奥州街道(9)



藤田貝田越河斎川白石金ヶ瀬大河原
いこいの広場
日本紀行

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藤田(国見)

追分けから右側の道をとって、田園地帯を北に進むと半田を過ぎて国見町の中心街、藤田に入る。県道46号線(国道4号線を起点として、西へむかって小坂小学校で桑折からきた旧羽州街道(県道353号)と合流し小原で国道113号線に出るまでの羽州街道)をこえてすぐ右に曲がる。道なりに大きく左にまがるあたりから、500m弱の小さな藤田宿がはじまる。家並みからは宿場の面影を見いだすことはできなかった。

藤田駅と旧街道のほぼ中間に
「観月台公園」が作られていてそのあたりが行政文化の中心であるようだ。なぜか義経の像が立っていた。人工池のほとりに「旧佐藤家住宅」として江戸中期の本百姓の茅葺の家が保存されている。

公園の北方、平屋の市営住宅がならぶ小高い丘の頂上付近に空き地があって、
「藤田城址」の標識が立っていた。伝えによれば、文治5年(1189)鎌倉軍と奥州藤原軍が阿津賀志山の戦いで激突したとき、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置いて指揮をとったといわれている。藤田宿における唯一の史跡らしき場所だった。


鹿島神社でゆるやかに右に折れて、国道4号に合流する手前を左に折れる。坂をあがって左の畑中をすすんでいくと丘の頂上にいたる。この丘を硯石山といい、頂上にある巨石を
弁慶の硯石という。近づいて石の上をのぞくと確かに硯の海のごとくに、50cm前後の長方形をした穴が穿ってあり、もみじ葉が重なって水に浮いていた。義経・弁慶が京と平泉の間を行き来したときに通った道筋にあったのだろう。この近辺の奥州街道沿いには義経にまつわる伝説が多く伝わっている。

車が方向転換できるくらいの狭い空き地からは、三方のパノラマを見渡すことができて爽快な気分になる。誰もいない畑に柿がなり放題に実っているのでいくつか小枝ごといただいた。車の中でいそいそとかじってみると見事に全部渋かった。形は甘がきの風体なのだが、中身は別らしい。


街道は県北中学校のところで国道とわかれて右のローカル道を下っていく。坂をくだったところの十字路で街道をはずれて左の道にはいり、国道の下をくぐりぬけてしばらくいくと右手に
「義経腰掛松」の標識がでてくる。民家の横をぬけて舗装道路を越えた柿畑に低い放物線をえがいた赤松の姿がみえる。初代の松は、近江の唐崎の松、摂津曽根崎天神の松とともに「天下の三名松」として名声を博したという。現在の赤松は二代目だが三本の太幹のうち二本はすでに枯れており、一本足でようやく老体を支えている体である。

左手前方になだらかなダイヤモンドヘッドの形をした稜線を描いているのが鎌倉・奥州軍が激突した古戦場、厚樫山だ。東麓を東北自動車道・東北本線・国道4号線・旧道がよりそって並走している。いずれの道も厚樫山の東腹の張り出しを避けるように大きく右から左に旋回している。

合戦にそなえて奥州勢は阿津賀志山山腹から東は阿武隈川まで延々と東西に延びる防塁を築いた。
阿津賀志山防塁は、福岡県福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁とともに「日本三大防塁」として国指定史跡である。今も土盛りと空堀の跡が所々に残っていて、旧道の峠には「防塁横断地点」と記された木標が立っていた。

旧道は大木戸の集落をぬけて国道に合流する。古来の奥州街道はもっと西の山麓を通っていたようだ。その一部が新国道の
国見峠付近に残っているという。

国道を横切った交差点の左角に交番がある。旧道跡の場所を確かめるために高床式の交番に飛び込んだ。親切そうな警察官が鉛筆と紙をとりだして地図をかきながら説明してくれた。自分も一緒にいきたそうなそぶりで、熱心にその「旧道」のよさを説くのだった。一度ならず行っているようで、説明は具体的で詳しい。

「こちらから峠をこえたところにマツヤという食堂がある。そこに車をおかせてもらって歩くとよい。国道をよこぎって西側から入る道がある。芭蕉の碑もある。昔、そこに峠の茶屋があった」
いわれたように国道を藤田方面にもどり、マツヤで昼食をとった。車をしばらく置かせてもらおうと訳を話すと、食堂の奥さんは国道まで出てきて50mほど先の狭い入口を指差した。
「車でいけますよ。道は舗装してあるし、旧道のまえには駐車場もありますから」

