三国街道−4 



浅貝−二居三俣湯沢塩沢六日町
いこいの広場
日本紀行

三国街道−1
三国街道−2
三国街道−3
三国街道−4
三国街道−5
三国街道−6


浅貝

新潟県側の登り口は三国トンネル出口のすぐ北側にある。石ころを積み上げた上に文久3年(1863)の小さな馬頭観音がたたずんでいた。国道沿いに大きな駐車場が設けられていて、ハイカーたちに便宜をはかっている。三国トンネルは標高1076m、長さ1218m。昭和34年に開通した。上州(群馬)・信州(長野)・越後(新潟)の三国の境という意味で名付けられた三国峠だが、実際の三国境はここより直線にして10kmほど西方の白砂山北面にある。

雪除けを通り抜ける。右側は浅貝川の深い谷だ。浅貝川は三国トンネル上の西側に源を発し、清津川となって越後田沢で信濃川に合流して日本海に注ぐ。トンネルからおよそ1kmほど国道を下ったところで右側に細い道が谷に向かって出ていた。国道と高低差をますます広げて三国峠に向かっている。これが三国街道の旧道で、途中に、旅人が履き替えたわらじを掛けた松だという「わらじ掛けの松」がある。

旧道は500mほど進んだところで消失している。三国トンネル工事の際に土砂で埋まってしまったそうで、以前は旧三国峠につながっていた。旧峠から30分ほどで新潟側に下りられるというのは、三国トンネルができてから作られた近道で、途中のどこかで失われた旧道との分岐点があるのであろう。群馬県側にも旧峠から30分ほどでトンネルの入口付近に出られる道はある。峠だけを歩くなら1時間ほどで越えられるのである。

浅貝宿に着く。宿場入口の右手に旧本陣・問屋であった
本陣旅館が建っている。建物は大名玄関を残すのみだが寛永12年(1635)に浅貝宿に本陣が設けられて以来の超老舗旅館である。経営者は浅貝宿の本陣のほか問屋・庄屋も勤めた旧家綿貫家で、現在当主は18代目。本陣設立以来現在も旅館として所有者も変わらずに経営されているのは、極めて稀な存在ではなかろうか。当主による詳しい案内板があった。

本陣旅館の手前に峠に向かってY字路があり、左手に
「旧三国街道」の立て札、分かれ目に大きな観光案内図板が立っている。案内図によれば旧三国街道はトンネル口からの自然歩道と合流して峠まで続いている。先ほど見た、トンネル工事で埋められたという旧道とは別のものだろうか。

旧街道にはいったすぐ左手の奥まった一角に小さな祠や鳥居が集まっている。左から、妙見社、十二神社、薬師堂で、中央に建つ十二神社の狭い堂内に数人の善人が集って談笑している。説明板に
「8月27日に三国権現様の祭りの時に参拝する」とある。偶然にも今日がその日だった。

旧道をさらに入ってみたが間もなく別荘地に入ってしまった。別荘地帯をぬけると国道に合流する。

浅貝宿は三国峠をこえた越後側最初の宿場で、次の二居・三俣をあわせて
三国三宿と呼ばれた。今も浅貝・二居は南魚沼郡湯沢町大字三国に属する。昭和60年(1985)関越自動車道が開通してからは上越の交通要衝としての地位を失い、かわってスキー場を中心とするリゾート地として賑わうようになった。特に浅貝は広大な苗場スキー場を擁し近代的なホテルがそびえ、古びた街道の面影は見当たらない。シーズンオフとあって街は閑散としている。

苗場スキー場入口信号の先で旧道が左に出ている。
火打峠をこえて二居にいたる旧道だが火打峠の手前で行き止まりになっていて国道につながっていない。三国小学校の南あたりが旧峠のようだ。国道17号の小学校前に「火打峠」の標識が立つ。

国道をしばらく歩いていくと右手に「越後三国街道 
元橋茶屋跡」の案内板が立っている。浅貝宿と二居宿のほぼ中間に位置し、昭和40年までここに茶屋があった。すぐ先に右へ入る道がある。これが旧道で大川沿いに山鳥原公園につながっていたらしい。今は工事現場の空き地になっていて立ち入ることができない。国道を緩やかに下っていくと、右手に二居大川橋が現れ、渡った所に山鳥原公園がある。

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二居

現代的な茶屋が建てられていて、その背後に元橋に向かって石畳の道が復元されている。大川の清流では鮎、岩魚が捕れるのであろう、茶屋の道向かいには釣り人相手の店が設営されていた。

