日光例幣使街道−1



倉賀野−玉村五料木崎太田
いこいの広場
日本紀行

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例幣使とは、神前に幣帛を奉納するため朝廷から派遣される勅使である。派遣先は伊勢神宮のみであったが、正保4年(1647)、幕府からの要請を受けて日光東照宮にも例幣使を派遣することになった。それ以来、明治維新前の慶応3年(1867年)までの221年間、1回の中断もなく続いた。

日光例幣使の一行は毎年京都を旧暦4月1日明け六つ、今の暦で5月中頃午前4時に出発し、中山道を経て4月11日に倉賀野宿から日光例幣使街道に入り、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着する。翌日午前中に、例幣使は奉幣の儀式を終え、昼過ぎには日光を離れて帰路に着く。帰路は日光街道で宇都宮を経て、東海道を通って4月末に京都に帰った。往復30日の旅だった。一日平均40kmを歩く健脚である。

公務出張に選ばれた公家達は、神聖な使命を受けた高貴な装いの裏で、道中に特権的立場を最大限に利用して私服を肥やすことが常態であったといわれる。

信州の長い山道をこえ上州の平野部に到達した例幣使の一行は一息つく思いであったろう。ここからはただ平坦な道をひたすら日光に向かってあるくだけである。難所とよばれる場所もないかわりに歌枕として知られる景勝地もない。人に聞けば街道筋の各宿場には競うように飯盛女が客を引くという。

倉賀野宿の東の木戸から中山道と分かれて東に向かい楡木で日光壬生通りと合流するまでの道を例幣使街道とよぶ。この街道は、明和元年(1764)に道中奉行の管轄となり、五街道並みの扱いを受けるようになった。例幣使街道は楡木から壬生通りをたどり、今市で日光街道に合流する。今市までを例幣使街道とよぶ場合もある。



倉賀野

中山道のJR倉賀野駅の南付近が倉賀野宿の中心であった。街道の北側の高札場跡には越前奉行と太政官の定書き立て札が復元されている。奉行の定は不審者を告発したものには銀貨を褒美に与えるというものである。キリシタンを見つけたものに対する褒美が一番多かった。

脇本陣の建物は一、二階の全面的な千本格子が見事である。道向かいのベイシアマート駐車場には本陣跡の石碑が、すこし先の右手倉賀野仲町山車倉前には「中仙道倉賀野宿 中町御伝馬人馬継立場跡」の碑が建っている。古い家が残る町並を東に進んでいくと、中町交差点の南西角に旅籠風の家が、北東角には倉賀野町道路元標があった。

下町交差点で道は二手にわかれ、
追分地点には石柱道標、文化11年(1814)の道標を兼ねた常夜燈、その後に閻魔堂がある。道しるべには「従是 左日光道 右江戸道」と刻まれており、常夜燈には正面「日光道」、右側面「中山道」とある。ともに「日光道」とあるのが例幣使街道で、ここが起点となった。

JR高崎線の
玉村街道踏切を渡る。金属工業団地をぬけ、粕川をわたり、「綿貫町南」交差点をこえた先で旧道は日本原子力研究所にぶつかって途絶える。

綿貫町交差点を右折して、敷地の北縁に沿って国道354号を東進する。左手に不動尊が鎮座する
不動山古墳をみて、街道は井野川を渡る。昔は鎌倉橋のすぐ下流に土橋が架けられていた。橋をわたり土手を右に入ると、両岸に橋脚台の痕跡がのこっている。土橋跡から旧道が復活している。200mほど進み国道と合流する辺りに一里塚があったというが、それらしき跡は残っていない。

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玉村宿

関越自動車道をくぐり高崎市と玉村町との境になっている滝川にさしかかる。角渕からやってきた佐渡奉行街道(三国古道)は
滝川大橋の東詰から左岸に沿って北に向かった。

ここから玉村宿に入る。慶長10年(1605)代官伊奈備前守忠次が開削して玉村新田を開いた。付近の住民を移して玉村新田町が形成され、後に上新田・下新田両村に分かれる。その後両村で玉村宿がつくられた。上新田・下新田に1軒ずつ問屋が置かれ半月交代で務めた。

