甲州街道−2 



日野−八王子駒木野小仏小原与瀬吉野関野


日野

立日(たっぴ)橋を渡る。おかしな橋名だが、立川と日野の最初の文字を取ってつけたようだ。橋上からながめる多摩川は浅くて川底の砂利がみえるほど流れは清い。のんびりとモノレールが走る橋をわたりおえた所で、「ようこそ新選組のふるさと日野へ」とかかれた大きな看板が出迎えてくれた。

道なりに南下して国道20号に合流し、右に曲がるとすぐ
「川崎街道入口」交差点だ。川崎街道(都道41号)はJR南武線「南多摩」駅まえの大丸三叉路で北からおりてくる府中街道(都道9号)と合流し、厚木街道で国道409号になって川崎本町で東海道に出る。南に向う者にとっては川崎街道であり、北に向う旅人は府中街道とよんだ。

「川崎街道入口」交差点のすぐ左手に
本陣跡(旧佐藤彦五郎宅)、右手図書館前に「日野宿問屋場高札場跡」の碑が建つ。旧佐藤彦五郎宅は江戸時代の建物が残る本陣として貴重なものだ。日野宿総名主だった佐藤彦五郎は剣道に熱心で、ここに道場を建て、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎ら、新選組の連中が出稽古に来ていた。また、彦五郎の妻は土方歳三の姉で、その縁をたよって当時ニート生活をしていた土方歳三が寄生していたところでもある。日野に限らず、近藤勇は布田5宿の一つである上石原村の生まれであり、甲州街道筋は新選組とゆかりが深い。

日野駅の手前、「日野駅前東」交差点を左折して駅前商店街を通っていく。宝泉寺を左にみて緩やかな坂にさしかかったところで道は線路に分断されて消失していた。旧道は線路の反対側に大坂上通りとしてつづいていてやがて日野自動車本社工場の手前で国道20号に合流している。街道が線路にかかる手前右手に8体の地蔵が並んでいた。脇に建つお堂の中には正徳3年(1713年)作という古い銅造りの地蔵菩薩坐像が安置されているという。大坂上通りの麓にあるので、
坂下地蔵と呼ばれている。ここが日野宿の西出口であった。

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八王子

国道20号の大和田町4丁目交差点をこえたところで、左に入る旧道が残っている。わずか300m余りの短い迂回だが、中ほどで富士見橋という小さな石橋を渡った。
大和田橋で浅川をわたると八王子の市内である。浅川の北岸には、隣にチャペルを配した豪華なホテルニューグランドが目立つ。そのあたりから南岸にかけて
大和田の渡しがあった。河原におりてしばらく散策したが、標識らしきものは見つからなかった。

橋の南詰めで、街道は国道からそれて右の北大通りにはいる。市立第5中学校歩道橋先の5差路を左斜めにはいっていくと突き当たり手前の竹の花公園に
「史蹟一里塚跡」の石碑が建っている。ここが八王子宿の入口にあたっていた。ところで不思議なことに、石碑の裏側に彫られている碑文にも、別にたっている説明板にも、一里塚の一般的な記述はあるものの、この一里塚が日本橋から幾つめのもの、あるいは何里目の塚であるかという肝心な点については固く口を閉ざしている。世間では12里という人と11里という人がいて、定まっていない。1kmほど先にみる道路元標の付近には「東京から45km」という現代の国道里程標があった。国道20号ベースでいえば44kmあたりで11里がぴったりだが、今歩いている旧道に加えて、部分的に残っている中世古道沿いに現存する塚跡を数えていくと12番目になるらしい。あいまいさにロマンを残しておこう。

隣の小さな永福神社の右手裏に
芭蕉句碑がある。

  
蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな

野ざらし紀行での句であってこの地に関係はないが、広々とした武蔵野の風景に寄せたものか。

道は鍵の手に曲がって国道20号で八王子駅前を西に通過していく。八王子宿は正式には横山宿とよばれ、八日市宿と横山宿を中心に15の宿で構成されており、
八王子横山十五宿と呼ばれた。八王子は甲州街道において都内最大の宿場であった。広い国道をはさんでいながら、沿道には市守神社のほか古い佇まいを見せる店が散見される。八日市町交差点の東南角の広場に道路元標があり、一般国道20号で日本橋より45kmの地点だとあった。

右手「夢美術館」の前に
「八日市宿跡」の碑があり、宿場の歴史が記されている。その先八幡町交差点を左におれて、JR踏み切りを越えた左手にある念仏院の時の鐘をたずねた。鐘は八日市宿の本陣を勤めていた名主新野与五右衛門を筆頭に、千人頭、千人同心、宿内15組等の協力で鋳造されたという古いものである。
踏切にもどり線路に沿って西にすすむと、右手台地上に
産千代稲荷があり、鳥居の左手に「史蹟大久保長安陣屋跡」の大きな石碑がある。武田家の猿楽師の子として生まれた大久保長安は、武田家滅亡後徳川家康の家臣になり八王子に封ぜられて町づくりの基礎を固めた実務家である。幕府役人としても石見銀山奉行、佐渡金山奉行として功績をあげたが、死後、生前の不正が発覚して一族は断絶した。

