿は下新田、布施の宿場が整備されて後、段丘上にある
池之原から移ってきた新しい町だから、「今宿」という名がついた。赤谷川の川原で馬の市が立った、という。そのためにできた町かもしれない。
池之原はさきほど旧街道を求めて廻戸から山手へはいり通ってきた道の西方延長上にあり、土地の人が言う旧三国街道筋にあたる。

下新田から布施まで、旧宿場集落は国道沿いにあったことはまちがいない。現に太助の生家も問屋跡も国道沿いに残っている。他方で、旧道道筋を訊ねた人たちが口をそろえて、もっと山側を通っていた、という。つまり、段丘を削って現在の国道の道筋が造られそれに沿って宿駅が整備される以前から、山の手に中世時代の街道が通っていたということであろうと思われる。ということは、江戸時代の街道はこの国道17号でよいということになり、私のいう「旧道」は国道17号であったということか。まだ釈然としないが、もうよそう。

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布施

今宿橋で赤谷川をわたり、その先支流の須川川をわたると布施宿集落に入る。

布施観音の案内標識があったので条件反射的にそちらに向かった。丁字路角に扉を開けた小堂があり、中に三体の仏像が安置されている。旅で寄っていく殆んどの寺院で、特別開帳という稀な偶然にあわないかぎり、国宝は言うに及ばず県、市町村指定文化財でもそれらの仏像や文化財をみることはできない。いつも、ガイドブックにある文化財はこの中にあるのだと言い聞かせながら本堂、本殿などの建物を撮っておしまいとなる。いつまでたっても仏像になじめない理由の一つだ。

布施観音は開放的だった。

布施は白壁土蔵のある屋敷もみられ下新田や今宿にくらべれば旧街道の景観がのこる町並である。観音をみた帰り、路辺で談笑しているおばさんたちに、問屋の在処をたずねた。

「交番の次の次だよ。おばあさんが一人で住んでる。」
「苗字はなんですか」「梅沢さん!」

今宿の宮崎家とおなじで、こちらも大きな二階建てで、造りが互いによく似ている。イギリスでよくみかける柱や梁桁を露出した趣味的住宅建築である。レンズを向けていると婦人がちょうど家にはいっていくところだった。おばあさんより若い。また、庭には立派なワゴンが止まっている。おばあさんがひとり住まいしている佇まいには見えなかった。

白狐沢(びゃっこさわ)川をこえたところで左の
旧道にはいる。みちなりに段丘を上がっていって匠の里、須川にはいっていく。


(2008年10月)

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