日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は最初の宿場町として繁栄する。例幣使は例年旧暦4月11日夕刻に玉村宿に到着して木島本陣に宿泊し、翌12日早朝出発した。宿は一直線で延長約2.5kmもあり、日光例幣使道十三宿中でも最も規模が大きく繁盛した宿場であった。旅籠屋62軒のうち半分以上の36軒に飯盛女が置かれ、玉村は歓楽街の様相を呈していった。

玉川宿はまた佐渡奉行街道の第1番目の宿場町でもある。毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、玉村宿には十数軒の囚人宿があったという。囚人宿は佐渡送りだけでなく、他の護送中の罪人にも利用された。そのなかに国定忠治もいる。

上新田集落をすすんでいくと、左手に玉村八幡宮の赤い鳥居がでてくる。この参道が上・下新田をわける境界線になっている。角地に古い佇まいをみせているのは
「泉屋醸造元 井田酒造」で、上の問屋跡である。店の脇から中庭をのぞくと造り酒屋の象徴ともいうべきレンガ造りの高い煙突が酒蔵の中央にそびえていた。

井田酒造の奥に
玉村八幡神社がある。玉村八幡神社は、烏川畔にある角淵(つのぶち)の八幡宮が元宮で、源頼朝が建久4年(1193)那須野に狩した折、鎌倉の由比ケ浜に似ているとして鶴岡八幡宮を分霊したものである。伊奈代官が玉村を開いたとき、この角淵八幡をここに遷座した。

同じ路地を神社と反対方向にはいると称念寺境内に
「家鴨塚」がある。ヤクザ国定忠治の病気をきづかう目明しが家鴨の生血を飲ませた話が説明板に記されている。目明しも犯罪者あがりのならず者だった。家鴨こそいい迷惑を被った。

右手
加賀美氏宅は、下の問屋大黒屋跡である。古い建物はみられないが植木が茂る門構えの家だ。玉村宿は幾度もの大火で全焼し宿場町を偲ばせる建物は残っていない。

右手に土蔵とレンガ造りの家、その奥に高い煙突が立つのは
「太平人」町田酒造店である。

店先に「玉村道路元標」の石標があり、そのむかいの路地入口に
「木島本陣跡歌碑」の案内標識がたっている。

案内にしたがって路地をはいり右におれると、民家の庭先に屋根を被った歌碑があった。天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌である。往路は中山道−例幣使街道、帰路は日光街道−東海道を辿る慣例に反し、この使者は帰りも中山道を歩くつもりであった。

  
玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに 

  
今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る

街道に戻って東に向かうと右手バス停付近に例幣使道の絵図入り案内板がある。図に寄ればこのあたりに高札場があった。

その先の下新田交差点を直進する。ここを右折すると角渕から烏川をわたる佐渡奉行街道にはいっていく。

上飯島交差点手前に石仏群があるが、この辺りに玉村宿の下木戸があった。道は、ゆるやかに右に曲がって工業団地を斜めに横切っていく。

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五料

工業団地を通り過ぎ「日清日露戦役紀念碑」「聖跡記念碑」の先で斜め左に残っている
旧道に入る。旧道といっても沿道の前半は工場団地の延長のような風景で、旧道の終わり頃に若干の住宅街を通り抜けて国道354号に出た。

合流点の北側に
常楽寺がある。入口に多くの石仏にまじって道標がある。「利根川渡船・玉村町小泉道」「烏川渡船・神保原本庄町道」と刻まれている。

五差路交差点を右斜めの旧道にはいると五料宿である。五料集落は利根川沿いに南に延びているが宿場はその北端に設けられた関所の手前の短い区間である。

芝根郵便局の先に立つ案内標識に従って左の露地をはいると、すぐに
五料関所跡の案内板があった。道の両側に関所門の沓石として、柱穴を穿った方形の石が残されている。関所は戦国時代からあったもので、街道をいく旅人や利根川を利用する舟運業者から関銭を取っていた。元和2年(1616)に幕府公認の関所となり元禄10年(1697)に幕府指定の関所となった。舟運の取締りに加え日光例幣使の通行を確保することが特務として課された。五料の関所は日光例幣使街道唯一の関所である。

関所の門跡をとおりぬけ土手に上がって左に進むと、土手下の民家の敷地内に鉄柵に囲われた
井戸が保存されている。旅人はこのあたりにあった門を出て河原の船着場に向かった。

