玉村八幡宮 下新田1番地 玉村町 佐波郡 群馬県
由緒 当社は鎌倉初期の建久6年(1195)源頼朝公によって玉村町角渕の地に創建奉斎された角渕八幡宮を元宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上総奉行安達籐九郎盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発(天狗岩堰開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長15年(1610)無事竣工をみるに及び、神助への報賽と玉村鎮守のため角渕八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安2年(1649)には幕府より朱印地30石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保3年(1646)の日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また、古来より特殊信仰として、いぬ・い生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。