甲州街道−6 



蔦木−金沢上諏訪下諏訪
いこいの広場
日本紀行
甲州街道1
甲州街道2
甲州街道3
甲州街道4
甲州街道5


蔦木

コンビ二の脇から古い国界橋をわたる古道が残っているのをしらなかった。国道20号で新しい国界橋を渡ると、下蔦木信号で古道が左手から合流してくる。旧道はその先をすぐ右斜めに上がっていく。坂の入口に
日蓮の高座石がある。どこかの歴史散歩サークルとぶつかった。坂のなかほどに小さな道標があるが石面はつるつるで文字が刻まれていること自体がわからない。傍の案内板に「武川筋逸見筋との合流地点の道しるべ『へみみち にらさきまで むしゅく』と刻まれている」とあった。行き先案内でなくて無宿警告である。

下蔦木の集落はすぐにぬけて、のどかな農道にでる。みちばたに野仏、石塔が
「富士見町指定史跡 応安の古碑」として集められている。

国道に接する台地に
「甲州街道 蔦木宿 古代米の里」と墨書きされた板看板が立っている。右の畑地にはいると、ぶどう棚の下に藁がならべられている。これが収穫したあとの古代米稲であろう。モミは黒や紫など多彩な色あいだったのではないかと想像するしかない。実った栗がイガをつけたままたくさん落ちていた。いくつか大きめの栗の実を拾って、皮をむいてみたら、総て虫食いで黒ずんでいた。奥州街道でつまんだ柿も全部しぶかった。うまい話はころがっていない。

坂を下り小川をわたると上蔦木にはいる。集落の入口に蔦木宿の案内板、少し先に
「桝形道路」の解説碑がある。

蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長16年(1611)ころつくられた。この宿駅は、新しい土地に計画されたので、稀に見る完備した形態となっている。枡形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割を果たしてきた。平成3年度の道路改良工事のために、南の枡形路を移動したので、その原形を碑面に刻し、これをのこす。  平成4年3月1日  富士見町教育委員会  上蔦木区

その枡形道で国道にでる。「上蔦木」信号の角に
本陣跡がある。江戸時代末期の建築であった主屋は昭和50年代にとりこわされ、門だけが保存された。「大阪屋」の屋号をつけた表札がかかっている。沿道の民家にも往時の屋号の表札がかけられていて宿場の町並み保存に一役買っている。なかには屋号札だけがたっている空き地もある。

その先の広場に明治天皇御膳水が復元されている。七里岩からでる湧水を利用して宿場の街道筋には16ヶ所の水道施設があったという。脇に謝野晶子の歌碑がある。

  
白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな

上蔦木の北口付近にも「枡形道址」の石碑がある。南口と対をなして、宿場の両口を鉤の手道で固めていた。南口にあった宿場の案内板が「完備した形態」とはこのあたりのことを言っているのであろう。

家並みが途絶えたところに石仏群がありその先に
芭蕉句碑があった。このような風景も宿場の典型的な形態である。 句碑の正面には文字がぎっしり刻まれていて、何が書かれているのかよく分からなかったが、その中には次の句が含まれているようである。

  
川上と此川下や月の友 

これは江戸、小名木川傍の五本松という名所に船を出して芭蕉の好きな名月を眺めて詠んだ一句である。川上でおなじ名月を楽しんでいる芭蕉の友達とは
山口素堂だといわれている。

街道は蔦木宿をでて国道に合流し、平岡集落の手前、「塚平」バス停の先に火の見櫓がみえてくる。そのうしろの欅の木が現存する一里塚で、根元に立て掛けてある小さな碑には、文語体で日本橋から
46番目の一里塚だと書いてある。また、本来は道の両側に塚があるものだが、ここは片塚である、と断っている。古道はこの一里塚の線上に国道の左側を通っていた。

