塩原太助翁記念公園 下新田 みなかみ町 利根郡 群馬県
塩原太助翁小伝   塩原太助は寛保三年二月三日に生まれ、幼名は彦七、父は塩原角右衛門、母は「とめ」と云いました。 或る日江戸に出て、身を立て、家を興そうと父に願いでたが許されず、ついに、或る朝未明に草刈に出かけるように装って日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。 この時「あお」をつないで別れた(別れの松が香才ケ原にあります)時に宝暦十一年八月二十日途申榛名の御師の山本坊に寄り僅かばかりの旅銀を借り受け江戸に出ました (太助十九歳の時でした)。 江戸に出ても奉公ロを探すことが出来ず、ついに思い迫って死のうと決心し、神田昌平橋から身を投げようとしました。その刹那「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門であります。太助はここで奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝ました。他の奉公人の休む暇には穿き古しの、はき物の鼻緒などをすげ替えておいて俄の場合の役に立たせ落ち散ってある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵のつくろいなどに使いました。 この様にして、奉公人の鑑とまで感心される様になりました。また翁は山ロ屋に奉公して五年目に、翁が毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂の改修、晩年、中山村の反峠に渋茶の接待所、伊香保より榛名神社に通ずる、天神峠に常夜燈を建て往来の者の便を計りました。このようにして公益事業に巨費を投じたのです。翁は山口屋に奉公したのが、実に、二十三年、その間まめまめしく良く勤めついに本所相生町に店を構え巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分となって、「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われる様になりました。翁は文化十三年閏八月十四日七十四歳で没せられました。 
       塩原太助翁生誕二五〇周年記念事業実行委員会