奥州街道(10)



船迫槻木岩沼増田中田・長町仙台
いこいの広場
日本紀行

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船迫

韮神山から国道に並走する旧道をたどって、柴田町にはいる手前で国道をよこぎって北船岡地区を通り過ぎていく。白石川の北岸を大規模な土地開発がおこなわれたようで大型店舗がならぶ郊外型ショッピングセンターだ。ジャスコの裏側を通り抜け、道なりに国道をよこぎって住宅街にはいっていくところが旧船迫宿であった。

上町−下町の地名から昔の町のなごりをにおわせるが、いくつかの建物が昭和時代をおもわせるほかは、全くの新興住宅街の家並みであった。
道がおくまって右に旋回するあたりにみつけた薬師堂と、柴田高校の西側にのこる旧道に、ようやく旧街道らしい面影をみた。


国道を横断して東船迫にはいる。本船迫にまして大規模な土地区画整理事業が行われた跡がみえる。記念碑には、ここが旧奥州街道の道筋であって、かっては松並木がつづいていたことを訴えている。

東船迫を去るあたりから、旧街道は左の国道4号線と右には白石川に急接近して、せまい間を槻木に向かってのびていく。途中リコー保養所への入口に仙台里程道標がたっていた。川向こうには東北リコー工場がある。仙台から7里とあることから、金ヶ瀬までの距離は10里だろうと推定した。

船迫宿についての旅記録はとぼしかったが、ここの宿場の実質は対岸の船岡にあったといってよい。実際、旧国道は大河原からすでに川の南にわたって、船岡の町を東西に走っていたのである。

寄り道というより、船迫宿の重要な一部として船岡をたずねる。そこには奥の細道とも、奥州街道とも直接関係のない、しかし歴史的に興味のつきない話題がまっていた。
国道4号を船迫入口ちかくまで逆戻りして柴田大橋を渡って船岡城下町にはいっていく。

船岡

頂に白衣の平和観音像がたつ館山に船岡城があった。白石川と奥州街道を挟んで、北側の韮神山と対峙して仙台平野の入り口をおさえる重要な要塞であった。元和元年(1615)、仙台藩の原田甲斐宗資が城主となったが、伊達騒動によって一族が滅亡し、その後柴田家が明治まで城主をつとめた。

城主の期間としては圧倒的に柴田家の方が長かったが、1970年のNHK大河ドラマ『樅の木は残った』以降、原田甲斐と樅の木が船岡の代名詞となった。伊達騒動に引き込まれた船岡城主原田甲斐の生き様を描いたのが山本周五郎作『樅の木は残った』である。伊達62万石をつぶすために、藩内に内乱をおこそうと画策する幕府に対し、原田はひとえに自己犠牲をしいて伊達家の存続を守り抜いた。逆臣原田の通説を覆して忠臣原田を創りあげた。

昨夜の雨でぬれた落ち葉を踏みしめながら山中の歩道をすすんでいくと一本の樅の木の前にでる。山本周五郎の文学碑がつくられていて、最終ページからの一文が彫られていた。

 雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。空に向かって伸びているその枝々は、いま雪を衣て凛と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに、しんと立っていた。
 「――おじさま」
 宇乃はおもいをこめて呼びかけた。すると樅の木がぼうとにじんで、そこに甲斐の姿があらわれた。

「樅の木公園」から川向こうの船迫宿を眺めている。手前の白石川の堤防にそって続く桜並木は「一見千本桜」の名でしられ、船岡城址公園の桜も合わせて桜の名所である。



町中に当時の趣を残している通りがある。水路にそって「陣屋」とかかげた蕎麦処や白壁土蔵の店がならぶ。その向かいに、黒塀に見越しの松を配して海鼠白壁土蔵をかまえる麹屋がある。『樅の木は残った』にでてくる豪商麹屋又左衛門の屋敷である。又左衛門は原田家、柴田家に仕えた御用商人で、大正時代まで味噌醤油を醸造販売していた。また、江戸時代の貴重な資料を展示する「麹屋コレクション」としても知られている。

