甲州街道−3 



上野原−鶴川野田尻犬目下鳥沢・上鳥沢猿橋駒橋大月
いこいの広場
日本紀行
甲州街道1
甲州街道2
甲州街道4
甲州街道5
甲州街道6



上野原


180度のきついヘアピンカーブの乙女坂を上りきったところの山側崖面に、
諏訪番所跡がある。甲斐24関の一つで、相模国と甲斐国の国境にあって境川番所とも呼ばれた。甲斐・江戸への出入り・鶴川の渡し場の取り締まりなどを行っていた。番所屋敷は立派なもので、明治になって関所制度が廃止された後も明治天皇の巡幸小休所となった。明治17年に渋沢栄一によって買い取られ飛鳥山の別荘として移築された。

諏訪集落の家並みがおわるころ右手に諏訪神社がある。諏訪番所は最初この神社の東側にあったものが、宝永4年(1707)国境の坂上に移転された。上諏訪で
「油屋」の表札を門に掲げた旧家の前を通り過ぎる。漆喰壁の蔵と塀を配し、門にかぶさる姿よい松をはじめ、塀越に充実した庭の植え込みがうかがえる。油・味噌・醤油・酒を商う家で貧素なたたずまいを見たことがない。

街道は諏訪橋で中央自動車道を渡り塚場集落にはいる。地名が示すとおりここに
一里塚があった。跡地に赤い「疱瘡神社」が建っている。案内板には「日本橋から18里、17番目のもの」とある。この1つの数字のずれが甲州街道を歩く人々を悩ませている。どこかに一箇所、一里塚を築かなかった場所があったと思う一方で、後に、二つの数字が一致する一里塚が出てくる。どこかがおかしい。

街道は国道20号に合流して上野原宿に入っていく。駅前の新町2丁目辺りには創業百年の暖簾を垂れる名物酒饅頭の店や、「三井屋」の屋号が残る蔵造りの家など、旧家もいくつか残っていて宿場町の雰囲気を感じさせてくれる。案内図には本陣、脇本陣があるように描かれているが、沿道にそれを示す標識を見出すことはなかった。後に知ったことだが、ビジネスホテル「ルートイン上野原」が脇本陣、その先の東京電力営業所の横を入ったところに
藤田本陣跡の門が残っているという。

宿場の終わり、本町の歩道橋で道は三つに分かれている。右から、県道33号・国道20号、そして一番左の細い道が旧甲州街道である。途中道の左手に寛政9年(1797)の
「木食白道上人加持水井碑」がというものがある。木食白道とは何のことか、誰のことか、それ以前にまず名が読めない。写真だけ撮っておいたのが、のち猿橋にある大月郷土資料館に寄って、何者かが判明した。

まもなく道が三又に分かれている。真ん中に消えていくような路地が旧道で、民家の間をぬけて坂を下る。このあたりから見る鶴川の谷間を跨いでいく中央自動車道の眺めがすばらしい。細道は二股を右にとり、国道20号に架かる
「鶴川入口歩道橋」に出る。

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鶴川


「鶴川入口歩道橋」の下で、国道20号から県道30号が分岐する。県道の左に出ている近道を降りていくと、鶴川橋にたどりつく。橋のすぐ下流に渡し場があった。甲州街道唯一の「増水時徒歩渡し」で、増水期には相当の人夫を置き、川越(かわこし)によって川越賃銭をとり、渇水期には仮橋を架けて橋銭を取る仕組みになっていた。鶴川の渡しは評判がよくなかったようで、番所役人よりも川越人足の方が怖かったようである。

橋を渡ると右手に鶴川宿の案内板や宿場の入口を示す石標が建っている。鶴川宿はそもそも川留めに備えるためにつくられた宿場である。小さな集落ながら風情が感じられる家並みがつづいている。鶴川神社に寄った後、宿場のなかほど左手に見える白壁の蔵を撮っていると、ゴミを出しにでてこられた奥さんに招かれて、母屋の座敷を見せていただいた。「NHKのてくてく旅でも家に寄られたのですよ」「ああ、甲州街道は終わったのですよね。今、日光街道を歩いているのかな」

