甲州街道−5 



勝沼−栗原石和甲府柳町韮崎台ケ原教来石
いこいの広場
日本紀行
甲州街道1
甲州街道2
甲州街道3
甲州街道4
甲州街道6


勝沼

大和町境界を示すモニュメントをすぎて国道20号は勝沼町に入る。
「深沢入口」交差点の角に
「柏尾古戦場」碑とともに白っぽい近藤勇の石像が立っている。どこの石材店にでも売っていそうな像だ。戊辰戦争で近藤勇率いる新撰組・会津藩は土佐・高遠藩の官軍とここ柏尾の深沢岸で戦って敗れた。

深沢橋をわたると鉄パイプで組んだ棚に葡萄が鈴なりの観光ぶどう園が現れる。甲州ぶどう・甲州ワインの本場にやってきた。すぐ右手に大善寺、薬師堂に通じる裏道がでている。入口右上に芭蕉塚があった。
県内最古の芭蕉句碑だという。

  
蛤の生ける甲斐あれ年の暮    芭蕉

この句を選んだのは生き貝と生き甲斐をかけたつもりの芭蕉のさらに一歩を進んで、甲斐の国をもかけたつもりであろうとうかがえる。

裏道をすすむと右手に
理慶尼の墓がある。理慶尼は勝沼氏の娘で、永禄3年(1560)兄、勝沼信元が武田信玄により滅ぼされたとき嫁先から離縁され、尼となって武田家の終焉を看取った。裏道は国宝である大善寺薬師堂に至る。

いわきでみた白水阿弥陀堂にも似て、頂点からながれるような寄棟屋根が優美である。余計な装飾がないのも御堂の清楚で上品な印象を深めていてよい。

大善寺は武田勝頼がその自決の1週間前に一夜を明かした場所である。

武田勝頼主従投宿の地(大善寺)
全国の統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、織田、徳川連合軍の近代装備と物量の前に敗退し天正10年(1582)3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝祈願をして一夜を明かしました。しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田・徳川の連合軍に行く手をはばまれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来、5百年続いた甲斐源氏もここに滅亡したのであります。その一部始終を目撃した理慶尼が記した理慶尼記は別に武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいた大善寺に今なお大切に保管されています。   昭和54年10月1日    ○○教育委員会

また、大善寺は甲州ぶどう発祥の地でもある。

甲州ぶどう発祥の地  大善寺伝説
養老2年(718)僧行基が甲斐の国を訪れたとき勝沼の柏尾にいたり、日川の渓谷の大石の上で修業したところ、満願の日、夢の中に右手にぶどうを持った薬師如来があらわれたといわれます。行基はその夢を喜び早速夢の中にあらわれたお姿と同じ薬師如来を刻んで安置したのが今日の柏尾山大善寺であります。以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬のぶどうのつくり方を村人に教えたので、この地にぶどうが栽培されるようになり、
これが甲州ぶどうの始まりだと伝えられています。大善寺伝説は、仏教渡来と共に大陸から我が国にもたらされたぶどうが、薬師信仰と結びついてこの地に伝えられたことを指すものとして理解されます。  昭和54年10月1日   ○○教育委員会

柏尾三叉路交差点で街道は右の県道38号にうつり勝沼宿に入っていく。「県立ワインセンター」の表示のところを左にはいると、茅葺の
家臣屋敷が復元されていて、その周囲には勝沼氏館跡の土塁や溝跡が保存されている。さらに少し西には石垣、空堀、門、蔵跡などの本格的な館遺構がのこされていた。館の主、勝沼氏は武田信虎の弟、五郎信友で、武田家御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが、信友の子信元のとき、逆心を企てたとして武田信玄に誅殺され、勝沼氏は断絶した。

上町十字路から中町にかけてが宿場の中心街であったようで、鉤の手の道傍にかまえる旧家脇本陣
槍掛けの松を配した本陣の跡、さらには斜め向かいに仲松屋を代表とする脇蔵を従えた古めかしい商家が並んでいて、勝沼宿の町並みが濃縮された一角を形成している。