柴田家菩提寺である大光寺をおとずれる。境内の庭に芭蕉句碑があった。俳句好きな和尚が建立したものだそうだ。

  
名月や池をめぐりて終夜(よもすがら)


本殿の裏に500羅漢の200体あまりが残されている。小さな石仏がせまい石室にとじこめられて、一種異様な空気がたちこめる空間だった。明和年間(1764〜1772)この地方に疾病が流行し、苦しむ住民を救おうと、芭蕉句碑を建てた第14世環中道一和尚が、経文を唱えながら像を刻んだものである。

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槻木

奥州街道にもどり、JR東北本線をくぐりぬけて、白幡(しらはた)橋たもとの交差点を左におれて槻木の町にはいっていく。宿場町のにおいが濃いひなびた町並みをみせている。所々に古い蔵屋敷も見える。駅近くの交差点角に建つのは、かっての旅籠茶屋で350年の歴史を誇る
逢隈旅館である。現在18代目の老舗で、茶屋のころからウナギの焼き物で評判だった。

公民館向かいの酒屋(
北条家住宅)は広大な敷地を有して周囲を建物の連なりでめぐらしてある。独立した家屋なのか、長屋なのか、小屋・蔵・納屋などの羅列なのか、建前はちがっても建物との間に隙間がない。敷地は学校の運動場ほどの広さにみえた。


槻木中学の先で国道4号に合流したのち、岩沼市境の手前の信号で右折して旧道に入り、阿武隈川の堤防下を行く。左手に
郡境碑があった。「西 柴田郡槻木村 東名取郡千貫村」とあり、柴田郡と東名取郡を分けるものだが、今でいえば柴田町と岩沼市との境界である。
伊達町以来別かれていた阿武隈川と久しぶりで再会するこになった。

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岩沼

玉崎

玉崎集落の川端に大きな蔵のある玉崎問屋渡辺家の屋敷がある。江戸時代の玉崎問屋で、米沢・仙台藩のお城米や、その他荷物の運漕をつかさどっていたほか、玉崎荘は仙台藩主や代官の宿舎を提供していた。玉崎荘の外、問屋門・文庫蔵・御用米蔵等の建物が残っている。

文庫蔵、御用米蔵の側をとおり、玄関に近づくと、二階で布団を乾している奥さんと目があった。中庭にはいる許可をえて文化財に指定されているという庭園を拝見する。文久2年(1862)仙台藩お抱えの庭師が築園したもので、近江八景をかたどったとされている。

堤防に上ると阿武隈川のゆったりとした眺めがすばらしい。白河−須賀川−福島と、福島中通りは阿武隈川の旅でもあった。田町大橋からながめた初々しい阿武隈川の清流は、いくつのもこまかな流れを集め、最後に白石川を飲み込んで川幅をひろげ、いまや滔々として流れている。なじんできた阿武隈川ともここでお別れとなった。

東(あずま)街道

玉崎問屋から旧道に戻り、国道4号線の下をくぐり、更に北上しJR常磐線のガードをくぐると、岩沼市街である。
途中、奥州街道を北にそれて千貫神社に立ち寄った。神社が目的ではなく、その前を通っている東街道をこの目で確かめておくためである。

東街道は、都から国府多賀城に至る古代の官道東山道とほぼ一致するといわれ、古代から中世にかけて、千貫−北目−笠島−塩手−箕輪−熊野堂を通り、名取川を渡って富沢に出、宮城野を経て国府多賀城に至る街道であり、江戸時代に奥州街道が整備されるまでは基街道として使用された。陸奥守などの役人が赴任地への通り道とし、西行が旅し、義経・弁慶・吉次・源頼朝の大軍が通ったのもこの東街道であった。玉崎の千貫神社から仙台まで、現県道39号線(仙台岩沼線)にかさなっている。この道には藤原実方ゆかりの史跡が残っており、そこへは名取から寄り道することにする。