追分町の歩道橋に上る。西方向、左に折れていくのが現甲州街道国道20号で、右に直進するのが陣場街道である。陣場街道と左の側道との間に石碑がみえる。宿場の西はずれにあたるこのあたり一帯は
千人町とよばれ、八王子千人同心の中核になった元武田家臣が屋敷を連ねていた。江戸城の搦め手西方を固める手段として家康は八王子に千人を配した。軍事道路としての甲州街道を性格付ける一画である。

ここから整然としたイチョウ並木が続く。大正天皇が多摩御陵に埋葬された時植樹されたものだという。今週末がイチョウ祭りだそうだが色づきは5分といったところだった。晩秋の黄金色はみごとだろうと想像される。
黄と緑の入り混じる並木道は快適だが、ときどき足元から人糞の臭いが発してくるのが気になっていた。靴の裏をみたが犬の糞を踏んだようでもない。歩道に散乱する銀杏を片付けている清掃車をみて犯人がわかった。この悪臭からは当分解放されそうにもない。

高尾に至るまでに二度、国道の右側に残る旧道を歩く。最初が
「長房団地入口」信号で、右にはいり、すぐ左手にある大きな道標をみて左折する。NTT並木町社員寮の前をとおる静かな住宅街だ。二度目は「多摩御陵西」信号で、右斜めにでている道に入る。両側には板塀や生垣をめぐらせた家が散見され、八王子千人同心屋敷の名残りを偲ばせる。旧道は「町田街道入口」交差点で国道に合流する。町田街道(都道47号)の起点である。
ほどなく高尾駅前にきた。八王子追分から始まったイチョウ並木がここで終わる。西方の風景に山並が迫るようになってきた。これから相模に向う長い山越えの道がはじまる。

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駒木野

高尾駅まえからゆるやかな傾斜を上っている。
「川原宿」バス停を過ぎる。道が左に曲がるところで中央本線のガードをくぐり南浅川の両界橋を渡る。すぐ先の「西浅川」信号で国道と分かれ、右の旧道にはいっていく。国道20号は高尾山の南側をまわり大垂水峠を越えていく。他方、旧街道(東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線)は高尾山の北側を西進し中央本線、中央自動車道とほぼ並走して小仏峠を越える。距離にすれば旧道のほうがはるかに近道だ。

500mあまり行った右手の公園に
「小仏関所跡」の碑がある。もともと小仏峠にあった小仏関所を元和2年(1616)、駒木野に移したものである。移転後もそのまま小仏関所と呼ばれた。通行手形をならべた「手形石」や、許可をもらうために旅人が手をついて待ったという「手付き石」がうやうやしく前後してならんでいる。ちかくに大きな「甲州街道駒木野宿」の石碑が建っていた。脇にある「日本紀行文学会」による立て札には「ここ駒木野は日本橋を西へ去ること約12里の地点である」と書いてある。これにしたがえば八王子竹の鼻一里塚は12番目ではありえない。

念珠坂を下り
荒井をすぎたあたり、左に小仏川の清流がつかずはなれず道に寄り添う。蛇滝水行道場入口をすぎ摺指(するさし)にはいるころにはすっかり山道の景色だ。右側の開けた空中を中央自動車道と圏央道が走っている。関越道と中央道をつなぐ首都圏中央連絡自動車道のジャンクションがこのあたりに出来るのだ。道中で建設反対の立て看板をいくつも見た。鉄塔を渡り歩く曲芸並みの土木工事である。

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小仏・小仏峠

小仏宿は小さな集落でかって旅籠が11軒あったのみである。今はその面影もない。集落のはずれでバスは終わる。ここからの道は舗装されてはいるが、自力で歩いていかなければならない。バス停広場には多くのハイカーが帰りのバスを待っていた。一段と厳しくなた傾斜道をあるきはじめるとすぐ左手に宝珠寺があった。寄らずに先を急ぐ。すでに3時半になっていて日暮れまでに峠を越せるか気がかりになってきた。

やがて駐車場のところで舗装はとだえ、通行止めの柵のむこうは薄暗い砂利道が延びていた。小型の耕運トラクターに乗ったおじさんが降りてくる。マウンティンバイクをあやつりながら降りてくる若者がいた。道はさらに険しくなる。中腰で立ち止まり汗をぬぐっていると、若い女性の二人連れが降りてきた。