先生に引率された小学生の一団が商家の道向かいで立ち止まって説明を受けている。
「家と家の間に蔵があるでしょう。その間をよく見てごらん。ずっと向こうまで蔵がつづいている。火事があっても蔵が火除けになって隣の家にうつらないようになっているんですね」
聞き耳をたてながら、白壁の蔵と千本格子の美しい町家の写真をバチバチ撮った。

その先右手に
三階建ての土蔵がある。漆喰はかなりはがれて土壁の地肌をみせているが、スマートな蔵姿である。
旧田中銀行は明治時代の洋風建築で、国登録有形文化財である。もとは郵便局で、その後銀行となった。サーモンピンクの壁が暖かい。

勝沼小学校の前に「明治天皇勝沼行在所」の碑が建つ。このあたりから「ようあん坂」とよばれる坂を下っていく。笹子峠以来、道は下りっぱなしであったが、傾斜はまだ止まらない。

家並みはまばらになって、ぶどう園がいっそう目立つようになってきた。私も館山の裏庭にデラウエアと巨峰の苗を一本ずつ植えてある。将来にそなえ、棚のつくり方をよく見ておこうと思う。つっかいを外側に倒して建て、上を針金で網目状に覆ってある。縦杭を倒すのは、金網天井の張力にまけない為だ。上を這うぶどうの枝はつるが太った頼りないものだから、ぶどうの房の重みをささえられる程度の棚でよいのであろう。

街道は等々力(とどろき)交差点に来て、北から降りてきた国道411号に移る。白百合醸造のロリアンワイン工場の前で甲州市とわかれて山梨市に入る。この先、甲府市のあと、甲斐市と続く。甲州・山梨・甲府・甲斐と、われこそが県(旧国)の中心市だといわんばかりに考えられる名を網羅した。改めて全県地図をながめて、うならされた。真ん中とおもわれる位置にちゃんと「中央市」がある。どこに県庁があってもおかしくない。

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栗原


栗原宿は、上栗原と下栗原に分かれている。 今まで地名に上と下を分けるとき、江戸に近いほうを下、京に近いほうを上としてきた。江戸時代でも都は京都であった。現在の鉄道で上りが東京に向かう時、下りを東京から離れる時、としている逆である。栗原はそのまれな例外で、上が先にくる。

「上栗原」交差点をこえたあたりから蔵持ちの民家が散見されるようになって、それらしい集落の雰囲気が感じられるようになってはきたが、宿場跡の史跡らしいものはみかけない。大法寺入口の先で下栗原に入る。

丁字路右手に松の木と常夜灯、その後ろの小さな塚には祠と石仏が集まっている。その中に例の球形道祖神らしきものを見つけた。丸石にかこまれてまん中に起立している棒石がなんともいわくありげだ。全体としてその一角は一里塚跡にふさわしい風貌をみせていて、栗原宿の入口としては結構な景色である。その路地をはいっていくと右手に
大翁寺がある。寺は小さいもので、むしろぶどう畑になっている広い空き地に意味があった。土地の領主栗原氏の屋敷跡である。

国道にもどり西に進むと、下栗原集会所のところで国道をわけて鉤の手に旧道がのこっている。そこに
大宮五所大神の社碑が立っていたので寄ってみることにした。神社の由緒はみなかったが、クロマツと絵馬の説明板があった。

鉤の手の道はそのまま国道をよこぎって日川の堤防に向かってつづいている。そのどこかで右に折れて国道にもどる道があったのだろうがトヨタ営業所によってはばまれているようだった。街道は栗原宿を出て、一町田中交差点で左折し、堤防をすこしあるいて日川橋を渡る。