座敷の三間を区切る襖に書かれた太筆の二字が他を圧倒していた。「加藤」と書かれた表札の上に
「若松屋」の屋号札がかかっている。
「立派な屋敷ですね。昔は本陣でも…」「渡しの役人をしていました。二度の大火で宿場は全焼しました。」「本陣や脇本陣は?」「向かいの右となりが脇本陣です。本陣は宿場の北端にありました。今は道が通っているところです」本陣は建物どころか敷地まで無くなってしまったということである。各種の資料には「若松屋」は馬宿とも問屋とも紹介されている。鶴川は渡し場の宿場だから、渡し場の役人といえば宿場の問屋でもあったのだろう。

家々をみながら歩いていく。「中宿 藤井屋」の表札がある。「志村」姓が多かった。本陣跡であっただろうと思われる場所の手前の、民家の間を左に入り、見事な石垣で固められた崖下の道に出る。「旧甲州街道(野田尻方面)」の標識に従って、静かな旧道を歩いていると、恥ずかしげに頬を赤らめた少女のような土蔵にであった。傍の柿色を薄めて塗ったかのような淡い暖かさをしたためている。

家並みが途絶え山道を登ったところに数件の家が建っている。左手に「これより甲州街道 鶴川宿」の立て札がある。鶴川の渡し場が宿場の東口であったのに対し、ここが西口にあたる。峠をこえると景色が開かれて中央自動車道に突き当たる。しばらく並んで西に進んだあと、鳶ヶ崎橋を渡って大椚(おおくぬぎ)に入る。

橋を渡ってまもなく、左手に
一里塚跡がある。まだ新しい石碑と説明板が立っていて、その後ろにかわいらしい榎の苗が植えられていた。「江戸から19番19里にあたります」とある。諏訪の塚場一里塚には「日本橋から18里、17番目のもの」とあった。18里と19里の間に18番目の塚があったということになる。

大椚の集落がはじまるところに寛政12年の大きな二十三夜塔がたち、なかほど路傍には二基の石塔の間に、道標を兼ねて
「大椚宿発祥の地」と書かれた標柱が建っている。そういえば大理石の門柱に 「椚屋」と刻まれた立派な家があって、宿場を思わせる家並みだった。間宿で、立場茶屋でもあったのだろう。

集落の終わり辺りに吾妻神社と
観音堂が石塔群とともにまとまってある。神社のほうは鳥居と石段だけあって、その上には何もない。街道は右にまがって中央自動車道に沿った道に進んでいく。言うまでもなく高速道路の工事に伴って造られた新しい道で、旧道は消滅している。このあたり、どういう事情だったのか幅の広い高速道路自体も付け替えられており、北側には廃止された高速道路の跡が蛇の死骸のようにのびていた。莫大な収用費、工事費が無駄になっている。

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野田尻


高速道沿いの道のなかほどにポケットパークが作られていて、そこに
「長峰の砦跡」の碑と、芭蕉の古池の句と、弟子支考の句を刻んだ句碑が設置されている。句碑は高速道路建設工事で発見された。「池もないのに古池とは」というなかれ。昔はこの地に「長峰の濁り池」と呼ばれる古池があった。その池の竜神の恋人がお玉と称して野田尻宿の旅籠「恵比寿屋」で女中として働いていたのである。

街道はやがて「これより甲州街道野田尻宿」の標識が立っている丁字路を右折し、新栗原橋で新旧二本の高速道路をまたぐ。廃止された高速道路の出入り口から深い切り通しを抜けると野田尻宿である。この宿場も大火にあって古い家並みはのこっていないが、静かで落ち着いた雰囲気の集落である。「蔦屋」の屋号札は宿場時代の名残であろう。「和智」姓が非常に多い。

宿場の終わる辺り、犬島神社の手前に広い空き地があって、そこに「明治天皇御小休所址」の石標が建っている。野田尻宿の
本陣跡である。道は左にまがり家並みの尽きるあたりの三叉路に、天長元年(824)創立の古刹西光寺がある。旧甲州街道は寺の裏だと示す案内板に従って、寺の右側の坂道を上っていく。中央自動車道を石畳風の陸橋で渡って、その先短いながら気持ちよい杉木立の中の山道をぬけて県道30号に合流する。