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利根川に架かる五料橋を渡るとすぐ柴宿に入る。橋の下流からわずかに旧道が残っている。例幣使は4月12日六つ半(7時ごろ)五料関所を通過して柴宿に向かった。柴宿は中町、堀口村を加えて、毎月10日ずつ柴宿・堀口村・中町と交替で問屋場を勤めた。

柴宿の通り(国道354号)の南側には並木と水路が整えられ、その中ほどに立派な門構えの
柴宿本陣、関根甚左衛門宅がある。本陣の在処を旅人に知らせるかのように、一本の松が門前から歩道に張り出している。

街道はその先で右におれていく国道からはなれ、一筋東の
水路沿いの旧道を南にくだって中町の総鎮守雷電神社の前で再び国道に合流する。

朱色の鳥居と白木の社殿は新築されたばかりの初々しさを湛えている。境内にのこる溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火に伴うものである。それ以前は神社の南側に延びている道が例幣使街道の旧道であったが、大噴火によって街道もろとも宿場全体が北に移転した。

国道はまっすぐな道を中町、堀口町と通り抜ける。
東京福祉大学を通り過ぎ、左手の大正寺公民館の敷地内に東日光道」「南本庄道」「西五料道」と書かれた小さな道標がある。
下道寺町で左にまがった先、右手豊受歯科の所に「伊勢崎織物 大絣発祥の地」と書かれた大きな碑がある。

その先道が右にまがるところの左手道端に設けられた狭い三角地帯に見過ごしそうな小祠がある。覗き込むと祠内には庚申塔があって傍らに
「三ツ橋伝説と芭蕉句碑」と書かれた木柱が立っている。かってこの場所に三ツ橋が架かっていたそうだ。今は道の下に溝のような細い水路が通っているだけである。すぐ先右手の民家の脇に一角を設けて芭蕉句碑と松の木(三橋牛打の松)が植えてある。松に因む伝説があるようで、松を詠んだ芭蕉の句碑が建てられたというわけだ。橋と松と芭蕉の取り合わせを考え合わせても結局よくわからない史跡だった。

例幣使が休んだという
延命寺をすぎ、道はおおきく右にカーブして下蓮町にはいる。

左手に上州名物焼まんじゅうの店
「忠治茶屋」がでてくる。看板には国定忠治と赤城の山が紺染めされている。

忠治茶屋のすぐ先を右斜めに入っていくのが旧例幣使街道である。


田畑の中をすすむと右手に
「右赤城」の案内板が立っている。その方向をながめやると赤城山の四つの峰がくっきりと見えた。東海道では「左富士」をみた。見える方向にまで神経を使う日本人の感覚の繊細さには驚かざるを得ない。と同時に、なぜここだけに桝形のような道筋がつけられたのか、不思議でもあった。ゆるやかな曲線をえがきつつもこれまでの一本道に近い道筋を急に方形に迂回しなければならないような池や山などの自然障害物が横たわっていたわけでもなかろう。作為的に右赤城を創り出したとすれば興ざめな話ではある。

畑中の道から車道に出る角に道標がある。「右五りやう 東日光道 左ほん志やう」と刻まれている。ここを左折し、東日光道に向かう。下蓮町交差点で今までの本道、国道354号にもどる。。

やがて菅原神社の付近で国道をはなれて広瀬川に突き当たる。昔はここに
「竹石(たけし)の渡し」があって広瀬川を舟で渡っていた。今は武士(たけし)橋を渡る。

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旧道は武士橋を渡って最初の信号を左に入り長谷川たばこ店の前の路地を右折する。古い家並みがのこっているわけではないが、幅一間の細い道が民家の間を自然なうねりをつくって続いている。旧街道の雰囲気をのこす裏通りである。300mほどいったところにひときわ高い松がみえ、近づくと丁字路の角に
「一本松稲荷」がある。築山に松が植えられ一里塚だったのではないかとも言われている。塚の上に御嶽神社、塚の脇に稲荷神社がある。

国道と合流する地点に
「旧例幣使街道」の標柱が立つ。日光方面からくる旅人の為の標識である。間もなく再び国道をはずれ、今度は右の旧道に入っていく。逆「く」の字の短い旧道を終わると国道「境萩原」の信号にでる。この辺りに境宿の西の木戸があった。