視野が若干明るくなって、峠の鞍部にこわれかけた小屋がみえてきた。頂上は小屋の向こうにある。信楽狸が3匹、「小仏峠頂上560m」の標識をとり囲んでいた。かっては二軒の茶店があったのか、夏場だけ開くのか、誰一人いない腰掛だけが淋しそうだった。

呼吸を整えて相模側へ下山を始める。小仏宿からの整備されたハイキング道とは違って、杉の落ち葉で埋まった自然の山道である。土止めされた階段状の山道を降りていく。視界が開けて、着いたと思ったら送電塔の空き地だった。再び山道にはいって林間に造られた空堀のような山道を駆け下りてようやく舗装道路に出た。

「小仏峠1.8km 底沢バス停1.7km 相模湖駅3.7km」の道標に「
クマに注意! クマの目撃情報が増えています。十分に注意してください。 鈴など鳴り物を付けて歩きましょう。 暗くなる前に戻りましょう。 霧など見通しが悪いときは帰りましょう」と書いた紙が貼り付けてあった。胸をなでおろすと同時に、高尾側は大丈夫なのかなと疑った。

道標に従い道なりに下っていく。中央道が見上げる空を跨いでいる。美女谷温泉入口を通過してふたたび高速道の下を潜る。「小原宿 小仏峠」の道しるべの脇に古甲州街道の道筋が説明してあった。旧街道は中央道建設の際に消失し、山道から舗道にでて以降の道は旧道とは関係のない道である。ほどなく国道20号と合流する三叉路が底沢バス停である。

小原宿についたころはすっかり日が暮れていて本陣らしき建物の屋根と火の見櫓のシルエットがメルヘンチックに見えた。


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小原

それから1週間後。紅葉はちょうど見ごろだろう。八王子で車窓から真っ白い富士山が大きく見えた。高尾のイチョウ並木はみごとな黄金色だった。空は冷えた快晴である。今日は神奈川県の北部を横断する。小原の本陣から歩き始めた。小原宿本陣は神奈川県内に残る唯一の本陣の建物で、小原の庄屋だった清水家住宅である。

大きな屋根は鉄板で覆われてはいるが、右側は養蚕のために入母屋を切り落とした形の兜造りとなっている。本陣と養蚕農家の融合した特徴ある建物である。玄関に大名駕篭が展示されていた。一人用のちょっとした移動式個室だ。土間にはいると奉行の定め書きが展示されている。原文に添えて当時の貨幣価値と現在の換算表が示されていて、当時の物価水準を知るうえで興味深かった。

正徳元年(1711)5月現在の吉野宿までの運送費が例示されている。小原から吉野宿までは51丁、6km弱の道のりである。タクシーならぬ馬に乗るといくらかかったか。三通りを想定している。

1.軽尻 一人と馬につける荷物は5貫(約19kg)まで  49文 約1225円
2.本場 荷物だけ40貫(150kg)まで 76文  約1900円
3.乗掛 一人と荷物20貫(75kg)まで 76文 約1900円

参考・江戸前期―中期
金1両=銭4000文  約100、000円
金1分=銭1000文  約25、000円
金1朱=銭250文   約6、250円
      銭1文     約25円
*江戸後期には金の値上がりで、約5割アップした。 金1両=銭6000文(約15万円)


小原宿は江戸から9番目の宿場で、片継ぎ宿場であった。小原宿は甲府方面行きのみを担当し、小仏から継いで、与瀬を通過して吉野に繋いだ。逆に、与瀬宿から江戸をめざす者は小原宿を素通りして小仏宿に向かった。宿場としては小さな規模で、200mもあるけば西の端にでる。道向かいに頭部の壊れた「南無阿弥陀佛」碑をみて、通行止めになっている細い坂道を降りる。

運動場の端を通り抜けて右折し、国道20号を横切って平野旅館の脇を右斜めに上っていく。中丸三叉路を経たあたりが峠になっていて、南の開けた景色をながめているとトンネルの狭間をブルーの電車が走り抜けていった。トンネルの上を越えたところで右側に設けられた急な階段を下りて、道なりに坂を下って桂北小学校の前の与瀬歩道橋で国道20号に合流する。

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与瀬


相模湖駅(旧与瀬駅)前商店街が与瀬宿だが昔の面影はない。湖のほとりへ下りてみた。平日の午前10時ではボートを漕ぐ人もいない。静まり返っている。

与瀬宿本陣は宿場の西はずれにあった。相模湖郵便局を通り過ぎ、セブンイレブンの向かい坂本家の茂った植え込みの中に「明治天皇輿瀬御小休所阯」の大きな石碑が隠れるように建っている。

坂本家の脇をあがっていくと
与瀬神社の二の鳥居に出る。幅広い階段橋で中央道をまたぐと、慈眼寺と与瀬神社の三の鳥居が並んでいる。ここからさらに段差のきつい石段を登って社殿にたどりついた。誰一人いない境内をゆっくり回ると、裏側にそれらしき和合の石仏が小祠におさまっていた。女陰石が主人公で男性の方は付け足しのようだ。