右にはいって平岡集落を通る旧道があるが、これは甲州街道ではないと、じつは平岡でこの一里塚を教えてくれたおばさんに言われたのだった。おばさんは国道とその向こうの農道、釜無川を見渡しながら、「あのまっすぐな農道でもありません。国道のすぐ脇にあったのですが、なくなっています。この道は新しい道です」 そのまっすぐな農道に
「明治天皇巡幸御野立所」の碑がみえる。

昔、平岡集落は現在の川と国道の間に開かれていたが、たびかさなる洪水で、集落は徐々に北に上がっていった、というのが真相のようだった。おばさんは、私の「このみちは古い甲州街道ですか」という問いをまともにうけて、本当の古道の道筋をおしえてくれたわけで、今二人で立ち話をしている道は、新しい旧道なのかもしれない。

ということで、せっかく上ってきた道をおりて一里塚を確認し、そのまま国道を歩いていくことになった。

「机入口」バス停で右にはいる道は古道にまちがいないらしい。入口に野仏、石塔の類がならんでいる。「奇石かぐら石」をみて机集落をぬけた先、旧道は国道の瀬沢大橋手前で立場川をわたって
瀬沢集落にはいっていった。今は大橋をわたって迂回するしかない。古道が立場川をわたるラインは消失しているが行政区画的には小字瀬沢の南端をなしている。

旧道の面影を残す瀬沢集落から急な坂道をのぼり、峠をこえてとちの木集落をすぎ、富士見にいたる。富士見公園をみて坂を下っていくと国道と合流する。

JR「すずらんの里」駅に近い
御射山神戸(みさやまごうど)集落は蔦木と金沢宿の間の宿で、南北の宿場口に鉤の手道を設ていた。「神戸八幡」信号を左にはいって八幡神社による。

宝暦12年(1762)建立の社殿は大ケヤキがそびえる横で小柄ながら端正な姿を見せている。境内に多くの石仏などがあるなかで、交差点の案内板に紹介されていた
双体道祖神と芭蕉句碑をさがした。向かって社殿の左側に男女が寄り添う素朴な石の浮き彫りがある。普通は男が女の肩に右腕をまわし、一方の手は前で互いにつなぎあう姿勢なのだが、この二人の場合手の置き場がどうもあやしい。みれば見るほどあやしく思えて、男の左手は女の左乳房をまさぐり、そして女の左手は男の下腹部を握っているように見える。案内板にはそこまで触れていないので想像の域を出ない話ではあるが、隅におけない道祖神であった。

芭蕉句碑は社殿の右側にあった。天保14年(1843)の古い碑である。句は更科紀行での記憶をもとに詠まれたものといわれている。

  
雪散るや穂屋の薄(ほやのすすき)の刈り残し

 「穂屋」はススキの穂で葺いた家。

国道が集落をぬけるところで旧道は斜め左のなだらかな坂道にはいって行く。坂の途中に馬頭観世音の石碑群がある。峠に巨木が見えてきた。
御射山神戸の一里塚で、日本橋から48番目のものである。「49番目かもしれない」、ということわりがおもしろい。上野原町教育委員会の影響がここまでおよんでいるのかと思ったりした。

甲州街道のみならず、今までに見た多くの一里塚のなかで最も雰囲気に富んだ塚だと思う。両側に塚が残っているだけでなく、その塚の姿が美しく、また往時のままの大けやきの立派さは気高いほどである。

右の榎も明治以後の補植とはいえ、もう一人前の巨木の仲間にはいっている。始まったばかりの秋の色と朝日のもやに身をゆだねて、二つの塚は優美であった。

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金沢(青柳)


古道の風情は現代の景色にかきけされ、セイコーエプソン社員村を通り過ぎる。このあたり中央線の青柳駅に近い。まもなくおとずれる金沢宿も、最初は青柳宿とよばれていた。道祖神など旧街道の風景が復活して、宿場の前景集落の細い道をおりていくと国道に合流する。