桑原1丁目に始まる岩沼宿は、前線基地の北上にともない、多賀城市に国府が置かれる前まで陸奥国の国府がおかれていた土地である。旧道は道なりに岩沼市街地の桑原1丁目を抜けて、本町の三叉路を左に折れて、宿場の中心街へと進んでいく。この三叉路が水戸からやってきた陸前浜街道との合流点だと思ったが、主要街道の合流点にしては説明板も追分道標もみあたらない。
中央2丁目の岩沼小学校入口付近にたってある街道案内図によれば、この三叉路は旧国道の4号と6号の合流点で、旧浜街道は一筋北の通りを東にはいり市役所の横を通って南に下っていたようだ。また
「江戸浜街道」という名で出ていて、仙台を起点とし岩沼で奥州街道から東に分かれ、水戸を経て江戸に通じる街道をさしていた。いずれ水戸から、浜街道をたどってここに戻ってくる予定だから、その時確かめることにしよう。なお、水戸では「江戸街道」とよんでいた。水戸−江戸間は太平洋から内にはいっているので「浜」をつけなかったことには理由がある。

一般に、その土地土地で目的地を冠した街道名をつける例が多いが、それを全国統一的な呼称でよぶには多くのローカルルールがあることを承知しておこう。江戸からみれば奥州街道でも奥州からみれば江戸街道であり、さらには「鎌倉街道」のように、江戸につうじる道は基本的に「江戸(街)道」なのである。なんとか工夫して識別の努力をしている例が「日光街道」だろうか。最終的には機械的に番号をふることで決着をつけることにした。

岩沼宿

宿場の南口あたりから、日本三稲荷の一つである
竹駒神社への参道がでている。承和9年(842)陸奥の国守であった小野篁が奥州鎮護を祈願して創建された。平泉藤原家や伊達家からも手厚い庇護を受けている。入り口に芭蕉の「二木の松」の句碑と、その句碑を建てた東龍斎謙阿の「朧より松は二夜の月にこそ」の句碑が相並んで立っている。

大きな鳥居を三つくぐり、狐像を囲った瑞身門と、浅草雷門なみの巨大な赤提灯をつるした唐波風造りの唐門をくぐりぬけて、清楚な社殿の前にでる。大きさは仰々しくなく、薄化粧をほどこした品のある女性を思わせる社だ。
平日の午前中という時刻のせいか、人出はまばらであったが、広い駐車場、会館、土産品店、食堂の施設がととのい、参道や境内は手入れも行き届いて、三大稲荷の名にはじない風格をそなえている。

岩沼は古くから馬市で知られている。市は安土桃山時代から神社の境内で開かれていた。江戸時代には年に100日もの馬の市がたったという。神社入口にある馬事博物館に関係資料が展示されている。

竹駒神社から北西に200m程行った二木2町目の歩道脇に「二木の松」が道路側に傾いてのびている。根本が一つで幹が二本に分かれた松で、歌枕
「武隈の松」として親しまれている。「武隈」は「岩沼」の古称で、「竹駒」は「武隈」からきた。芭蕉は岩沼にきて、竹駒神社よりもこの有名な松をみることを楽しみにしていた。「武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ・・」と高揚し、「桜より松は二木を三月越し」と一句詠んだ。芭蕉が見たのは5代目の松で、現在の松は江戸時代末期に植えられた7代目といわれている。
 
岩沼宿の中心付近には蔵造りの商家が多くのこされており、宿場町の雰囲気を十分に味わうことができる。二木の松から岩沼宿の大通りにでると、左手の二階建て長屋門の建物が
南町検断屋敷で本陣も兼ねていた八島家住宅である。門の両側の長屋にはいくつかの店が間借りしていた。右側の小野酒造店は昔の大肝煎で、店には看板や帳場が当時の姿で残されている。表札には渡邊とあり、塀越しにのぞくと店の裏には広壮な屋敷が続いていた。道標をすぎたところに「相傳商店 文政4年(1821)創業 相原傳兵衛」の屋根看板をかかげた相原酒造店がでてくる。店構えは新しいが中町検断を勤めた旧家である。