山鳥原公園から二居宿まで旧道がのこっていておよそ2.5kmほどの自然歩道が整備されている。別荘地に向かって車道を上がると左手に通行止めされた自然歩道がでている。林の中の散歩道をあるいていくと左に展望が開けてくる。ほどなく車道に合流するが再び杉林の遊歩道にはいる。道端に優しい顔をして両手をあわせる
野仏がたたずむ。文化14年(1817)の銘が認められる。

杉林をぬけると明るい自然歩道となりやがて国道からわかれてきた道と合流し、野仏がたたずむ地王堂川をわたって二居宿にはいっていく。
国道沿いにまだ新しい
「三国街道二居宿 宿場の湯」が建っている。休憩所、食堂、土産店、日帰り温泉をかねた施設で、駐車場には10台ほどの車が留まっていた。

二居の集落も二居、田代スキー場のための旅館街だが観光客の姿はみかけない。集落のなかほどの三叉路あたりが宿場の中心であったのだろう。左側の郵便局の前に
「三国村道路元標」があった。二居は三国村の中心だった。

街道向かいに
元本陣の富沢旅館が保存されている。戊辰戦争で焼失したのち明治2年、本陣当時の形で再建された。富沢家は慶長14年(1609)以来、庄屋・問屋・本陣役を勤めた旧家である。 ひそやかな二居宿の道をあるいていくとY字路につきあたる。「見晴屋旅館」の案内札と向かい合って「トレッキングコース 二居峠」の標識が立っている右の細道が旧道である。

見晴屋旅館の前で車道は途絶え、登山道が山中に消えていった。坂上からおじさんが下りてくる。どうやら見晴屋旅館の主人のようであった。二居峠をこえていきたいが、熊は出ないかとたずねると、確信にみちて「大丈夫だ」と返ってきた。「毎日のようにこの道をあるいているが、まだ見たことがない」「熊がでるのは春と秋の食べものが少ないときで、夏は出てこない」そうだ。

低い草に覆われた山道を上り始める。すぐ右手に赤い鳥居が現れる。右に左におれながらきつい勾配を上っていく。途中に山道のあいまいな丁字路にさしかかるがそこに立つ標識の「貝掛温泉バス停」の矢印に従っていく。やがて最後の階段を登って峠に着く。草地に案内板が立つだけのあっさりした峠である。振り返ると国道17号が中央に延び左下方にわずかに二居の集落が見えた。三国峠はどの辺なのか、連邦の山並みが美しい。

息を整えて下りに入る。峠の頂で林道が旧街道と直角に交わっている。ひとしきり急な坂を下ったところで再び林道と交差した。二居峠は車で入り込める峠である。峠の案内板にあったようにここは二重峠で、二こぶのラクダの背をいく山道である。道のりはさほど長くないが二山越えなければならない難所である。

鞍部から再び二つ目の峠をめざして上っていく。滑らかだった道がしだいに荒れてきて石が目立つようになってきた。
日向の石畳と呼ばれる旧道の名残である。明治初年(1868)に三国街道が国道に編入されて道路改良が行われた時に敷設されたものだという。江戸時代の街道が新時代の国道となった。この機会に舗装しようではないか、となった。

石もなく草もないやさしい道にもどるとやがて前方に車両進入禁止杭がみえてくる。
中の峠である。大正の時代までここに一軒の茶屋があり、キノコの吸い物と甘酒を提供した。両側は背の高い木が茂り見晴らしがまったくきかない峠である。腰掛もなくすぐに降りていくしかない。

下り坂は急で見る見るうちに国道のレベルに降りてきた。国道には出ないで、出口直前で右に曲がっていく。念のため国道への出口を確認しておくことにした。入口に「旧三国街道 二居峠登口」の標識とともに「出没注意」と書かれた警告札が立っている。熊は季節を問わず出てきそうな気がしてきた。

旧道にもどる。すぐに沢にかかる橋がある。渡って左にまがり国道のガードを潜ると、そこにも右手に国道への出口がある。旧道は左に曲がって最後の山道をそのまままっすぐに進み、ほどなく貝掛温泉入口にさしかかる。

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三俣


丁字路の角に地蔵がたたずみその脇に貝掛坂の立て札が置いてある。そこを左に下りていくと貝掛温泉だ。旧街道は直進して三俣スノーシェッド前で国道に合流する。

清津川にそって国道を下っていくと、白馬の看板をかかげた「ホワイトホースインかぐら」を挟んで道が左右に分かれている。右にはいるのが旧道で、三国三宿の最後三俣宿に入っていく。二居にくらべ旅館の数は多く、旧道と国道に沿って満遍なく軒を連ねているが、国道沿いのハイカラなカタカナ名にくらべ、旧道に並ぶ旅館は「○○屋」といった昔風の屋号が目立つ。