泉長寺により、宿場の中心「金沢」交差点にくる。左角地が本陣・問屋場跡で、火の見櫓・明治天皇金沢行在所趾碑・諏訪郡金澤村道路元標が一ヶ所にある。金沢宿は、当初は北の権現原にあって青柳宿と称していたが、相次ぐ水害と火災で慶安4年(1651)現在地に移し金沢宿となった。沿道の家並みには、屋根にも壁にも赤錆色のトタン板が目立つ。そのなかで木鼻をみせる古びた民家は、江戸時代茶屋をいとなんでいた「近江屋」だという。誰も住んでいそうになかった。

金沢宿の本陣・問屋をつとめていた
小松三郎左衛門という人物は正義感がつよくて大変気骨ある男だった。隣の千野(茅野)村との間で林野の入会権をめぐって争いがあったとき、諏訪藩の不当判決に抵抗して、金沢橋の手前あたりで処刑されてしまった。後日そこに村人たちは地蔵尊を建て、義人小松三郎左衛門を供養した。地蔵は水害でながされ、そのあと祠の主は如意輪観音にかわっている。

金沢橋の袂に野仏が集まっている。橋をわたった「矢ノ口」交差点の角にこんもりとした
「権現の森」があり、石鳥居の背後に多くの恐ろしい形相をした石仏が並んでいる。金沢宿の開設前には、この森の北西に青柳宿があった。

街道はここから単調な国道を行く。七里岩の稜線がようやく低くなってきた。南端は平和観音の前の絶壁で終わっている。北端はなだらかに平地へ降りているのか興味があるが、まだその全貌はみえてこない。それとも、今見える丘陵はもう七里岩ではないのかな。

木舟橋をわたり峠をこえたところで左に入る路地がある。分かれ目に「右山道 左江戸道」と深く刻まれた道標がたっている。左手の高台に茅葺の小屋と半鐘塔があって、これは旧道に間違いないと思ってはいっていったが、すぐに宮川につきあたり、右にまがって坂室橋の南詰めに追い出された。

宮川坂室交差点付近はなんとなく風情がただよう道筋である。中央自動車道の下を通り抜けて「宮川」信号三叉路で国道とわかれて右斜めの旧道(県道197号)にはいり茅野市街地に向かう。

すぐに左手、三輪神社広場に
「明治天皇茅野御小休所」の碑が建つ。その隣に建つ三階建ての建物は白漆喰に土壁で、三段の屋根はレンガ色した板かトタンであろうか。等しい高さの各階には規則正しく窓穴が開かれている。古い蔵のようであり、比較的新しい倉庫のようでもあり、屋根をとって石造りにすれば西欧の僧院のようにも見える。気になる建物だ。

三輪神社の前には信州味噌の老舗、
丸井の本店だ。駐車中の観光バスを少年の柴犬が興味ありげにみあげている。中にいる乗客が窓から話しかけているのかもしれない。店内は味噌の作り方の展示はもちろんのこと、貧乏神とか、おかめ神、諏訪大社の御柱の切れはしだの、関係なさそうなものも寄せ集めて、遊び心にあふれた楽しい構成に仕組んである。昼時でもあったので、漬物類をしっかり試食して店を出た。

丸井の裏側にある
宗湖寺に寄って県道にもどり、上川橋をわたり茅野駅前から諏訪大社上社参道鳥居の前を通り過ぎて、「上原」交差点で国道20号と合流する。

「上原頼岳寺」信号のつぎの交差点を右折して、茅野上原郵便局の前を通り中央本線のガードをくぐって道なりに左に曲がっていくと、右から来る道との三叉路角に道標と常夜灯がある。道標の正面には
「右江戸道」と大きく彫られている。道はいよいよ諏訪市にはいる。