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石和

ここは笛吹市一宮町である。笛吹市には国衙、国分寺、一宮がある。甲州市でも、山梨市でも、甲府市でも、甲斐市でも、中央市でもなくて、笛吹市こそが甲州甲斐国の中心だった。

日川橋を渡るとすぐ右に折れ、川に沿って旧道をすすむ。一宮町田中の集落は街道沿いに松並木のなごりがあって、白壁の土蔵とあいまって趣ある町並みをみせている。道なりに堤防にでてそのまま国道と合流して笛吹橋をわたる。

美しい松並木の堤防を歩いていくと、右手に笛吹少年の石像がたつ小公園がでてくる。そこを降りて石和町の街中へはいっていく。ところで、笛吹少年の名は権三郎。笛の上手な孝行息子にまつわる悲しい物語が伝わっている。

蔵造りの石和川中島簡易郵便局の前を通る。八田公民館脇にまだ新しい丸石道祖神が設置されている。中央の大きな丸石は縄の鉢巻をまいていて、周囲の子丸石を腕とした蛸の八ちゃんに見えた。街道は国道411号に合流して、石和宿内にはいる。すぐ右手の遠妙寺は謡曲の「鵜飼」ゆかりの寺で、伝説の鵜飼勘作の墓がある。楼門造りの仁王門が立派だった。

遠妙寺から駅前通りまであたりが石和宿である。家並みは新しくて宿場の面影はまったくなく、僅かに右手の駐車場の
本陣跡に、白壁土蔵が一棟残っているくらいである。「芸妓置屋」の看板がでているのは宿場の街よりも温泉街であることを物語る。石和温泉は昭和にはじまった新しい温泉街で、古湯場特有の情緒は持ち合わせていない。小林公園の入口に足湯があったので、温泉客にまじってしばらく豆ができた足を休ませた。そのあと、豆は余計に痛んで困った。

公園の奥に石和南小学校があって、校門前に
「石和陣屋跡」の碑が立っている。寛文元年(1661)に代官所として建てられた。

街道にもどりすぐ先の
石和八幡宮に寄る。拝殿には徳川時代の絵馬が多数奉納されているというのではいっていったのだが、境内の奥はもぬけの殻で、石垣のうえは整地されていたようである。新しい社殿が再建されるのであろう。

甲運橋を渡った所で石和宿を出て甲府市に入る。橋の西詰に萬延元年(1860)の
道標があった。

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甲府柳町

街道は国道411号を西進し、「山崎三差路」信号で東京新宿追分から分岐した青梅街道と合流する。
青梅街道は国道140号となって、勝沼あたりで北にそれていった中央本線沿いに北上し、大菩薩峠をこえて奥多摩に至る。いずれ歩いて越えようと思う街道である。

三叉路の先、右手のくぼ地に「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑がある。江戸時代、甲府宿はずれに設けられた
刑場跡である。箱根駅伝でおなじみの山梨学院大学の前を通り、酒折駅前を過ぎたところの「酒折宮入口」を右折して路地をすすみ、中央線の「宮前踏切」をこえると正面に酒折宮が待っている。

今風に言えば超古い社で、神代の時代、日本武尊が蝦夷を征伐した帰りに立ち寄った場所だという。その際、尊はふと「にひばりつくばをすぎていくよかねつる(新治郡の筑波から幾夜寝たのだろう)」と独り言をいったところ、傍にいた翁が「かがなべて夜にはここのよ日にはとをかを(9泊10日ですよ)」と歌で答えた。それを聞いて尊はおおいに感心したという。これがわが国連歌の始まりで、酒折宮は連歌発祥の地とされている。

そのころ江戸の町はまだ海の底だったから、甲府から筑波までどんな道筋でいったものか。青梅街道筋を経てまっすぐ東に埼玉を横断していったのではないかと、地図をながめながら想像している。直線距離で150kmくらいだから10日という数字は妥当な計算であろう。