そんな中でも往時の佇まいを今に残す
脇本陣跡池田家旅館は三俣宿の貴重な証人である。池田家は脇本陣・問屋として勤めた豪家であった。外観は決して豪華ではないが雪除け板で囲われた堅牢な造りは360年の風雪に耐えてきたいかにも雪国の建物である。


旧道沿いには他にも古い造りの旅館が残っている。
旅館越後屋も脇本陣で、塩沢の越後縮を扱う江戸の越後屋(三越)の定宿となっていたことから後に暖簾を分け与えられ越後屋と名乗ることを許された。その二軒先にあたる空き地が三俣宿本陣関新右衛門宅跡で、石垣だけが残っている。

宿場も終わりになるころ左手に大きな地蔵と記念碑があった。大正7年に起こった大雪崩で、158名の住民が犠牲となった。出口近くに「三国街道三俣宿 街道の湯」がある。どの旅館街でも一軒このような日帰り温泉場を設けているようだ。


旧道は八木沢トンネルの手前で国道の下をくぐって清津川淵の岩鼻雪覆道を通り抜け、八木沢集落に入る。入口に
口留番所跡がある。荒戸城の防衛のために三国街道に設けられた関所であった。


小さな八木沢集落をぬけ国道にもどる手前で左の山中にはいっていく
旧道入口がある。といっても舗装された自動車道で、芝原トンネル開削以前の旧国道であろう。現在は林道のようなもので、途中山菜取りに来た車2台とすれ違っただけだった。


旧道に入る前に国道に戻って東京から
200km地点をさがすことにした。国道17号は日本橋を起点として高崎まで中山道と重なり、そこから三国街道として長岡に至り、終点新潟市中央区本町通七番町まで、新潟と東京を結ぶ総距離351kmの幹線道路である。その200km地点がこの付近にあるはずだと踏んでいたがキロ標識が一向に出てこない。バス停に車をとめて歩いてみると、縁石に数字がペンキ塗りされていた。これは最も容易な方法による新しいバリエーションである。

旧道は蛇行する山道を登っていく。芝原トンネルの上の
芝原峠で道が二手に分れている。右をとる。

峠をおり始めたところで右手に
荒戸城跡の標識があり、駐車場に絵入りの案内板が立っている。上杉謙信の死後天正6年(1578)に起こった跡目争い(御館の乱)で、謙信の養子でありその跡目を継いだ上杉景勝が同じく養子の上杉景虎を援護する小田原北条軍を阻止するために芝原峠に築かせたものである。空堀・土塁などの遺構が残るのみであるが、小規模ながら堅固な山城であったという。

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湯沢

道は再び大きなヘアピンカーブを経て
芝原トンネルの湯沢側入口に出た。車止めが置いてあり、「関係者以外立ち入り禁止」とあった。八木沢から入ってどこからか、立ち入り禁止区域を通りぬけてきたことになる。国道にでてから最初の180度のカーブを降りたところで左手に次のヘアピンカーブを端折る旧道があった。

静かな芝原集落をぬけて国道にでたところで旧道はそのまま国道を横切ってゆく。旧道にはいったところに石仏が集められている。道路の中央線にみえるのは融雪装置である。眼下には変化にとんだ山並みの底に湯沢の町が覗いて見える。美しい山里の風景である。


旧道は一旦国道にでるがすぐに右に出ている県道351号に入る。七谷切(ななたきり)集落をぬけ国道17号の高架手前に
「旧三国街道」の道路標識がたっていた。この県道はその後大規模なリゾート開発地域を通り抜けて湯沢の町に入っていくがこの一帯にかけては旧道の痕跡は失われてしまった。


県道は坂を下りきっていよいよ湯沢の温泉旅館街にはいってくる。湯沢は三国街道の宿場であり古くからの温泉街として、川端康成がノーベル文学賞を受賞した「雪国」の舞台ともなった古き時代の旅情豊かな街であった。近年、大自然を活かしたスキーやトレッキングの一大野外観光地として発展をとげ、街の景観は高層のリゾートホテルやマンションの建設で大きくかわり、かっての鄙びた詩情を味わうことが難しくなっている。