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上諏訪

神戸集落で
頼重院による。諏訪頼重は武田信玄の姉を娶った。他方、信玄は頼重の娘、諏訪御寮人(由布姫)を側室とし、その間に勝頼が生まれている。義兄頼重は義弟信玄に滅ぼされた。諏訪頼重の墓は甲府の東光寺にあるが、遺臣がひそかに遺髪を持ち帰ってここに葬ったという。武田家は信玄ののち、勝頼で滅亡した。戦国時代のひとこまである。

民家の脇に
51里目の一里塚碑があった。知らなければとおり過ごすところだ。
「霧ケ峰入口」信号の北側の山中に「桑原城址」の看板が見える。頼重はここで義弟信玄に敗れ、甲府に送られた。

旧街道は「旧道細久保」バス停で旧国道と合流し、「清水1・2丁目」信号でさらに新国道20号に合流して上諏訪駅前商店街を抜けていく。河西本店、呉服のかさね、元町三叉路の真澄醸造、総格子造りの
大津屋など、格別に古い建物というわけではないがそれなりに年季を重ねたたたずまいをみせる商家が何軒かあった。

駅前にきて国道に出る。ひそかに見当をつけていた
国道200km地点がこのあたりにありそうだったからである。両側を注意深くみながら歩いていったが一向にキロ標自体が見当たらない。中央線の踏切を越えた先でようやく出会えたのは「東京から201km」。1kmもどるとやはり上諏訪駅前である。もう一度念を入れて歩いていくと、黄色の短い三角柱が歩道石に置かれていた。仮設標識だろうが、やむをえない。

その道向かいに見つけた「史跡 虫湯跡」の石柱を撮って、山側につづく古道にもどる。

本陣跡かともわれるような「珈琲の店」は、かまぼこ型の屋根をした薬医門を構えていて、なかなか趣ある景色だ。すぐ先に樹齢300年の
「吉田の松」がよく剪定されて立っている。その先左手民家にはさまれて52番目の一里塚跡碑がある。51番目よりさらに見つけにくい。

古道は諏訪湖をみおろす高みを求めて、最終章の下諏訪に入っていく。

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下諏訪

落ち着いた雰囲気の高木集落になおいっそう情緒あふれる建物が軒を並べている。赤茶色の塀をめぐらせたなかに海鼠壁の土蔵と見越しの松を配してとりすまして見せる建物の住民は一体誰だろう。そのとなりは黒々としたモノトーンの格子造りで、こちらも門戸を締め切って、取り付く島もない。「橋本」とかかれた行灯と、銅製の外灯だけが、道行く人との接点だ。表札には「高原」、「長崎」とあって、謎めいている。北側の壁に
「甲州道中茶屋跡」と張り板があって、すこしほっとした。この50mはまったくすばらしい甲州街道随一の家並みといってよい。

しばらく行くと右手に明治天皇駐輦趾の碑と「石投場」の碑がならんでいる。昔、ここから石を投げれば
諏訪湖に届いたという。今はそれほど近くはないが、諏訪湖の広がりがみわたせる展望スポットにかわりない。

いよいよ甲州街道最後の
53里目一里塚にたどりついた。塚も榎もないが最後にふさわしい立派な石碑である。賑やかな下諏訪宿まで1km余とある。沿道の風景はまったく市街地のそれになってきた。大社にたどりつくまでに、下諏訪の市街地をもだえあるくものかと思っていたのに、ゴールはあっけなくやってきた。

広い駐車場の右手奥に大きな鳥居がみえる。ゆるやかな石段をのぼりつめながら40年前の記憶をたどっている。こんな石段だったか。
諏訪大社に上社と下社があることを知っていたか。下社に秋宮と春宮があることを知っていたか。林に蚊帳を吊って寝たのは本当に秋宮だったか。多分なにも知らなかったに違いない。近くの銭湯で10円払って数日分の垢を落としたことは覚えている。ここから甲州街道が分かれていることも意識にはなかっただろう。拝殿、御柱を見てもここで一夜を明かした時の景色はよみがえってこなかった。

番屋跡本陣跡を見て中山道との合流点を見届ける。


(2007年11月 )
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