寄り道

貞山堀

司馬遼太郎が仙台・石巻をたずねようと仙台空港に降り立ったとき、まず向かったのは目的地とは逆方向の阿武隈川河口であった。その道中で貞山堀を見て、改めて仙台平野の豊かさと伊達政宗の大きさに感じ入った。貞山とは政宗の諡名(おくりな)である。司馬遼太郎に仙台藩は『巨大な米穀商ともいうべき藩だった』といわしめるほど沃土にめぐまれた土地であった。政宗は有り余る米を江戸に売るため、搬送用に塩釜から阿武隈川河口の荒浜まで33kmにおよぶ運河を掘った。明治時代の開削をふくめると阿武隈川河口から石巻の旧北上川河口までを結ぶ50kmちかくにおよぶ長大な人工水路である。荒浜と石巻からは大量の仙台米が東廻航路で江戸に運ばれていった。

その偉大な遺跡の日の出の風景を撮りたかった。2007年の夏、岩城相馬街道の仕上げの旅で亘理の宿を4時半に出た。仙台東部有料道路を一区間走り、県道125号を東にとって県道10号を南下して浦崎の田圃のあぜ道でカメラを構えた。朝靄が地表にただよう中を松並木の向こうに日が昇り始める。


場所を移動して「新浜橋」に来た。最近NHKの衛星放送で見た景色はたしかこの橋からの風景であったと思う。松並木、運河、川舟、刈田、ススキ、朝もやと斜めの逆光。これだけあれば十分だろう。このあと亘理大橋を渡って荒浜までいった。阿武隈川は美しいデルタを形作りながら穏やかに太平洋に流れ出ていた。

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増田(名取)

岩沼の町をでて東北本線の本郷踏み切りをわたると急に景色が左右にひろがりをみせてあらわれる。金黄色にいろづいた草葉を前景に、千貫山をはじめとする低い里山がつらなり、その背後に遠く青くかすんだ蔵王連山の山並みが美しい。

道はどかにひろがる刈田をぬって館腰に向かう。途中、
植松4丁目の川内沢川の南袂に三角柱の「道祖神路」があり、一面に芭蕉の句が刻まれている。笠島にいけなかった無念の一句である。その面がちょうど標柱の陰になってうまく撮れなかった。

 
  笠島はいづこ皐月のぬかり道

道標石碑は安政3年(1856)に建てられたもので
「笠島塚」、「芭蕉塚」とも呼ばれている。遠慮がちに芭蕉塚の隣に立っている小さな道標には、正面に「笠嶋道」、側面には「距 愛島村 二十四丁」と刻まれている。実際、奥州街道から笠島にいくには、この道標より少し手前の県道20号を西に向かうのが一番はやい。
 
館腰神社をすぎて奥州街道の左の小高い丘陵に
雷神山古墳をたずねる。古墳の全長が168m、後円部の径が96m、高さが12m、前方部の長さが72m、先端の幅が96m、高さが6mと東北地方最大の前方後円墳である。古墳の立地や造営方法・出土埴輪から前期古墳の要素を持っており4世紀末から5世紀前半の築造とおもはれている。被葬者は名取地方一帯を支配した地方国家の大首長の地位のものと推定されている。西側に名取が丘の町並みがひろく見渡せる。

古墳を見終わって足を西に向けた。そこからおよそ3kmいったところの笠島を東街道が南北に走っている。平安朝時代の長徳4年(998)陸奥守に任ぜられた
藤原実方中将朝臣が、赴任途中道祖神社の前を通りすぎた時、地元民の意見をきかずに神の怒りに触れて、または単純に不注意で落馬して死んでしまった。色恋に満ちた貴公子にしては、ひとにみられたくないようなはずかしい死に方だった。も目立たない形で人目につかないところにつくられてある。

芭蕉はそんな実方の話にも好奇心をもやし、ぜひともたずねてみたいと考えていた。雨に降られ日も暮れて、仙台への道を急いでいた都合もあって断腸のおもいで寄るのをあきらめた。東街道は旧奥州街道よりもいっそういにしえの香りがたちこめる古い道筋で、寄ってみる価値は十分あると思う。