旧街道(県道351号)は熊野神社参道をこえたところのY字路(直進は県道462号)を右折して上越線の
「三国街道踏切」をわたる。旧道はツナギ川の北側に沿って150mほどすすみ石白橋の北詰で県道に合流して左折する。

ここから北に向かって湯沢宿が延びていた。湯沢宿は上宿と下宿にわかれ、半月交代で宿役を勤めていた。駅前交差点が上宿の中心であった。湯沢上宿の本陣跡は湯沢駅前交差点をこえた右手の湯沢町公民館の敷地にあり、
旅籠村松屋の高橋助右衛門が本陣、問屋、庄屋を兼ねていた。街道筋には宿場町を偲ばせる建物や旧跡を見出すことはできなかった。観光客は線路をはさんだ旅館街に集中して、一筋はなれた旧街道筋には人影が殆んどない。

上善如水を造る安政2年創業の
「白滝酒造」の付近に旅籠風の建物が一軒見られた。そこで道がやや曲尺手状にゆがみ道幅も細くなっている。このあたりが下宿であろうか。

湯沢の町は宿場よりも雪国・駒子に対する意識のほうが高い。その跡を追う。

楽町交差点を左折して湯沢小学校の前にでると主水(もんど)公園がある。御館の乱で景勝側について活躍した樋口主水助の居館跡である。園内に
川端康成の文学碑が建っている。

  
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった 夜の底が白くなった

公園前を右折して線路を潜り抜け西側の県道462号にでる。駅の東側よりも旅館、ホテル、商店などが立ち並び活気がある。すぐ駅よりにある
歴史民俗資料館の「駒子の部屋」をたずねる。駒子のモデルといわれる芸者、松栄(まつえ)が住んだ置屋「豊田屋」を移築し再現したものである。漆喰のように白い横顔をみせて火鉢に手をそえた駒子が障子窓を開いて昭和初期の湯沢の町並を眺めている。

  
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。

県道462号を駅と反対方向に進んでいくと、トンネル手前の丘の上に湯元
高半旅館が湯沢の町を見下ろすようにたたずんでいる。800余年前、越後新発田の郷士高橋半六が偶然この地に温泉を発見した。以来、代々高橋半左エ門を襲名する老舗旅館は多くの旅人、文人墨客を受け入れてきた。昭和9年から昭和12年にかけて川端康成が逗留し、「かすみの間」で『雪国』を執筆した。昭和31年秋から翌春まで、高半を舞台に映画「雪国」が撮影された。配役は島村(池部良)、駒子(岸恵子)、葉子(八千草薫)。

フロントに声をかけ、エスカレーターで二階に上がるとそこは博物館のようにしつらえてあった。整頓された和室「かすみの間」のほか雪国関係の資料が中心だが、そのほか三国峠に建つ三国権現堂の扉や、荒戸城の欄間など歴史文化財も保存されている。外へ出て新幹線のトンネルの上から湯沢の町を振り返る。町の景観は様変わりだが上越の国境につづく山並みだけは駒子がながめた景色と違っていないだろう。

来た道をすこし戻り、線路の反対側へ出て県道351号の旧街道にもどる。途中、
「駒子の湯」があった。三国三宿でみた「街道の湯」「宿場の湯」と同様の日帰り温泉施設である。街道にもどったところに下湯沢公民館がある。このあたりが下宿の中心であろう。

北にむかい湯沢の宿を後にした。思えば湯沢で撮った写真は雪国関係ばかりで宿場の風景が一枚もない。しばらく行くと国道17号に合流し、少し先の「ゆざわ健康ランド」の前あたりで右の旧道へ入る。途中の二股をいずれも左にとって上越線の線路をくぐりぬけ、堀切集落のゆるやかな坂を上りつめたところで国道17号に出る。手前の石垣に素朴な顔つきの石仏が並んでいた。

旧街道は国道を斜めに横切るのだが、この地点が南魚沼郡湯沢町と南魚沼市との境をなしている。

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「南魚沼市」の標識がたつ横断歩道で国道を横切って、「ホワイトイン茶屋」の先で左の旧道に入る。杉木立がまばらに残っているのは旧道並木の名残りであろうか。旧街道はすぐに草道となり右から来る車道の手前で通行止めとなっている。草むらに石仏が打ち捨てられたようにあった。階段をおりて車道へ出る。リゾートホテルやスキー場の駐車場を通りぬけて国道に合流する。