ヘヤーピンカーブの道をたどって、中腹にその道はあった。長さは100mくらいの雑木林を切り開いてつけたような静かな道が樹林のトンネルの下に休んでいる。こもれ日が広葉をまだらに照らして、詩情あふれる小径をなしている。奥まった空間に他の石碑類にまじって「奥の細道」にちなんだ芭蕉翁碑があった。

厚樫山の東腹山麓を通る東山道の、国見峠にいたる坂道を長坂とよんでいた。平泉方の大将藤原国衡の軍勢がここに陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃った場所である。
防塁構築の努力もむなしく、奥州軍は敗走した。平泉藤原氏幕引きの土地ともいえるわけだが、一方で、この戦いで功を遂げた常陸入道念西が伊達郡を与えられて伊達氏(初代伊達朝宗)を名乗り、あたらしい奥羽の統治者として登場する伊達氏幕開けの土地でもあった。芭蕉のあこがれる義経の忠臣佐藤基治もこの奥羽合戦で討死した。厚樫山は東北の歴史を塗り替える大舞台を提供したのだった。

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貝田


再び交番の前にもどり、貝田の集落に入っていく。街道の古道は途中で右斜めに田畑のあぜ道に入っていた。あぜ道に残っている庚申供養塔が古道の証になろうか。宿場ちかくではあぜ道も舗装され、丁字形に旧国道と合流する。その地点に湯殿山碑、庚申塔、三つの石、「奥州街道貝田宿」の表示板などが集まっており、
貝田宿の南口であった。貝田宿も風呂沢川をはさんで長さ400mほどの小さな宿場である。

宿場の中央あたりに昔の宿場図が掲げられているが、その図が示す名主兼問屋跡や検断屋敷跡、制札場跡などの地点をたずねてみても標識もなければそれらしい家の佇まいもみられなかった。たび重なる大火で町並みは消失し古い建物はほとんどなくなってしまったという。


ようやく旧街道の面影をとどめているのは宿の北外れに位置する
最禅寺と、貝田番所跡である。旧道は最禅寺の前を右にまがる細道だが、今はその跡を失っている。白河の境の明神で始まった「奥の細道自然遊歩道」はこの最禅寺が終点となっていて、そのことを示す標柱が立っていた。福島県中通りの奥州旧街道は奥の細道自然遊歩道でもあったわけで、貝田宿以北の福島県域に旧道は残っていないということを示している。国道にもどって宮城県へ急ごう。

国道4号の峠手前が県境で左手に粗末な
境界石が立っていた。一般には境界は峠や稜線を基準にするものだが、ここの県境は峠よりも福島県寄りにある。伊達藩が少しでも峠越しの見通しを確保しようとつい境界線を押し込んでしまったものと聞いた。栃木−福島県境である白河の関でみた、大きな石標や神社付の関所跡などにくらべると、福島−宮城県境は地味な境界だ。

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越河(こすごう)

街道は宮城県白石市越河に入る。まだ峠に達しないうちに、国道の両側に二つの史跡がある。右側の路傍にあるのが史跡「下紐の石」。6世紀後半のこと、用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという。この場所はまた、古く坂上田村麻呂が関所を設けたところで、以来「下紐の関」として名所となった。

下紐の石の反対方向に目をやると谷底を走るJR線路脇の草深い土手の斜面に「越河番所の跡」の大きな標示板が立っている。要するに、この付近に古くは坂上田村麻呂の関所が、近世には伊達藩の南口を警備する番所があったということだ。「お産の紐云々」は何のことかよくわからない。 

東北自動車道の下をくぐり越河清水で国道とわかれて左の旧道に入ると越河宿になる。入り口には宿場の表示板がある。越河は仙台藩領の南端に当り、警備のため仙台藩から役人がここに派遣されていた。現在の旧越河宿の町並みには旧家をみることがほとんどない。


越河駅の手前でJR線の踏切を渡り東側に出てすぐに旧道にもどる。越河駅の北側にでる旧道がのこっているらしいが、どうやら見過ごしてしまったようだ。矢尻の白石南中学前で国道4号線に合流する。



