五料関所跡 五料 玉村町 佐波郡 群馬県
五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの附近を領していた石倉氏が、関所を設け関銭を取っていた。慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に移ると、五料に開所を設けた。 元和2年(1616)8月に幕府公認の関所となったが、更に元禄10年(1697)再び幕府の指定をうけている。 しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。 正保3年(1646)から恒例となった、日光東照宮への奉幣使の通路であり、例幣使道の唯一の関所であった。五料の関所は、日光例幣使の通行と舟運の取締りが、特別に課せられた任務といえる。 特に登り船(江戸方面に向う船)については、禁制品(鉄砲・鉛・焔硝・硫黄等)が、積込まれていないか船中を改め、不審の点がなければ、船問屋から手形(請書)を提出させて出船を許した。 天明3年(1783)7月の浅間山噴火は、沿岸に大きな災害を与えた。地元の沼之上村も泥押しの被害にあい、関所全部が泥で埋り建物の屋根だけが見えるだけであると報告している。その後天明6年(1786)7月の洪水、文政10年(1827)3月の火災等の際にも、開所は被害を受けている。玉村宿方面から来ると例幣使道筋からの門から入り、河原の船付場に向かう門から出て、渡し船に乗るような構造になっている。 現在遺構としては、玉村宿方面からの門の沓石と、関所用の井戸だけである。 昭和60年6月 玉村町教育委員会