右にカーブする手前の山側の崖に
荻野一里塚跡がある。説明板には日本橋から「20里、19番目」の一里塚とある。塚場一里塚の「18里、17番目」を引き継いでいて、大椚の「19里、19番目」と矛盾をきたしている。大椚の説明文は上野原教育委員会」によるもので、そのほかは上野原時代のものである。将来、市の教育委員会によって書き換えられるとき、この混乱が直るものと期待しておこう。

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犬目

矢坪橋で高速道路を渡った右手の「大乗妙典日本廻国供養塔」の先に、右に入る細い坂道がある。
矢坪坂といわれる古道で、享禄3年(1530)相模国北条氏縄の軍勢と、これを迎え撃つ小山田越中守の軍勢が矢坪坂を挟んで対峙し、結局小山田勢が敗退した古戦場跡である。今は日差しをうけたパンパスグラスが輝く平和な畑の風景となっている。

檻の中でやたらに吠えたてる犬を睨みつけて山道を進んでいく。切り立った崖淵にフェンスがかろうじて踏ん張っている。このあたり往時は
「座頭転がし」とよばれた難所であった。県道30号が真下に見える。やがてコスモスの花道に迎えられて県道へと降りていった。古道はまだ崖をつたって新田集落に通じているとのことだが、どこかで分岐点を見逃してしまったようだ。

安達野を経て犬目宿に入る。町並みは新しい。中ほどの犬目宿直売所の前に案内図と宿場碑がある。つづいて左手に
「犬目の兵助の生家」水田屋がある。兵助40歳のとき甲州一揆を起こしたが、逃亡生活をつづけた後郷里に帰ってきて71歳の長寿を全うしたという、「義人」としては極めて稀な生涯を過ごした。

右手火の見櫓の先に
「明治天皇御休所址」の碑がある場所は脇本陣跡である。犬目宿の本陣は宿の西はずれにあったというが、どこなのか分からなかった。上野原教育委員会の「犬目宿のいわれ」には、「本陣2、脇本陣0」とあったから、「明治天皇御休所址」も本陣の一つであろうと思われる。


道が右にまがった先に
宝勝寺がある。石段を上り、右につづく道を進んでいくと犬目宿を見渡せる見晴らし台地に出た。遠くの山並みが幾重にも横たわっている。そのどこかに富士の姿がみえるはずだが、霞がつよくて認めることは出来なかった。塵一つない静かな宝勝寺の境内を庫裏の方に歩をすすめると、開かれた戸の中から誰かがこちらを向いて笑っている気配がした。ゆるやかな法衣か浴衣の前をはだけて大きな腹を突き出している。十分な距離をたもって、望遠で一枚撮らせてもらった。無邪気に笑っているから無断でもよかったのだろう。

犬目の集落をでると道はなだらかにカーブしながら下がっていく。途中、左に旧道らしき道が下っている。鎖の脇から薄暗い細道をすこし入ってみると、下にあかるいゴルフ場(サンメンバーズCC)のグリーンがみえた。道の先は県道にもどる様子もなかったので県道にもどる。赤い鳥居をすぎたあたりで、右手の小高い畑地に趣のある茅葺の家が建っている。敷地には門、池や庭がしつらえられ、門に添えられた板柱には
「瀧松苑」と書かれている。営業をしている風には見かけられなかった。事後調査で、完全予約制の蕎麦屋ということだが確認はしていない。

君恋温泉への案内標を通り過ぎ、蛇行する下り坂の一角にこんもりとした
恋塚一里塚が現れる。「21里、20番目」と上野原町教育委員会は一貫している。この先で上野原市から大月市に入る。次の一里塚が楽しみだ。