境は古く室町時代から広瀬川東岸の舟着場として集落を形成し、例幣使が通うことになったころには柴宿と次の木崎宿の間の宿として繁昌し始めた。正式に宿駅となったのは幕末の文久3年(1863)のことで、通常例幣使街道の宿場としては数えられていない。

右手スーパーマーケット、アバンセ駐車場に
「日光例幣使街道 織間本陣跡」の立派な碑がある。いつまでとは記されていないが、ここには江戸時代に建てられたわら葺平家建ての主家が町指定史跡として残されていたようだ。大名や例幣使や公卿門跡衆の休泊を主記す関札も50余保存されているという。織間本陣の家主は俳人として知られ、小林一茶が江戸から信州へ行く途中に訪ねてきている。あいにく家主は不在で会うことができず、一茶は「時鳥(ほととぎす)我が身ばかりに降る雨か」の一句を残して立ち去った。

沿道には蔵造りの家をふくめて古い家が多く見られ、宿場の面影をうかがうことができる。街道から一筋北にはいったところにある
飯島歯科は、織間家の前の境宿本陣跡といわれている。建物はあたらしく、標識等もない。

京呉服銭屋は店構えこそコンクリート造りにシャッタードアの現代風であるが、その長い奥行きには土蔵や主家、植え込みなどが続いている大きな屋敷だ。

板倉屋薬局は石造りの建物で、大正ロマンの風情がある。

宿場もつきるあたりに
水戸屋という和菓子屋がある。店先に「日光例幣使街道 かりやど宿」と書かれた新しい石標を立てている。仮宿とは幕末までずっと間の宿だったことを意味しているらしい。織間本陣を利用した50余人とは幕末のころの話であろう。

東町信号の先で街道は桝形になっていて、「ながしま」そば屋の角を右に入る。裏道に天明7年(1787)の
道標が立つ。読み難いが横の説明標によれば「此方世良田 たてはやし道」「右江戸なかせ 左日光 きさき道」「右こくりやう いせさき」と刻まれているという。

枡形道は国道を横断し
稲荷神社に突き当たる。神社入口に「時鳥(ほととぎす)招や麦のむら尾花」の芭蕉句碑がある。これから先は旧道の道筋が失われ、境栄地区の住宅街を右斜め方向にすすんで県道312号に出る。

県道のすぐ右手の女塚公民館前に
女塚薬師道しるべが建っている。卵型の石に 「右薬師湯泉道」、「左太田・日光」と刻まれている。もともと法楽寺にあったものをここに移した。その法楽寺は東武伊勢崎線の手前に女塚稲荷神社とならんであった。今は建物はとりこわされて空き地になっており、赤いキャップをかぶった地蔵と馬頭観音が静かにたたずんでいるだけである。

県道は東武伊勢崎線を越えて区画整理された住宅街をジグザグに進み、左手に子育て地蔵尊を見ながら
三ツ木橋で早川を渡る。街道は伊勢崎市から太田市に入り、国道17号をくぐってその先の小角田(こすみだ)交差点で県道14号に出、そこを左折して次の小角田北交差点を右折する。

二つの交差点の中間あたりに県道をよこぎる
旧道がのこっているが、両方向ともにすぐ先で消失している。南北に走る県道14号は南に向かうと徳川家発祥の地、世良田を経て利根川の平塚河岸まで、北は県道69号から国道122号で足尾銅山跡まで、足尾の銅を江戸に運ぶために開かれた「古銅(あかがね)街道」である。

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木崎

旧例幣使街道は国道354号にすこし乗り最初の信号を左折して新田中江田町交差点で右折して県道312号の旧道筋にはいる。先ほど消失していた旧道は昔ここにつながっていた。

静かな中江田の集落の中を進んでいくと間もなく右手に
三本辻地蔵があり、傍に平成6年のあたらしい道標が設置されている。各面に「太田日光道 三本辻地蔵尊」「四ば倉がの道」「旧日光例幣使道」「秩父中瀬道 」と刻まれている。中瀬は平塚河岸の利根川対岸で、中瀬の渡しが両岸を結んでいた。