連歌発祥の地を記念する史跡はすこし先の不老園という庭園の山頂近くにある。山梨学院高校の前で、三人連れの女子校生がトレーニングパンツ姿で坂を下りてきた。すれ違いざまに聞こえた言葉は日本語でなかった。不老園の垣根沿いの山道を上っていくと、二人の歌を万葉仮名で刻んだ黒岩と、鉄柵に囲まれた石棺室のような窪地があった。

山梨学院前の通りにもどり、右に峠をこえていくと眼下の町並みの中に善光寺本堂の甍が見える。坂を下り、ポンポコ塚という古墳の傍を通って
甲斐善光寺の朱塗りの山門前に出る。圧倒的な寺門だ。武田信玄が上杉謙信との戦いで、長野善光寺が焼かれることを心配してその本尊を疎開させたという。

境内には多くの石地蔵、その中には頬にするどい切り傷を負った丸顔の地蔵がいた。やくざにナイフで切られた顔である。池畔に「芭蕉翁月景塚」の石碑が立ち「月かげや 四門四宗もただひとつ」と刻まれている。更科紀行で信州善光寺にて詠んだ一句である。その奥に露座の大仏もいた。

本来の参道である善光寺通りで街道にもどる。すぐに身延線のガードをくぐりきれいに残る鉤の手をすぎると右手に、黒々とした塗籠造りの
石川家住宅がある。ガラス戸だけが今のものに替えられているが、門つきの重厚な建物である。このあたりが甲府柳町宿の東口であった。

街道は城東通り(国道411号)を西にすすみ次のやや大きな鉤の手に突き当たる。その北にある身延線の駅名も金手(かねんて)で、この街道の形に由来している。

直角に左右に二回折れる道の形を「かぎのて」、「かねのて」、「かねんて」、という。曲がりっぱなしは単なる曲がり角で、クランク状に元の方向に進んでいく形に特徴がある。立体化すれば、川の流れの勢いをそぐ堰止めに似ている。書き方はまちまちで、「矩の手」、「鉤の手」、「鍵の手」、「曲尺手」などを見る。私は「かぎのて」と入力して漢字はパソコンの変換するにまかせている。また
「枡形」は一の門と二の門を直角に配し、他の二辺を柵や石垣で囲った方形(枡形)の空間のことをいい、道筋だけをたどれば鉤の手となっている。皇居の大手門、桜田門は枡形の典型だ。一方、水戸は門や木戸のない曲尺手の連続だった。

二つ目の金手が西におれる角に
尊躰寺がある。ここに甲斐奉行大久保長安と山口素堂の墓があると聞いてやってきた。大久保長安の墓は境内前庭ですぐにみつかったが、山口素堂の墓が一向にみつからない。広い墓地は先祖代々の墓石でいっぱいで、その中から山口家の墓をみつけるのに墓地をほぼ一巡りした。おおざっぱにいうと、墓地入口からみて、左前方にある。「目には青葉山ほととぎす初がつお」の句で知られる山口素堂は甲州と信州の国境に近い山口集落に生まれた。今日のうちにそこを通っていく。
大久保長安は多彩な人物で、甲州街道では八王子でも活躍した。それよりも今は、世界遺産となった
石見銀山の立役者として、当地ではさぞかし人気を博していることであろう。

次に左折するのはNTT甲府支店西の交差点で、ここから通りの名が
遊亀通りとなる。交差点の一筋手前に天正10年(1582)創業の老舗「印伝屋」が本店を構えている。商品は鹿のなめし革に漆で装飾した袋もので、その技術は古くインドから伝わったといわれている。最初、私はハンコ屋かなんかと思っていたが、印伝屋は「インディア=INDIA」の当て字だった。

遊亀通りの中ほどから西にでている銀座通りはさびしい限りである。右手に小さな
柳町大神宮がある。宿場名にある柳町がここだが、甲府の町は空襲で壊滅し(石川家住宅は奇跡的な生き残り)、宿場の影は残っていない。