立体交差する道の入口からすぐに右にでている細道が旧街道である。国道から魚野川まで降りていく1kmほどの下り坂は
「赤坂の難所」といわれた急坂であった。ホテルの裏側からつづく林の中をおりていくと魚野川にそって走る上越線に接近して踏切をわたる。

平地の集落にはいってくると、右手に大きなワラジをいくつもぶら下げた小堂が建っている。
子の権現といい、ワラジを供えて旅の安全を祈願したことにはじまり、転じて足の病気や怪我を治す地蔵と信仰されるようになった。ここに限らず各地にあるようだ。

民家のとぎれめに今度は身の丈ほどもある大きな庚申塔と二体の地蔵が並んでいる。
堰場地蔵といい、後味がすっきりしない民話が伝わっている。

今から400年ほど前のこと、農地開発のため魚野川から水を引き入れてここに大堰をつくったが、毎年のように洪水で大堰は壊され修理のために農民たちの暮らしはかえって苦しなった。あるとき三国街道を旅する僧が訪れ、村人に築堤技術を教え「人柱を立てると堤防はいっそう丈夫になる」と言って立ち去った。村人は人柱を立てることを決めたが犠牲になるものがいなかった。そこで協議の結果言いだしたものを人柱にすることになり、旅の僧をつれもどし土中に立たせた。それ以来、大堰が崩れることはなくなり、村人は感謝を込めて僧を弔う石地蔵を建立した、と。

国道17号を横切り丸山スキー場の民宿街へはいっていく。街道の両側はスキー宿が軒を連ねている。上越線を越えた山手側には山小屋風のモダンなロッジが点在してみえる。今は誰もいないこの旅館街が雪の季節には客で埋まると考えれば、スキーというレジャーのスケールの大きさを知らされる思いだった。

石打駅入口まで、微妙に蛇行してのびる道はいかにも自然な昔道の趣があって歩いていて心地良かった。雪対策であろう、玄関を高くした建物がめにつく。ガラス窓の外側には取り外しができる雪除けの横板がわたされていて、雪国の風情を感じさせる。

関宿は石打駅前交差点から北に向かって数百メートルの小さな宿場であった。宿場入口にある
五社大明神の境内では頭を丸めた子供たちが野球に興じていた。左手には庚申塔などが集められている。右手のブルーシートで覆われているふくらみは奉納相撲の土俵だそうだ。江戸時代、宿場に集まる力自慢の馬方衆が土俵でその強さを競った。今も9月1日の例祭には地元の相撲教室の小学生や高等学校の相撲部などがここで技を競う。

関宿にかっての面影はない。道端で立ち話をしているおばさんたちに本陣や
問屋のことを聞いたが浅貝の本陣宿はしっていてもこの宿場のことは誰もがしらなかった。すこし先で玄関からでてきた古老にたずねると、ここが問屋だよと、今は店を閉めて転居した空き家を指差した。


関の集落をぬけると田植えを待つ黒々とした田園が広がっている。左手には雪を残した山並みが絶えない。上一日市(かみひといち)−下一日市−君沢−南田中と、ゆるやかなカーブをつづけてのどかな田園地帯をぬけていく。家々の建物こそ風雪に耐えるべく、新しく丈夫なものに建替えられてはいるが、路傍には庚申塔、ニ十三夜塔、地蔵、野仏、お堂など、昔の村落の住民たちが昔の姿で立ち続けている。今回の旅で最も街道歩きを楽しませてくれた道であった。

砂押の観音堂を経て「上越国際スキー場」の大きな看板が立つ砂押交差点の先で国道に合流、すぐに川を渡った竹俣交差点で国道の東側の旧道にはいって塩沢をめざす。

関越高速道をくぐり目来田交差点で国道に合流する。赤坂以来のひなびた旧道はここでおわり、湯沢につぐ観光の町塩沢に入っていく。

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塩沢

国道目来田信号から塩沢宿を通る旧街道(県道365号)に入るまでの旧道は失われているようだ。目来田信号から国道を北に進み塩沢小学校入口信号の先で左の小道に入る。すぐにぶつかる広い道が県道365号である。この道は旧国道で、石打に残っていたような古い道でない。市街地は区画整理されているようで、不自然な道のつけ方が気になった。沿道の景色も新しい。

駅前交差点から突如宿場町が復活したような家並みが現れる。町興しとして雁木造りの江戸情緒がただよう商店街が作られた。白壁蔵造り風、チューダー風出桁せがい造りと、徹底した復元でなくて一歩手前で引いた復古調にとどめているところがなんともはがゆさをかんじさせて、かえって未練を残す街並である。建物がみな美しすぎるからかもしれない。マップによると商店街の最後のほうにある
塩沢郵便局の隣が本陣跡となっている。その場所には永禄11年(1568)創業というおそろしく古い大塚薬局が立派な店を構えているが、あたりに本陣跡をしめす標識類は見当たらなかった。その角を左に曲がって線路の方向にむかうと鈴木牧之記念館がある。