左手に大きな二本の銀杏の巨木がそびえる
医王寺があり、この辺りから木崎宿に入る。日本誉蔵元山崎酒造をみて、新田木崎町信号にさしかかる


この交差点左手前角に「日光例幣使道 木崎宿 東太田宿 日光 西 柴宿 京都」と書かれた新しい道標がある。東面に「北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川」とあるのは銅街道をしめす。県道311号を北西にたどって新田上江田町交差点で県道69号に合流して北上する。銅街道の終点は県道14号沿いの平塚だったが、元禄年間に利根川が浅くなったため平塚河岸は廃止され、下流の前島河岸に移された。それにともない、銅街道は上江田町から東南にくだって木崎宿を通るようになったものである。

裏面には赤書きで「平成十六年 三月吉日 飯盛女供養塔建てる会 新田町観光協会」とある。木崎宿も多くの飯盛旅籠があることで知られていた。わざわざ観光協会が彼女等のために供養塔を建てようと考え付くほどである。この道標が供養塔を兼ねたものなのか、他の場所にある/建てる予定なのか、その辺はしらない。

交差点の一角を、家の側面を看板書きでうめつくしたようなあずまや理容店が占めている。交差点をわたった右手の「さいとう接骨院」は問屋跡である。歩道沿いに小さな松の木が植えられているが昔から
斉藤問屋は大きな松の木で知られていた。
その手前の空地は
茂木本陣の跡地といわれている。

「県指定史跡 反町館跡 2.4km」の案内がある信号交差点を右手に入った所に
貴先神社がある。入口の両側には石組みの上に大きな常夜燈が立つ。境内は飾り気がない静けさである。「木崎」はこの神社名「貴先」からきたらしい。なお、反町館とは中世前期に新田一族の館として築造された平城で、新田義貞の本拠地新田荘の中心地にある。

左手、長命寺の前に茅葺きの地蔵堂があり、石碑には「新田町指定重要文化財 
木崎宿色地蔵 指定 平成12年4月6日」と記されている。施主に名をつらねる「茂木」「斉藤」はそれぞれ本陣、問屋を勤めた人物であろう。覗き窓から暗闇の中最高感度で撮影した写真には大きな赤帽をかぶったつぶらな瞳の女性顔が写っていた。

もともとは子育て地蔵であったが、木崎宿に売られてきた飯盛女達の安らぎの場として信仰を得、いつしか「色地蔵」と呼ばれるようになった。木崎宿は玉村宿と並ぶ女郎宿といわれ、多くの女性が越後から売られてきて飯盛女となった。彼女達が伝えた民謡「新保広大寺くずし」がもとになって木崎音頭となり、やがて八木節として引き継がれることになる。

   
木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー。

街道はその先で
左折して旧道に入る。かどに「日光例幣使道 上州木崎宿 太田宿江一里三拾町 平成十年十月吉日」と記された石碑がある。

集落をでると田圃の中ののどかな道をゆくがまもなく工業団地にぶつかって旧道は途絶え県道312号にもどる。

すぐに常楽寺の先の二股を右にとって再び旧道にはいり、そのさきで県道を横断してそのまま旧道をたどっていく。宝泉中学で旧道は失われ区画整理された住宅街をぬけて県道にもどる。かっては中学校から宝町交差点にぬける道がついていたと思われる。

由良の集落に入って県道の道はばが狭くなり、旧街道の趣がのこる道筋にさしかかる。左から来る道との合流点に立派な医薬門を構えた旧家がある。



街道が右に曲がる角に文久3年(1863)創業の島岡酒造が大きな屋敷を構えている。白壁の酒蔵に囲まれて「群馬泉」の大きな白文字看板をつけたレンガ造り大煙突がそびえている。醸造をやめて酒卸業に転換した元造り酒屋が多い中で、島岡酒造は活発そうにみえた。

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太田

聖川という小さな川を渡り
蛇川にさしかかる。蛇川の椿森橋を渡った右手に木の道標らしいものがあるが、字は消えて読めない。
県道2号に合流、東武桐生線のガードをくぐって太田市街地に入ってくる。八瀬川にかかる永盛橋東詰め、公衆トイレの横に
「旧日光例幣使道」の石碑が建っている。このあたりに太田宿入口の木戸があった。