帰り道の階段からみわたす晩秋の景色がすばらしかった。国道まで降りずに二の鳥居の前を通る旧道を右に進むと、やがて中央道にぶつかり、脇の階段をおりて国道に合流する。高速道路とJR鉄道、そして国道と旧街道が複雑に絡み合った現代の難所に出る。交通量が多く歩道の整備が不十分な国道20号は歩きたくない道だ。「高尾―藤野間は連続雨量が150mmに達すると通行止」の看板が一層印象を悪くする。国道が高速道路の下でヘアーピンカーブするところにラーメン屋が二軒ある。最初の
「ラーメン関所」は閉めていた。

ここで旧道が再開され、右に上がっていく。ここからしばらく秋の色濃いのどかな
横橋集落の山里道が続く。右手山側には路傍の草むらに石仏塔が2、3集まって並んでいる。左の谷側は野菜畑の斜面が相模湖に向って降りていく。湖を囲むのは色づいた柔らかい山並みである。

やがて峠にさしかかったところで右手に階段が現れた。
横道配水池入口で、同時にこの峠が相模湖町と藤野町の境界をなしている。そばに「与瀬宿ー吉野宿」の道標が立っていた。

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吉野

旧街道はすぐ先の変則4差路を左に降りていく。一車線幅ほどの細い下り坂は中央道をまたいで、紅葉の雑木林をぬっていく素晴らしい山道をなしていた。ほどなく右手に観福寺が現れる。寺の前を通って急なカーブにさしかかるところで右手に気になる細道がついていた。古道では、と思いつつ足を踏み入れてみると中央線のトンネルの上に出た。わずか50mほどの短いトンネル間の隙間だが、両側の土砂崩れを防ぐ苦労の跡がひしひしと伝わってくるような風景であった。

ほどなく左に視界が開け、見下ろすと相模湖ICの料金所のようである。旧道は国道20号の喧騒に流れ込んだ。

吉野宿は右にまがっていくのだが、目の前の湖畔におりた。大きな橋の工事中で、どうやら橋脚の塗料がみじめにはげおちた
勝瀬橋を付け替えるようである。新しい橋は出来あがっていて開通を待つだけの様子である。がっしりしたきれいな橋よりも、きゃしゃでうらびれた古い橋のほうが紅葉によく似合っていた。

街道にもどって西に進むと左手に
藤野町郷土資料館「ふじや」、右手に本陣跡が出てくる。郷土資料館は旅館藤屋跡で、明治29年の吉野宿大火の直後に再建された。木造2階建ての町屋形式で、旧吉野宿の様子を伝える唯一の遺構である。中に入ると薄暗い土間に石臼が置いてあった。


向かいの本陣は
旧名主吉野家住宅で、由緒は承久の乱(1221年)にも遡る旧家である。大和の吉野からこの地に移り住んだ。江戸時代末期の建物は木造5階建てだったというから驚きだ。説明版に五層楼閣の写真が載っている。明治天皇行幸の際に天皇は二階で昼食をとった。古い土蔵が街道沿いに残っている。

沢井川に架かる吉野橋をわたって「藤野下」バス停の所を斜め右に上がっていく。藤野中学の前を通って国道に合流する。「日蓮入口」付近、国道の右側に大文字で刻んだ自然石碑があったが、何なのかよくわからなかった。藤野駅前商店街を抜け東京より70km地点で中央線を越える。

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関野


しばらく中央道の崖下にへばりつくようにして歩を進めていくと、関野宿集落にはいってきた。上野原美術館の趣きある建物にひかれて、反対側のバス停手前に
関野本陣跡の説明板が立っているのをあやうく見過ごすところだった。宿場は江戸から18里の位置にあり甲斐入りを目前にした相模国最後の宿場として重要視されたという。

関野宿の西出口付近に旅籠風の古い家が二軒ならんでいた。その先増珠寺の麓に追手風喜太郎の解説板がある。追手風喜太郎は天保7年(1836)大関になった。

道は左にまがり中央本線のトンネルを越えていく。小渕歩道橋から左の横道にはいると美しい谷間の風景を見晴らすことができた。トンネルを出入りする電車がくれば最高の絵になっただろう。歩道橋の先から右手の坂道にはいって小渕小学校を通る道が旧道のようで、国道はその台地の崖下に造られた恰好である。

「名倉入り口」で左に下っていく旧道にはいる。車はほとんど通らない静かな山道だ。坂を下りきったところで境沢の清流をわたる。境川が神奈川県津久井郡藤野町と山梨県北都留郡上野原町の境界をなしていて、甲州街道はいよいよ本丸の甲斐の国に入っていく。

(2006年11月)
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