鈴木牧之は明和7年(1770)塩沢の縮仲買と質屋を営む商家に生まれた。幼少より学才にすぐれ文筆、書画、俳諧、詩作を通じて当時江戸で活躍した滝沢馬琴、山東京伝、十返舎一九、谷文晁、狩野梅笑、市川団十郎らとの交遊を楽しんだ。彼の代表作『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』は雪国越後の民俗、習慣、伝説、産業について詳述したもので、発案から出版まで40年近くかかった大事業である。天保8年(1837)に山東京山(京伝の弟)により開版され、たちまちベストセラーとなった。当時、絵草子や洒落本、勧善懲悪の読み本、人情本、滑稽本など、娯楽性の強い読み物が一般的であったなかで、民俗学的硬派のドキュメンタリーものが大衆に好まれたことは異例の出来事であった。

記念館の前庭に、昭和44年牧之生誕200年祭記念として建立された
文学碑がある。碑文は『北越雪譜』中の「越後縮」からとっている。雪上に晒すのが越後縮の命で、極寒の農閑期に行なう女性の仕事とされた。「魚沼郡の雪は縮の親といふべし」と牧之は言っている。商店街の本屋に立ち寄って『北越雪譜物語』(田村賢一訳、新潟日報事業社)を買った。川端康成も『雪国』執筆に当っては『北越雪譜』を大いに参考にしたらしい。

記念館から塩沢駅に通じる道にある
「塩沢つむぎ記念館」に寄った。その傍のつむぎ小路と名付けられた路地には木造の織物工場が集まっていて、ガラス窓に横板塀の建物からは乾いた機織る音が聞こえてくる。宿場商店街とはまたちがった郷愁をそそる一角であった。

駅前通りにでる。
金城閣という朽ちかけた木造三階建ての和風旅館が残っている。左におれて先ほどの旧道交差点に向かう。この道は山道小路とよばれて、正面に見える雪縞模様の巻機山が美しい。

交差点をそのまま越して最初の辻に
中田屋織物工場がある。板看板には「重要無形文化財・技術保存協会員 越後上布  通商産業大臣指定・伝統的工芸品 本場塩沢・塩沢紬 」と誇らしげに筆書きしてある。「越後上布」は千余年の歴史を持つ魚沼地方の特産品で、塩沢はその中心的存在であった。

工場の横を通り抜けて来清寺の裏側にでる。庭か畑の一角が窪み壁面が石積みされている。雪穴といい、夏の冷蔵用に冬の雪をここに貯蔵した。冷蔵庫の普及とともに利用が途絶えた。塩沢で唯一の
雪穴跡だという。

県道にでて交差点にもどる。8の字形に町を散策したことになる。小さいながら変化にとんだ見せ場を設けていて、愛らしい町であった。

ここから二ヶ所寄り道をする。一つは塩沢スキー場。ここのリゾートホテルが妻の絵画研修旅行宿泊地になっているのだ。県道82号を上って山の中腹にある。あいにくの曇り空で遠景の山並みはかすんでいたが、眼下にひろがる棚田の最も美しくみえる場所を写生用に取った。妻を送りとどけて次の寄り道に向かう。

JR上越線の駅でいえば塩沢駅から一駅もどった「上越国際スキー場前駅」の北側に樺野沢という土地がある。その小山に南北朝時代鞠子城といわれた山城があった。後に樺沢城となって、戦国時代に長尾景虎(後の上杉謙信)が越後を平定すると姉婿である坂戸城主長尾政景に樺沢城の改築を命じた。城郭を帯曲輪が二重に取り囲み、中腹以下を三重、四重に空堀と土塁が取り巻く堅固な山城が築かれ、城下には家臣の屋敷が建てられ、屈強でしられる上田庄(南魚沼地域)の土豪、上田衆を住まわせた。

長尾政景に嫁いだ上杉謙信の姉綾御前は樺沢城に居て、結婚5年目の弘治元年(1555)男子卯ノ松(のちの
上杉景勝)を生む。2009年NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続の主君となる人物である。

