浅貝宿本陣跡 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
当ホテルは江戸時代の昔から本陣として使われた格式ある宿です。「本陣」とはいうまでもなく、徳川幕府による参勤交代の制度に伴い、街道を往来する諸大名が泊まったところで浅貝村(当時の昔の呼名)唯一のものです。このために、普通の玄関の外にもうひとつの「大名玄関」が設けられ、諸大名はここに駕籠をつけ、そのまま上段の間に通うのが常でした。本陣の建物は約450年前に建てられましたが慶応4年(1868)の戊辰戦争の際惜しくも焼失し翌、明治2年(1869)に再建されたものの、現在ではこの「大名玄関」を残すのみとなりました。当時の面影を偲ばせる貴重な存在です。  昭和52年12月 
当ホテル綿貫家は、三国街道浅貝宿の本陣、問屋、庄屋を勤めた旧家である。江戸時代の三国街道は、江戸幕府の御五金蔵をうるおした佐渡金山や、下越後の各藩領を結ぶ最短の街道であった。そのため江戸時代の早期に街道が整備され、浅貝の宿建てが行なわれたのは慶長15年(1610)であったという。綿貫家はその時から問屋役を勤め、寛永12年(1635)に参勤交代が始まると、大名を宿泊させる本陣も勤めるようになった。三国街道を通った大名は、長岡藩、村松藩、与板藩などであるが、稀に新発田藩や村上藩も通った。役人では佐渡奉行、新潟奉行などであるが、佐渡送りとなる無宿人の目駕籠も通っていった。大名などの通行があると当家問屋場の前に多数の人馬が集められ隣宿(上州側永井宿、越後側は二居宿)まで荷物の継立を、行なった。宿泊の場合、殿様は当家の上段の間に招き入れられ、浅貝宿中の旅籠に家来が分宿した。ほかに越後側から米や蝋や縮、金物などの荷物、上州側から竹や綿などの荷物が通り、庶民の旅行者も多く当時の浅貝は賑わっていた。  主人敬白