吹路(ふくろ) みなかみ町 利根郡 群馬県
沼田市から国道17号を北に向かい、県境の三国峠にさしかかろうとする一帯が吹路の集落。江戸時代に江戸と新潟を最短距離で結んだ「三国街道」の街道筋とあって、新治村は多くの民話、伝説、故事に彩られているが、「吹路」という一風変わった地名にも言い伝えが残る。同村文化財保護委員会の見城孝司さんによると、「応仁の乱」が終息したばかりの1480年代に左大臣、藤原房嗣の三男に道興という人物がいて、諸国回遊の旅を思いたち京を離れた。道興の書いた紀行文「廻国雑記」に、越後から上野に山を越えた所として「ふくろうの里」の名前が出てくる。紀行文には「ふくろうといへる里にて。ねざめに思いつづけける」と記した後で、「この里のあるじがほにも名乗るなり深き梢のふくろふの声」と、短歌が添えられている。県文化事業振興会発行の「上野郡村誌」にも「梟鳥村ト称ス、後転訛シテ吹路村」と記されている。このことから、見城さんは「フクロウの鳴くような地というところから生まれた地名ではなかろうか」と推測する。「梟鳥村」がいつのころから「吹路村」と呼ばれるようになったのかは、はっきりしない。ただ、江戸時代初期に街道整備が行なわれ、三国街道も主要幹線の一つになったのだが、見城さんは「それ以前、上杉謙信らの軍勢の三国越えは、もうすこし違ったルートではなかったか」と思っている。その後、江戸時代に整備された三国街道では「吹路」よりも峠近くに「永井」という集落があり、越後米取り引きの市が立つ場所として栄えた。しかし、歴史をさかのぼると、古くから「ふくろ」の名前が出てくるのに対して、「永井」は「駅設置起源については明らかでない。貞享3(1686)年ごろまでには宿の形態を整えたと考えられる」と記録されていて、比較的歴史が浅いのではないかと思われている。見城さんは、この関係から、梟鳥から吹路に地名が変化した当時はまだ、「永井」が存在しておらず「上州最後の集落という意味で袋小路を意味する「吹路」の字をあてたのかもしれない」と漢字名の書き換えの由来を分析している。この地名を愛する同所、自営業、佐藤辰雄さんは自費で歌碑を建立し、由来を伝えようと歌碑を守り続けている。