三国街道 横堀宿 横堀 渋川市 群馬県
三国峠を越える三国街道は、上州と越後を結んだ主要道で三国通りといわれ、高崎で中山道から別れた脇往還である。古くからの利用があり、鎌倉時代より軍事道j路の役割とともに、文人・僧侶なども多く通るようになり、江戸時代に入ってからは佐渡金銀山開発の本格化による官道整備普請がなされ、完成は慶長15年(1610)といわれている。横堀宿は慶長10年(1605)に「小野子ヨリ出ス」の形で設定され、同18年(1613)に完成したもので、横堀新田(横堀村)として認められたのは寛文8年(1668)である。三国街道は高崎から越後の寺泊まで30宿、48里(約192km)で、高崎より5番目の宿、北牧宿へ28町(約3km)中山宿へ3里13町(約13km)の距離にあり、傾斜の山道と杢ヶ橋通過の準備等でにぎわった宿駅である。宿場の機能は、現在の中宿と下宿の二分の一で構成されていて、東側が430m、西側が418mあり、東西の町並が一軒ずつずれている。上手には上宿があり、宿泊の多いときなどの補完の役目をはたしていた。宿全体が東南を向いた傾斜地にあり、家屋は常に裾石のある石垣上に建てられ、通りの真ん中を堰(現在撤去)が通っていて、上宿の上手より水を取り入れた。(中略)本陣兼問屋は飯塚家(現佐藤家)が代々世襲で、脇本陣を扇屋とした。以下略  渋川市教育委員会