足を東にもどして増田宿に向かう。奥州街道にもどって、増田交差点のすぐ北左手に薬医門をかまえた古風な屋敷が目をひいた。長い土塀をまわした広壮な屋敷である。表札には「庄司」など三つの苗字がならんでいた。門をのぞくと内庭に「明治天皇増田御膳水」の碑がたってある。

増田2丁目に名取市増田公民館が有り、この場所が名取郡の宿駅北方
検断屋敷・本陣跡であった。「明治9年明治天皇巡行小休所」の碑があり、このおり庄司家の井戸水が使われたということだろう。そばに推定樹齢600年という「衣笠の松」が枝を低くはりだしている。
隣の増田神社には珍しい形の灯籠が並んでいた。

公民館の北、名取駅前交差点から東に県道129号が出ている。その道を東に2.5kmほどいったところに国指定重要文化財
「洞口(ほらぐち)家住宅」がある。交差点を多賀神社、大聖寺と反対方向の南にはいり、左手の案内標識にしたがって進むと、目を見張るような豪農屋敷があらわれる。寄棟茅葺の屋根は最近葺き替えられたようで、一糸乱れぬ端正なたたずまいを見せている。開放されているようで、かってに母屋にはいっていった。奥座敷に架けられている二代にわたる当主夫婦の写真がじっとこちらをにらんでいるように見えた。

街道にもどり、宿場の出口にあたる田高交差点の北西角に道標がたっている。正面に「村田道」、左側には「距高館村二十九丁」と刻んであった。 

高田、上余田を過ぎると仙台市太白区に入る。

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中田・長町

南仙台駅から北へ名取川までが中田宿である。仙台市内ではあるが、まだ旧街道の雰囲気を残す古い家並みをみることができた。

名取川を名取橋で渡る。

長町

諏訪町を過ぎ、風景はビルが連なる繁華な市街通りに変化する。町は仙台市街にくみこまれて宿場の面影はない。


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仙台

広瀬橋をわたって道は左にまがって仙台宿河原町にはいっていく。そのまえに右に入って
「旅立ち神社」によった。仙台城主が江戸へ向かうとき、道中の安全祈願のために必ずここへ立ち寄っていくところである。神社は広瀬側のほとりにあり、土手にあがって川をみたが、『青葉城恋歌』のロマンティックなイメージは浮かんでこなかった。城近くにもっとよい場所があることを期待しよう。

国道4号から河原町1丁目へ斜めに入ったところが仙台宿の入口で、そこに木戸があった。丁切根(ちょうぎんね)とよばれる木戸の鍵番は、今も南材木町に土蔵をかまえる「針生屋」であったという。

突き当たり丁字路の右手に
「河原町横町」の標式がある。そこを左におれて河原町1丁目1番地に店をかまえる庄司青果店で右にはいり、つきあたりの南材木町小学校のグラウンド前を左折する。つぎの交差点を右にまがると南材木町だ。今も営業を続けている材木店がある。右手の蔵造りの店は丁切根の木戸鍵番を勤めた「針生屋」だ。

枡形をとおって穀町を北に進む。それぞれの旧町名を刻んだ石標の裏面には町名の由来が記してある。町人の職業べつに町割りした様子がよくうかがえて面白い。
ゆるい坂を上がった三宝荒神社のある交差点を左折して荒町を西に進む。
右手に、谷風の碑がたつ
東漸寺、藩校養賢堂の正門を移して山門とした泰心寺がでてくる。

国道4号を横切ってまっすぐそのまま細道を進む。現在の五橋2丁目だが、かっては田町、染師町とよばれていた地区である。
下町情緒ののこる界隈で、
「開福湯」の銭湯が営業をつづけている。
道は一時、広い五橋(いつつばし)通りの並木道にでるが、次の北目交差点を直進して再び路地にはいる。

突き当たりにみえるのが柳町大日堂で、そこを左折におれて柳通りを西にむかう。
途中、五橋通りに分断されるがそのまま向こう側につづく道にはいって、すぐに東北大の北側で右折し、再度五橋通りを横断する。