景勝は永禄7年(1564)父長尾政景が死去し上杉謙信の養子となった。天正6年(1578)3月謙信の急死に伴い「御館の乱」と言われる家督争いで、謙信のもう一人の養子影虎とその実家小田原城の北条軍と戦うことになった。「影虎」は謙信が北条氏康と同盟を結んだ時に人質にとった氏康の七男の氏秀である。謙信は氏秀を気に入り養子とし、自分の青年時代の名である「景虎」を与えたのである。

景虎の兄北条氏照は大軍を率いて三国峠を越え上田の庄に乱入し樺沢城を攻略した。景勝軍は翌天正7年、攻勢に転じ景虎を自刃に追い込んだ。樺沢城も奪回し上田衆の一人栗林政頼が樺沢城主を命じられた。
御館の乱から20年後の慶長3年(1598)、上杉景勝は豊臣秀吉によって越後40万石から会津120万石に栄転するが、徳川家康の時代になって米沢30万石に左遷させられた。

以上は『北越雪譜物語』を買った本屋でもらった2009年NHK大河ドラマ「天地人」のパンフレット一式からつまみ食いしたものである。本屋の女主人から、ぜひ樺沢城跡に登るべきだと勧められた。本を買っていなければ寄り道もなかったろう。

城跡入口前に控える
龍澤寺は室町時代前期の応永27年(1420)開創の古刹で、景勝つの母(謙信の姉)母仙桃院が深く帰依した。境内に「上杉景勝公生誕之地」碑がある。

元屋敷跡の石標から城跡遊歩道がはじまる。大手道、虎口、三ノ丸跡、二ノ丸跡、景勝の胞衣(えな)を納めたという胞衣塚を経て本丸跡に登りつめる。跡地は山頂のわずかな面積だが、そこから上田庄の眺望がすばらしかった。晴れていれば塩沢駅前通りから間近に見られる巻機山(1967m)を正面に、左手には中ノ岳(2085m)や八海山(1778m)も見えるはずである。

山を降りる。麓を上越線の線路がきれいな曲線を描いて目の前を通っている。どこかでもらった樺沢城のパンフレットを復習していると、「知る人ぞ知る列車撮影ポイント」とかかれた小さな活字を発見した。寄り道してよかったなあーと、一人笑いしながら草むらにしゃがみこんで列車が来るのを待った。2両編成の列車がくる。車体は草色だったり、赤色だったりする。5両編成もきた。特急も通り過ぎた。数枚の中から線路の曲線が美しく写っている1枚を選んだ。

塩沢宿にもどり県道365号を西進する。町の出口付近で道路の赤みがはなはだしい箇所がありじっくり観察することにした。越後に入ってからずっーと気になっていたのだが、写真をとるほどのことはあるまいと、見過ごしてきたものだ。道路の中央線にそって、あるいは側溝にそって設けられた帯状のコンクリートに等間隔で金属製の噴水出口が設置されている。地下水で雪をとかす消雪パイプが埋設されているのである。三国街道の宿場町、長岡から始まった。地下水が含む鉄分が酸化して道路の中央や端が赤く錆びるのである。雁木、雪囲い、雪穴につづいて、4つ目の雪国現象を学ぶことになった。

竹ノ俣交差点で国道を斜めに横切って六日町に入る。旧道と国道の間の三角地帯に往時の面影を残す一本杉の大木と庚申塔と共に、「南魚沼市温泉郷」の歓迎看板が出迎える。「六日町温泉。五十沢温泉、畔地温泉、河原沢温泉、浦佐温泉、上の原高原温泉」。まことに三国峠をこえた浅貝からはじまって、南魚沼地方にはスキー場と温泉のない町はない。

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六日町

まもなく道は右からきた
清水街道と合流する。清水街道(清水峠越往還)は峻険な清水峠(1448m)を越えて上州沼田と越後六日町の間に開かれた上越をむすぶ最短ルートの古道である。現在の国道291号に相当するが峠近辺は完成直後から崩落が続き通行不能状態となっている。追分には昨年建立されたばかりの道標が初々しく建っていた。

六日町は街道の追分宿としてのみならず
長岡−六日町間の魚野川舟運の拠点としても栄えた町である。参勤交代で三国街道を通行する大名も帰りには六日町から長岡まで下り船を利用するのが常であった。長岡−六日町間15里の街道を半日間で川下りできた船便は大いに喜ばれた。明治には浦佐・小出・堀之内・川口・小千谷などに寄港して長岡−六日町間に定期船も運行されたが昭和6年の上越線開通に伴い魚野川の舟運は役割を終えた。