「問屋街入口」交差点を右に折れる。東側が連雀問屋街で、西側は風俗店の隣に二軒古い店屋があった。突き当りを左折する。ここも鉤の手の道だ。西にのびる路地は「南銀座」とあるが、早朝サービスの客引きが立つ歓楽街の雰囲気だった。突き当りを右折してようやく大きな道に出た。相生歩道橋で西に方向転換する国道52号がこれからの旧甲州街道である。

寄り道

甲府は城下町でもある。甲府駅南口に武田信玄がどっかと腰を据えている。そこから東へあるいて数分のところに甲府城(舞鶴城)がある。武田家の城は、信玄の父信虎のときに建てられた躑躅ヶ崎館で、信玄は新しい城を築かなかった。舞鶴城は武田家滅亡後、豊臣秀吉の命により築かれたものである。享保12年(1727)の大火で城は本丸御殿など大きく焼失し、その後再建もされずに放置された。今は残された城跡が舞鶴公園として整備されている。

城跡をたずねたのは西の空が茜色に染まる頃だった。天守台から南の尾根越に夕日を受けた富士山を望むことが出来る。望遠レンズに取り替えて、じっと富士の峰が赤らむのを待った。東の空には十三夜の月が上っている。夕暮れ時の城跡公園には時々散歩の二人連れが出入りするだけで、静かな時間が流れていた。

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韮崎

国道52号、愛称「美術館通り」を西にすすみ、ミレーの「落ち穂拾い」で知られる県立美術館をすぎ、高速道路のガードを過ぎると甲府市から甲斐市に入る。旧街道はこの先、「竜王駅前」交差点の次の「竜王新町」信号を右折するが、私はそのまま進んで釜無川に架かる信玄橋へ出た。その右手堤防が
「信玄堤」として公園化されている。信玄は武将として名高いだけでなく、治水事業にも力を入れた政治家でもあった。信玄の治水事業で画期的だったのは「聖牛」とよばれる河川工法で、洪水の勢いを弱めるために、杭を三角形に組み合わせて川底に据えたものである。現代の波消ブロックのはしりといえる。

駐車場には大型バスが休んでいて、土手には思い思いに陣取って絵筆をはしらせる絵画クラブらしき中高年グループと、先生の説明をきく車座の小学生集団がいた。川の遠方には
南アルプスの一翼をなす山並みが尾根を連ねている。さらに南アルプスの向こうには、天竜川の流れが削った伊那谷が隠れているはずだ。

国道20号をわたり、中央線踏み切りをこえ、慈照寺の前を通って旧街道にもどった。赤坂を上りきったところで、竜王新町から下今井(横町)にはいる。むかし、この峠に三軒茶屋があった。今はラブホテルがかたまっている。そのうちの一つ、ホテルシルビアの前をいくのが旧道である。

峠下の横町からはじまり寺町、仲町、上町とつづく
下今井の集落は海鼠壁の土蔵や立派な家が並ぶ落ち着いた町並みである。特に寺町の坂に構える、海鼠壁蔵造りの長屋門は目をみはらせる存在感を発散していた。横町から寺町にはいる角に庚申塔を兼ねた道標がある。弘化3年(1846)の銘があり「右市川駿(河) 左甲府江(戸」」と刻まれている。最後の一字は地面の中である。

高速自動車道と中央線の高架をくぐり複雑怪奇な「下今井」信号交差点を右から右に伝って、県道6号に乗る。すぐ右手に
「泣き石」という大きな岩がある。

塩崎駅前を通り過ぎ、塩川橋を渡ると韮崎市に入る。 街道は橋西詰信号を右に曲がり線路沿いに韮崎宿にはいっていく。下宿をすぎ本町2丁目から1丁目にかけて宿場が開けていたのだろうが、ここもその名残はほとんどなく、わずかに古風な看板を掲げる井筒屋醤油店とその両隣に蔵造りらしさを感じさせる建物があるくらいである。

