今より約321年の昔万治2年12月皇紀2319年1659年隅田川三又現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体がこの地に引上げられ此れより約80m隅田川岸旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象となりかなり栄えておりましたが明治維新明治5年当時此の通りを日本橋永代通りとx最初の日本銀行開拓庁永代税務署等がxxにあり高尾稲荷社は只今の所に移動しおとづれる人もおおかったが昭和20年3月20日戦災により社殿は焼失いたし時代と共に一般よりわすれられ年々と御参詣人も少なくなってしまいました。時折り町名変更につき当町会名保存と郷土を見直そうとの意志により高尾稲荷社を昭和50年3月再建工事の折旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり数少ない郷土史の史料を守るため今後供皆様のご協力をお願い申しあげます 日本橋区北新堀町々会 |
釜屋の渡しは、上大島村(大島1丁目18番)と八右衛門新田(北砂1丁目3番)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・ 釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡し」がありました。以下略 平成9年3月 江東区教育委員会 |