宿場入口付近にある
八坂神社の脇には、川船交通の守護神として船頭や船子たちの信仰を集めた金毘羅宮が建立されている。

駅前通りとの交差点東角に石垣と
廣井橋跡の碑がある。昭和初期までここが十二沢川と魚野川の合流点で、「こうりんぼう」と呼ばれる川舟が活躍していた魚野川舟運の拠点である。当時の様子を写した写真が石垣にはめ込まれている。魚野川近くに石垣が修復されていて六日町河岸の面影を伝えている。

六日町大橋の上流の淀みには
こうりんぼうが「愛」の一字を高く掲げて浮かんでいた。私の好きなNHK衛星放送CMに「愛よねえ〜」「そうよねえ〜」がある。大河ドラマを見ていないものにはわからない合言葉である。今、魚沼地方は「天地人」で熱い。

六日町はその重要な舞台であった。六日町は古く上田庄と呼ばれた魚沼地方の中心部に位置し、魚野川の東岸にある坂戸山には鎌倉時代から山城が築かれていた。戦国時代は上田長尾氏の居城として改修整備された。長尾政景の死後長尾景勝は上杉謙信の養子となって、
坂戸城は春日城の支城となった。慶長3年(1598)上杉景勝は会津に移り、かわって堀氏が入城したが、慶長15年(1610)堀氏の飯山転封にともない廃城となった。

長尾景勝が坂戸城で幼少時代を過ごしていたころ、城下に樋口与六兼続、のちの
直江兼続が生まれている。兼続は幼くして景勝の近習となり謙信亡き後は景勝を支え、のち名門直江家を継ぐ一方上杉家の執政となって政務一切を取り仕切った。兜に「愛」の一字を掲げ、義を重んじた魚沼の英雄である。

六日町大橋で魚野川をわたり、道を東にたどると城跡にいたる。麓に建つ
鳥坂神社に山菜採りの年配者フループが休憩をとっていた。神社脇の山道をあがっていくと中腹に屋敷跡の標識、ついで石垣の遺構を背にして城跡の石碑がたっている。このあたりにも山菜を求めて歩く人達がいた。

そこから南に4kmほど行った所に曹洞宗の名刹
雲洞庵がある。越後一の禅寺といわれ上杉家の菩提寺である。赤門とよばれる山門には大草鞋と「雲洞庵の土踏んだか」と書かれた大きな板が掛けられている。まさに禅問答で、これだけでは何のことかさっぱりわからぬ。門をくぐり本堂への参道を歩くとわかる仕掛けになっている。

白木の鐘楼、カメオのように気品ある石仏など、精錬された境内である。本堂内は本尊の裏側まであけっぱなしの大開放。センサーが働いて自動的に案内が流れる。実に自由なお寺である。
大方丈という書院で長尾喜平次(後の上杉景勝)とその小姓、樋口与六(後の直江兼続)の二人が学んだ。与六は五歳で寺に上がり十五、六歳まで、五歳年上の喜平次とともに過ごした場所である。

帰途は坂戸橋をわたって旧街道にもどる。旧街道の坂戸橋と六日町大橋の間に当る区間が遠藤本陣などがあった宿場の中心地だったようである。今は銀行や郵便局、旅館、食堂が軒を連ねる六日町のメイン商店街を形成しているが、街並に旧宿場の面影はない。

交差点から北にむかって道幅は細くなり、道は二手に分れる。いずれも下町風の家並みが続き旧道に見える。道端でたずねると、右が旧街道だと教えてくれた。左にとると一旦国道にでるがすぐに県道364号にはいって広大な田園地帯を真直ぐにつきぬけていく。右の道をすすんでいくと
八幡の家並みをぬけてひろびろとした田圃道にでた。

大規模な圃場整備事業が行なわれたと見え、田園の真ん中に突然墓場が現れたとおもうとその一角に文政元年(1818)の古い二十三夜塔と昭和55年の新しい庚申塔が相並んでいる。
美佐島地区の川に沿った堤防道をゆく。左手に集落をぬって走る県道のほうが旧道かも知れないが、きれいに区画整理された田圃を直線的にかけぬける県道はいかにも人工的だ。半信半疑ですすむうちに二日町橋の手前で県道が堤防道に合流、道は庄の内川で途絶えてしまった。

途中、あぜ道に石祠が二つ並んでいるのは旧道の名残のようでもある。延々と広がる
青木新田の農道をどうたどっていったか、庄の内川をわたってしばらくいくと県道364号が復活して宇津野新田にはいっていく。

(2008年5月)

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