上野原市の西端の集落、恋塚に江戸時代の
石畳が残っている。下り坂の県道左手に聖徳太子碑、右手に赤い鳥居がある。そこを右に入る道が旧道で、10軒ほどの小さな集落の終わりに馬宿跡だという旧家があり、そのさき林にはいると丸みを帯びたやさしい石畳の道が残っていた。わずか数10mで県道にもどり、大月市に入る。街道はひたすら坂を下っていく。

山谷をすぎ原田で右に舗装された旧道が残っている。「鳥沢小学校通学路」である旧街道の坂は急だが大きく蛇行する県道にくらべれば1/3もの近道であった。道はやがて中野集落を過ぎ、中央自動車道の高架下を通って国道20号に合流する。ここから下鳥沢宿がはじまっている。犬目からここまで随分と長い下り坂に思えた。その前にこれだけの高低差を上ってきた実感がない。上野原以降、上り下りを繰りかえしながらも蓄えてきた標高差を一気に解消したものであろう。

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下鳥沢・上鳥沢

鳥沢駅をはさんで東側の下鳥沢宿と西の上鳥沢宿は互いに500mほどしか離れていない。両宿は合宿として、半月交代で継ぎ立て業務をつとめていた。

「鳥沢小東」信号あたりが
下鳥沢宿の中心である。左手に長い庇をだした古い家が軒を連ねている。
駅入口手前の浜田屋の東隣あたりに一里塚跡の標柱が立っているとのことだったが、見落としてしまった。

上鳥沢の家並みは下鳥沢以上に街道筋の面影を濃く残している。旅籠叶屋跡の井上家住宅に見られるように、深くはりだした庇が特徴的である。建替えられた新しい建物も、そろえたようにながい庇を出しているのが印象的だった。


「上鳥沢」バス停の所が
本陣跡で、「明治天皇駐蹕地碑」が建っている。碑がある敷地の家より松を植えた西隣の家のほうが元本陣の雰囲気が強いが、どちらがどうだったということではない。碑が建っている場所あたり一帯にかけて本陣の広大な屋敷が構えていたということである。

宿場を抜けて西宮神社入口の先で右の旧道にはいる。三栄工業横をとおり横吹沢をわたって国道に合流する。道が左に大きくまがる所右手にガードレールに守られて立派な旧家が建っている。軒下の梁にさりげなくほどこされた彫刻装飾が家全体に品をあたえている。

小向集落の火の見櫓の先で右の旧道に入る。すぐの二股を左にとってつきあたりの小屋の脇を通って国道に下りる。道は民家の畑と草で覆われた藪道であり、古道の名残りも消滅寸前の姿であった。国道にでるとその反対側に、旧道の続きが桂川の岸辺までのこっている。のぞいてみたところ、国道に戻る道がなさそうにみえて、探索はしなかった。
国道で宮谷橋をわたって猿橋に向かう。

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猿橋

小菅に向かう県道505号入口の道路標識の先で右に入ると、丁字路の手前で民家の脇を左に降りていく道がある。桂川渓谷に架かる清楚な木橋が猿橋である。両岸は紅葉の木で埋められていて、もう1ヶ月おそければ、目を見張るような名勝猿橋を満喫できたであろうと惜しまれた。猿橋は、「肘木けた式」とよばれる構造で、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって支えられている。岩国の錦帯橋、木曽の桟とならぶ日本三奇橋の一つである。

橋を渡ると「明治天皇御召換所址」の碑や芭蕉句碑がある。
  
  
かれ枝に 鴉とまりけり 秋の暮  はせを

橋の正面は
「大黒屋」で、忠治蕎麦を売り物にしている。この大黒屋に国定忠治が逗留したという。中に入って、メニューも見ず当然のことのように「忠治蕎麦」を注文した。メニューを開いたときは遅かった。代金の半分は「馬肉竜田揚げ」に捧げられている。三切れほど食べてみたが、子供の頃食べさせられた鯨肉のような味がした。忠治は馬肉がすきだったのか。
店内に「NHK街道てくてく旅」のサイン入り色紙が飾られていた。親しくも感じつつ、興ざめでもあった。