本町交差点を左に1kmほど行くと大光院がある。家康が徳川家の始祖である新田義重を追善供養するために建てられた。例幣使は4月12日、大光院に参詣した後昼食をとる習わしになっていた。往復2kmの寄り道は割愛した。

左手、「太田行政センター」の看板わきに
「太田宿本陣跡地」の碑が置かれている。後ろには「本陣ホール」というがらんとした建物がある。太田宿や本陣跡地に関する説明は一切ない。太田宿本陣は、橋本家が勤め代々金左衛門を名乗っていた。建物は昭和58年(1983)に失火により全焼したという。

街道は太田駅の北側を東西に横断する繁華な通りである。宿場町を偲ぶ手がかりを求めて歩いている内にスバル富士重工の広大な敷地にはいってしまった。大街道での大きな街であるのにこれほどそっけない宿場を歩いたのは、岩城相馬街道の助川宿(日立)をおいて他に記憶がない。最後の申し訳でもなかろうが、東本町の県道323号(館林道)分岐点に追分石地蔵と道標があった。道標には「右たてはやし こか道 左日光道 やき さの駅」と記されている。

旧道はここから富士重工の工場敷地を右斜めにでていたのだが、スバル工場で失われてしまった。町の真ん中に自動車工場が陣取っているのは異様な光景である。もとは自動車工場ではなかった。太田市うまれの農家の長男であった中島知久平は海軍機関学校を卒業して、ここに戦闘機工場をつくった。昭和のはじめには中島飛行機会社は三菱重工と並ぶ航空機製作会社となった。敗戦で飛行機生産は中止、富士重工として自動車生産を開始、スバルというヒット商品を生むに至る。

東部伊勢崎線のガードをくぐって新島町交差点を左折する。街道とは縁遠い景観である。作業所の多い風景からやがて復活した旧道の道筋に合流し、川を渡った先左手に
「日光例幣使道馬洗い場跡」の碑がある。その先左手に地蔵堂がある。格子のすきまから除くと赤エプロンを肩からかけ首をすくめたような地蔵がみえた。

その先、国道122号との五差路を左斜めによこぎり、すぐ県道128号線を渡ったところに
「鳥居のない神社」がある。賀茂神社だ。長文の由緒書を要約すれば、次のようなことだ。

「例幣使の一行が鳥居の下で休んでいた時、鳥居の上の大蛇の危険を知らせようとした犬を家来が切り捨ててしまった。例幣使は犬を手厚く弔らい、村人は元凶となった鳥居を取り払ってしまった」

神社前の旧道をたどり、コンビニ前の変則四差路の右前角に新しい「日光例幣使道 台之郷の辻」の石標と、「北 丸山桐生道」「東 福居佐野道」「南 龍舞小泉道」「西太田道」と記された道標をみて、二股の左の道をすすんで県道128号に合流する。

広々とした風景のなかに三匹のタヌキ親子が穂をのばしたススキの大株のなかにたたずんでいた。

しばらく歩いて「矢場」信号を左折する。最初の十字路を右におれて矢島工業団地の北縁をいくのが旧道である。旧道の延長として交差点の西方にのびる道は旧道ではないらしい。

県道を真直ぐにすすんできた街道が突如直角にまがって大きく迂回するのがどうも気になる道筋である。工場団地ができるまえは山か沼地でもあったのだろう。途中に「日光例幣使道」の新しい標識が設けてあるが道端に散乱する産業廃棄物はおよそ旧街道とかけ離れた光景である。

群馬県(太田市矢場町)から栃木県(足利市新宿町)に入ってようやく街道の雰囲気を取り戻した。
八坂神社の入口鳥居左手前に「村社八坂神社」と書かれた石柱があるが、その台座は道標になっていて、「東佐野福居道 西太田伊勢崎道 北足利道」と書かれている。
佐野は天明宿、福居は八木宿のことである。

新宿町(あらじゅく)十字路で県道128号にもどり、左折したすぐ右手に「旧例幣使街道 新宿の辻」の木札があり、「ここは例幣使道と館林道の分岐点で、その道標であった辻地蔵は、北約百メートルの勢至堂脇に残されている。」と記されている。矢場川の手前にその勢至堂があり、石地蔵の台座に「右ハたてはやし」「左ハさの」とあった。

(2009年1月)
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