芭蕉の辻

ここからまっすぐに延びる国分通りが宿場の中心街であった。七分に色づいた青葉通りのケヤキ並木を通り過ぎると、
「芭蕉の辻」とよばれる交差点にでる。明治安田明治生命の窓に、明治初期の芭蕉の辻をえがいた大きなパネルが展示されている。辻の四隅に2階建て入母屋造りの櫓風建物が陣取り、長屋風の店蔵がつづいている。ここが仙台宿の中心地であった。

明治安田生命の軒先をかりて、「芭蕉の辻」の碑と、「道標」が据えられている。道標には、
「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」と標されている。江戸から仙台まで、宿場の数にすれば中山道とおなじだけこなしたのに、道のりはようやく奥州街道の半分近くをきたにすぎない。奥州街道は日本最長の道である。道標には、仙台までが奥州街道、仙台から北は奥道中と使い分けている。広い奥州のうちでもこれから北はさらに奥まった地域だということだろう。

「芭蕉の辻」の名称の由来については確かなものは見あたらないらしい。すくなくとも松尾芭蕉とは関係がないということだが、むしろ芭蕉と曾良はここで奥州街道と決別し、道を東にとって松島に向かった分岐点だ、としておいたほうが最もわかりやすいと思うが、どうか。思い出されるのは須賀川から乙字ヶ滝をみて日出山にでる途中にあった「芭蕉の辻」である。どうみても高札があるような場所でもなく、奥の細道絡みとしか考えられない。

この辻を西にとって大橋をわたると青葉城に至る。とりあえず宿場の奥州街道を北端まで歩きおえることにしよう。

道の景観は芭蕉の辻を中心とする金融街から、飲食の看板がめだつ歓楽街を経て、宿場はずれの下町の家並みにかわってくる。庶民的なみせにまじって
「熊谷屋」などの老舗も健在である。

前方に北山がみえるころ、左手に
旧検断所の屋敷(伊澤家住宅)があらわれる。人は住んでいないようだ。北山は城下の北限をなし、多くの寺が集まっている区域でもある。突き当りの青葉神社は伊達政宗を祀る神社だが創建は明治と新しく、感慨を深くするほどのところではない。

北山には伊達氏ゆかりの古刹が多い。その一つ
輪王寺によった。嘉吉元年(1441)、伊達家11代持宗が福島県梁川に創建した。以来伊達氏の居城が西山−米沢−会津−米沢−岩出山−仙台と移るに伴い輪王寺も転々とし、伊達政宗とともに仙台にやってきた。輪王寺の六遷と呼ばれている。本堂の右脇から無人自動改札機を通ると、睡蓮の花が咲く池に鯉が泳ぐ回遊式庭園の静かな空間に出る。池の向こうに昭和56年建立のまだ新しい三重塔が静かにたたずむ。

街道は青葉神社から右に曲がって寺町風の情緒漂う通りを進んでいくと、足軽の居住地区だったという堤町に入る。仙台最北のこの町で北山一帯で産出される良質な粘土を使って足軽が内職として焼き物を始めた。「堤焼」として知られる伝統産業は明治時代に最盛期をむかえたのち、昭和40年代に姿を消した。そんな中でただ一軒、当時の面影をつたえる登窯が「佐大商店」に残されている。
「堤焼 佐大ギャラリー」の看板を掲げる店の裏手にまわると6段の登窯があった。煉瓦の目地は粘土で塗り固められて、外観は少々のっぺりとしているが、個々の窯の内部をのぞくと、黒光りした煉瓦の壁や素焼きの壷類が見られて往時が偲ばれる。

佐大商店の先、左に曲がる角に高札場風の掲示板が立っており、「御仲下改所(おすあいどころあと)」と「堤焼佐大ギャラリー」の解説が記されている。平成13年までこの場所に徴税を目的とした番所が建っていた。