岸辺に下りて猿橋を見上げる。橋脚が建てられない理由がよく分かる。

桂川沿いの遊歩道をたどって大月市郷土資料館に寄ってみた。一階では富士山を撮った写真展が開かれていた。世界中どこをさがしても、富士山ほど古くから多くの人に詠われ、描かれ、撮られてきた山もあるまい。二階で、上野原宿以来保留してきた、木食白道のことについての疑問が解けた。修行僧と木地師を合わせたような人間だった。

名勝鑑賞を終えて街道にもどる。宿内に史跡らしきものや宿場をしのばせる古い建物はなにも残っていない。資料館長に、本陣跡地を教えてもらった。猿橋から国道にでてきた「新猿橋西」交差点の東南角ということで、ガスステーションの向かいにあたる。風景は変哲もなく車の行き来が激しくて記録写真を撮る気もおこらなかた。

猿橋の町並みをぬけ、しばらく国道をあるいて「山梨中央自動車」の前で右にでている旧道に降りていく。

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駒橋

大月駒橋郵便局をすぎると、
東京電力駒橋発電所の2本の水圧鉄管が街道の地下にくぐっている。見上げるといかついコンクリートブロックに支えられて、巨大な管は崖のはるか上から降りてきていた。鉄管がとりはずされた空洞のブロックがいくつか、この発電所の歴史を物語っている。明治40年、東京電力の前身である東京電燈が建設した我が国初の長距離送電水力発電所である。

旧道はそのフェンス脇にのこる細い坂道を登っていって、中央本線の第5甲州街道踏切をわたり、国道にでるや歩道をそのまま進んで、国道の「横尾橋」バス停から右側に続いている旧道にはいっていく。短いながら情緒ある家並みが息をひそめるようにして寄り添っている。駒橋宿は本陣や脇本陣もなく、旅籠が4軒のみの小さな宿場であったという。

国道に合流してからも「駒橋」バス停前に、門柱に
「橿(かし)屋」の屋号を残したいかにも旅籠風の古い民家があった。このあたりが宿場の中心だったようである。

右手に、一部毛が抜けたラクダのこぶのような岩山がみえ、
「岩殿城址」の白い看板が樹木の中に見え隠れする。岩殿城は小山田氏の居城であった。

旧街道は「駒橋上宿北京亭前」バス停の先で国道から離れて右に入り、中央本線に近づいたところで道なりに線路沿いの商店街を進み大月宿に入っていく。

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大月

「ふれあいの街 さつき通商店街」は飲食店が多い庶民的な駅前商店街である。昼は閑散としている。大月駅前は乗降客で活気があった。来た道をふりかえると「さつき通り商店街」の上段に「ふれあいの街」にかわって「岩殿山登山口」とあった。そういわれれば駅に出入りする人には登山姿が多かった。

大月駅前の旧道と国道20号を結ぶ短い通りは、右には石造りの洋館風の建物にならんで、しっとりとした
万福旅館が老舗の味をだし、向いには千本格子がうつくしい寄棟と入母屋造りの古い家が軒を連ねている。ここが宿場の問屋場あたりであったかと思われるような雰囲気を醸していた。

実際の大月宿はさつき通りを抜け国道20号に合流した市役所前辺りにあった。その大月2丁目は駅前に残っていた面影がまったく感じられない無機質な通りである。少し先の左手に古びた滝口商店があって脇に「明治天皇御召換所址」の碑が建っているが、ここが本陣跡である。

富士急の電車が無人駅にとまって出て行くのを見届けてから、大月橋東詰の追分にぶつかる。ここで甲州街道は右に、左には富士山に通じる大事な道(現国道139号)が分かれていた。橋の袂のポケットパークに三基の道標が並べられている。現在、右にでていた甲州街道の旧道はなくなり、まっすぐに行く大月橋が架けられた。旧道に架かっていた「新大月橋」(むしろ、旧大月橋)を渡るために、国道をすこし戻って、滝口商店の向かいから北にでている道で中央本線をまたぎ、すぐ左におれて線路沿いの旧道を下っていく。新大月橋をわたると大月市花咲地区である。

(2007年11月)
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