追分常夜燈 倉賀野町 高崎市 群馬県
例幣使街道と倉賀野常夜燈
中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と合かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、暦魔堂がある。
道しるべには左日光道、右江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。日光例幣使街道は十三宿中、上州五宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州八宿となっている。正保4年(1847)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、1回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。
 高  崎  市  高崎観光協会
江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使という。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。 この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。 常夜灯の基台には、四面にわたり各他の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含まれている。 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。 常夜灯   正面 「日光道」  右側面「中山道」 左側面 「常夜燈」 裏面 「文化十一年甲戌(1814) 正月十四日 高橋佳年女書」 以下略   平成8年3月  高崎市教育委員会