街道はその先で国道4号に合流し仙台をはなれて次の宿場七北田に向かう。

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仙台市内散策

芭蕉の辻にもどり交差点を西にすすむとそのまま大橋を渡って青葉城跡入口に至る。

橋からながめる広瀬川は下流をのぞむ南方向がよい。川はすぐにS字形に深く蛇行するため流れはみじかくさえぎられるが、両岸からせまる森の緑が都会の雑景をかくして、心休まるながめを呈している。左岸の森が経が峰、右の緑が青葉山。「旅立ち神社」の堤防にたって抱いた期待は裏切られなかった。
 
広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳
季節(とき)はめぐり また夏が来て あの日とおなじ流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない  (星間船一作詞)

大橋をわたった左手に仙台市立博物館がある。入口にL字形にならぶ
五色沼と長沼は城の外濠でその内側に三の丸があった。五色沼に男女ペアによるフィギャースケート像が秋の午後の日を受けて立っている。明治の時期にアメリカ人の指導を受けて二高(東北大学の前身)の学生がこの沼でフィギャースケートを楽しんでいたという。北の国ならではのエピソードだ。博物館の庭には魯迅の碑と、本丸跡でみる政宗騎馬像の胸像部分の原型が展示されている。政宗の胸像は第二次大戦の生き残りだと聞いて、感慨深いものがあった。

五色沼をすぎると左に昭和40年に復元された脇櫓が建っている。向かいの堂々とした石垣との間に大手門があった。城の構築物は火災と昭和20年の空襲で壊滅的に破壊され、残念ながら青葉城の面影を偲ぶ建物はこの櫓だけとなった。

右手の東北大学法学部が所在するひろい青葉山公園は二の丸跡である。2代藩主忠宗は山城である本丸は不便だといって二の丸を造営し、以後明治までここが藩の政庁として、又藩主の私邸として使われていた。50棟もあったといわれる二の丸の膨大な建造物群も二度の大火で全焼した。道路わきに支倉常長立像と、
「阿部次郎の散策の道」の案内図があった。

阿部次郎といえば西田幾多郎の「善の研究」、和辻哲郎の「風土」、九鬼周造の「粋の構造」、倉田百三の「愛と認識との出発」とならんで青春時代必読の哲学書の一つであった「三太郎の日記」の著者である。阿部次郎は明治16年(1883)山形県生まれ、東京帝国大学で哲学を学び、大正12年(1923)40歳で東北帝国大学に招聘されて終生仙台にすごす。昭和34年(1959)76歳で逝去。仙台市名誉市民。
 
樹木の生い茂る山道を登りつめたところに本丸があった。伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て慶長6年(1601)に入城した。城のある青葉山は標高132mで、南と東は深い谷、北は広瀬川で仕切られ、西は山岳地帯につづく天然の要害である。典型的な山城で天守閣は築かれなかった。本丸跡には建物の遺構はなくわずかに復元された石垣がなごりをとどめるのみである。松の傍に立つ
伊達政宗騎馬像は雄々しく姿がよい。上部のオリジナルが三の丸跡にあることは述べた。

仙台生まれの土井晩翠の碑がある。代表作
「荒城の月」の歌碑が刻まれているが、モデルになったのは青葉城ではなく会津若松の鶴ヶ城だということになっている。

立地は申し分なく伊達政宗というスーパーヒーローを擁しながら、その城跡史跡としては正直、寂しい感じがぬぐえなかった。朱色のけばけばしい護国神社はそのカモフラージュのような気がして逆効果だ。

本丸跡から一気に平地に降り立ち、青葉山の南山麓を半周するようにして、広瀬川の蛇行がつくりあげた舌状の丘陵地帯に移動する。鬱蒼とそびえ立つ杉木立の坂道を上がっていくと、経ヶ峰といわれる伊達家の霊場に至る。経ヶ峯には、伊達政宗の霊屋瑞鳳殿をはじめ2代忠宗の霊屋感仙殿、3代綱宗の霊屋善応殿及び9代周宗、11代斎義、同夫人の墓所妙霊界廟、5代吉村以下の公子公女の墓所御子様御廟がおかれ、藩政時代から伊達家の霊域となっていた