千野眼科医院が
韮崎宿本陣跡である。標石の説明書には「韮崎宿は諸大名の通過はあったが、日程の関係で宿泊はごくわずかで本陣は問屋が兼務した跡である」とある。韮崎から次の台ヶ原宿までは19km、甲府宿からここまでが13kmという、甲州街道では1、2の長丁場である。おそらく諏訪を発った旅人は台ヶ原で一夜をすごし、二日目は甲府までいったのであろう。

市役所あたりから右手の高台に、色づきはじめた木々に下半身を隠した
平和観音の優美な姿が眺められる。観音が立っている場所は七里岩といわれる丘陵の南端にあたる。そこから北西の方向に延々30kmにおよぶ細長い台地だ。大昔、八ヶ岳連峰の火山活動によって流れ出た火砕流が形成した台地に、南側を流れる釜無川が侵食して、高さ40mの断崖を作り出した。上部台地は幅2kmほどで、形が韮の葉に似ていることから、その先端にあたる観音の立っている辺りを「韮崎」と呼ぶようになった。JR韮崎駅のホームから目にした観光案内からの引用と断っておくが、この平和観音は「乳房が若干大きいのが特徴」である。市役所からはそれがよくわかるアングルにある。

「青坂入口」の二股を左にとって「一ッ谷」信号で国道20号に合流する。次の宿場まで20kmほどもあるので少し足早に歩く。

武田信玄による治水工事の事蹟として、釜無川堤防の根固めに並べ据えたという「十六石」の石標がある。すこし離れて一個ある石がそうかな?

水難供養塔が立つ二股で旧道は右にとって
下祖母石(うばいし)集落にはいる。最初のうちは住宅団地のようでおもしろくなかったが途中から海鼠壁、板壁長屋門、茅葺門など、古いたたずまいの民家が次々に現れた。下今井もそうだったように、甲州街道では宿場間の旧道にのこる集落のほうに、宿場街以上の古い町並みをみることが多い。

下祖母石と上祖母石の境付近にある桐沢橋の東方向、七里岩の上に武田勝頼が最後の砦にと築いた新府城があった。旧街道はここで反対方向の桐沢橋に向かう。
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台ヶ原

旧道は桐沢橋を渡って県道12号に出る。円野郵便局前で国道20号に合流し、すぐに右の旧道にはいって上円井(つぶらい)集落を抜ける。再び国道にでて韮崎・北杜市境の小武川(こむかわ)を渡る。橋を渡ってすぐ右にはいり武川町宮脇の集落を通る。「甲州街道一里塚跡」の新しい石碑をみて国道にもどると、まもなくその先で道が二つに分かれていて、間に海鼠壁蔵風の「武川村 米の郷  武川農産物直売センター」が建っている。

バス停には「村の駅」「町の駅」二種類の停車場名が記されていて、まだ最近の市町村統合の整理が終わっていない状態だった。2004年に北巨摩郡武川村は北杜市武川町となった。町の駅の右側が旧道で、牧原(まぎはら)集落に入る。
旧街道は牧原集落をぬけ、国道に合流して大武川橋を渡ると、すぐに左にはいって下三吹(しもみふき)をぬけていく。その集落の萬休院に国指定天然記念物の名木「舞鶴松」があるとのことだったが、偶然昨夜のローカルニュースで、松の枯れ死宣言と天然記念物指定解除のことが報じられていた。

国道を横切って今度は右側につづく上三吹を通り過ぎる。韮崎の一ツ谷で国道20号にのって以来、右や左に国道を分けながら懐かしい家並みをのこす集落をいくつも通り抜けて、5里近くの長丁場を歩いてきたが、ようやく次の宿場、台ヶ原にたどりついた。ここは「道百選」に選ばれている甲州街道で一番の本格的な宿場である。