瑞鳳殿の手前に藩祖伊達政宗公の菩提寺
瑞鳳寺がある。寛永14年(1637)二代忠宗公によって創建された。寛永7年(1637)鋳造の梵鐘の前で、ピンクの帽子に薄青色の制服エプロン姿の幼稚園児たちが、ピンクのカーデガンを着た女性保育士の説明を受けていた。
「この鐘をおおきな木で思いっきりたたくと、ご〜んとなるんだよ。ワカルカナ?」

本堂前の冠木門は三代綱宗公側室椙原お品邸にあったもので俗に
高尾門といわれている。三代綱宗は『樅の木は残った』の背景となった伊達騒動のきっかけをつくった男である。幕府筋の策謀か単なる本人の不徳か、吉原での遊女遊びがたたって若くして逼塞を命じられた。その相手が絶世の美女高尾大夫だったのである。二人の関係については俗説がいりまじっていて、高尾には他に情人がいて、それを嫉んだ綱宗は隅田川の舟中で高尾を吊り下げて切り殺したというひどい話もつたわっている。殺されたのであれば高尾の名がここに残ることはありえない。しかし綱宗にとってはそれが命取りになった。

伊達政宗の霊屋瑞鳳殿は華麗な桃山風の建造物で、昭和20年の空襲で消失したあと昭和54年に再建された。日光東照宮陽明門のような豪華極彩色である。装飾過多で適度にその華美を描写する言葉がない。

ここから亀岡八幡宮と大崎八幡宮をたずねていく。道順は記述するには非常に難しい。
亀岡八幡宮は東北大学の北方にある。どうたどったのか裏参道から神社裏にはいったようだ。文治5年(1189)に伊達氏の祖・伊達朝宗が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建された。、

青葉山を下り牛越橋で広瀬川をわたり、国道48号に出ると
大崎八幡宮がある。慶長12年(1607)伊達政宗によって創建された桃山建築の傑作といわれている。前九年の役にむかう源義家が京都男山八幡の神体を持ってきて現田尻町に祀ったのが最初で、中世には大崎氏が崇敬して今の名前になった。

宮城野をたずねることにした。芭蕉もよったところでツツジや萩の名所としてしられた歌枕である。旧陸軍第四連隊の敷地を経て今は榴ヶ岡公園として整備され、桜の名所として人気がある。ひろいグラウンドの東端に旧兵舎の建物に歴史民俗資料館がはいっている。中にはいって、芭蕉の句碑のありかをたずねた。受付の女性は館内の情報をあつめて、資料館の裏につづく坂道まで案内して、三人の歌碑を示してくれた。藤村と芭蕉とあと一人は江戸時代の川柳作者である。
「このほかにも榴ヶ岡天満宮に芭蕉の句碑があります」

榴ヶ岡天満宮は榴ヶ岡公園の西側にある。境内に伊勢の俳人雲裡房が芭蕉の五十回忌にあたり、芭蕉と芭蕉門下の各務支考(蓮二翁 雲裡房の師)を追慕して建てた句碑があった。

    あかあかと日はつれなくも秋の風    芭蕉
        
十三夜の月見やそらにかへり花    蓮二翁

そこから南東にむかい若林区木ノ下にある
国分寺跡に急ぐ。国分寺の東側を東山道が走っていた。山門前に礎石が出土し、住職と二人の研究員が立ち話をしている。山門の内側には一面に銀杏がちらばり一人老人がもくもくと手袋をはめて実を拾い集めていた。銀杏の外種皮は有毒で直に触れるとかぶれるそうだ。果肉をそいで芯の実を食べる。
  
陸奥国分寺は奈良時代に創建されたが、頼朝の奥州征伐のさいに焼失した。慶長12年(1607)伊達政宗が陸奥国分寺跡に
薬師堂を創建し同時に仁王門や鐘楼などを建立した。

600mほど東に
国分尼寺跡がある。国分寺跡にくらべれば規模はずいぶん小さいが、それでも金堂跡の礎石が発掘、保存されている。

仙台の印象として、自転車の盛んな町だった。学生の多いせいだろう。

(2005年12月)
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