「台ヶ原下」信号の二股に
「日本の道百選台ヶ原宿」の看板がある。右手に入っていくと早速、常夜灯や道祖神など石仏が一ヶ所に集められていて、道祖神には家畜の焼印のように、P番号がうたれている。パンフレットや案内板との連係プレーだと思うが、そこまでしなくても、と思わないでもない。あるいは道百選の選考委員からすすめられたか。台ヶ原宿の意識はそれほど高かった。

古街道の右も左も趣ある旧家で満たされている。中ほどの交差点あたりが宿場の繁華街で、本陣・問屋I・高札場J・水飲み場・火の見櫓が集まっていた。大きな常夜灯のある場所が本陣小松家跡Mだが、後ろの家もその西隣も新しい家で、古い民家や商家がならぶ台ヶ原宿場のなかでは景観として本陣付近が一番見劣りする。

大きな杉玉が下がった家が
「銘酒七賢」の造り酒屋、山梨銘醸である。高遠の酒屋から分家した北原家で、宿場の脇本陣をつとめた豪商であった。その時代の建物が西に隣接して残されており「明治天皇菅原行在所」の碑がた立っている。

七賢の斜め前の
「金精軒」も明治35年(1902)創業の和菓子の老舗である。夕飯時でも「信玄餅」を求めて出入りする客が多かった。

田中神社は茶壷道中の一行がその拝殿に宿泊したところである。茶壷道中についての詳しい説明板があった。徳川家光のころ、毎年茶摘の季節になると使者を派遣して江戸から東海道を下って京都宇治まで、新茶を採りに行った。帰りは茶壷をかかえて中山道から甲州街道経由で江戸まで行列を組んで帰還したのである。静岡にも立派なお茶が栽培されていただろうに、現代の常識では考えられない優雅な貴族趣味がまかりとおっていた。

その先に
「台ケ原一里塚跡碑」が建てられている。焼印はAであった。

台ケ原宿を抜け、
白州集落を通り過ぎる。畑中の道をたどって前沢のさきで一旦国道にでたのち、松林の中を神宮川をわたりサントリー白州製樽工場の前をすぎて再び右の旧道にはいる。


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教来石(きょうらいし)


旧道は松原、荒田の集落をぬけていく。右手に七里岩と、その上に八ヶ岳が頭をのぞかせるのんびりした道を行く。流川橋を渡り趣味の古道具店を通り過ぎると下教来石(しもきょうらいし)宿である。難しい「教来石」の名の由来については日本武尊にまつわる話が伝わっていて、それに関わった石が現存しているということだが、探さなかった。

国道「下教来石」信号からはじまる宿場はすぐ左手の空き地に「明治天皇御休所址」の碑が立つ
本陣跡のほか見るものはない。郵便局の横から旧道に入っていくと左手に諏訪神社が、さらにすすむと「明治天皇御田植御通覧之址」の石碑がある。街道は台地の端を走っているようで、右手にはながながと延びる七里岩の前に収穫をおえて体をやすめる田園が広がっている。

道は下って、加久保沢橋をわたったところで上教来石に入る。明治天皇の「お膳水跡」をすぎて教慶寺の前で一旦国道にでるがすぐに右斜めに離れて、国境の町山口に向かう。ここで山口素堂が生まれた。集落のおわりに山口関所跡がある。甲斐24関の一つで、信濃との国境に設けられた。関所の説明板に、天保7年(1836)の甲州僧騒動の時にこの番所を開門してとがめられ、職を解かれた二人の番士の名がでている。一人は外もので、他の一人は地元の名取氏だった。理由は書かれていないが、後、外ものの番士は復職して明治までつとめた。道向かいの「西番所跡」の石碑には、「責任をとり名取慶助は若尾と改姓」と、若尾氏自身が書いている。

山口集落に名取姓が多い中で、おれも名取だったのだよと、いわんばかりでおかしかった。

まっすぐの畑中の道をいそいで、
国境に到達する。国道沿いのコンビニの前に山口素堂の大きな句碑がある。

(2007年11月)
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