斎川

国道4号線の左手に馬牛沼が現れる。地図には白鳥飛来地とあるが姿はみえなかった。沼の水が抜かれていて、数羽の白サギが沼底をつついていた。11月の風物詩となっている「沼乾し」の時期にぶつかったようだ。明治の頃からこの沼では鯉が養殖されるようになり、沼乾しは沼の浄化のためなのであろう。この沼の一風かわった名前の由来は幾つか伝えられているようだが、あまり気にしないことにする。

沼を過ぎ峠の手前に小さな駐車場スペースが設けられていて、その奥に「斎川孫太郎餅」と大きく書かれた看板を掲げた食堂がある。
「孫太郎」とはヘビトンボの幼虫のニックネームで、乾燥させた孫太郎虫は子供の「疳(かん)の虫」の薬として売られた斎川の名物だった。


峠を越えたところで右折して旧道に入る。馬牛沼の北を取り囲む山を切り通してつけられた峠は奥州街道最大の難所といわれ、崖がせまる険しい道であったため、騎馬の名人源義経にして鐙を岩にこすったといわれる。S字状に下っていく
「鐙摺り坂」の崖斜面に石碑がなかば散乱している。その中に「孫太郎虫供養塔」があった。

坂道を下りおわるころ、斎川の手前に坂上田村麻呂を祀る田村神社がある。人気の点ではその隣に建つ
甲冑堂が圧倒的にまさる。甲冑堂の祭神は、楓と初音という名の凛々しい二人の嫁である。源義経の家来佐藤継信・忠信兄弟の妻、楓と初音は夫の鎧兜を身につけて姑の前で彼らの活躍ぶりを演じて慰めたという。芭蕉はこれを医王寺でみたと勘違いした。

「堂内の拝観希望者は社務所まで」とあったので、玄関のベルをおすと、現れた紳士は首にかけているカメラを一瞥して「撮影はおことわりしているのですが…」と決断をせまられた。「じゃー結構です」と、結局医王寺でも甲冑堂でも、楓と初音には出会わずじまいに終わった。

斎川を渡って宿場に入る。入口に「斎川宿」の看板がたつ。現在の町並みで宿場街であった面影を残すのは、中ほどにある
旧検断屋敷(旧島貫家)ぐらいになってしまった。島貫家といえば瀬上宿にはいったばかりの場所に陣取っていた広壮な屋敷を思い出す。ここの検断屋敷は無人の建物で、塀の板壁が痛んで廃屋にちかい状態におかれている。庭に柿の木と明治天皇御休息所の碑を見ることができた。

斉川踏切で西側に渡り国道4号と合流してすぐの斎川歩道橋の先左手に明治22年の道標がある。陸羽街道の道標で、仙台を起点にしたものだ。

右側 距仙臺元標十四里 左側 磐城国刈田郡斉川
  
同じところに「東京より300.7q」の新国道キロ程標もたっている。さっそく700m分だけ国道4号を引き返し、
東京より300km地点の記録写真を撮ってきた。位置的には斎川宿の西にあたる。


斎川歩道橋から四方の景色を楽しんでいたら、国道沿いの田んぼにS字形にうねる細い土道をみつけた。耕運機がつけた田のすじとあいまってきれいな曲線をえがいている。おそらくこれが旧道ではあるまいかと、勝手な喜びに口元がゆるんだ。


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白石

国道4号の大平交差点でバイバスに入らず右折して旧4号で市内に向かう。

田町の昭和シェルガソリンスタンドで右折する。かってこの角にあった明治22年の「一等道路東京街道道標」が、今はすこし左に入った白石中学正門に移されている。最上部に指差し手の線彫りがありその下に英文の記載がある珍しいものだ。英文は「Main Road For Tokyo」と読める。


旧道はそこから一筋東の当信寺(山門は城の東口門)の前を左折、この辺りが白石宿の南口であった。白石駅から来る通りとの交差点をクランク状に横断、本町から中町へうつる。ここに枡形があった。交差点の東北角は旧高甚本店跡地で、現在は整備された「すまi(い)る広場」となっている。広場の背後をかこむように立ち並ぶ建物は、壽丸(すまる)屋敷で、明治中期の店蔵をはじめとして、数棟の土蔵を有や書院屋敷、大正時代の母屋などからなる渡辺家の住宅である。渡辺家は明治に興った豪商で、地場特産の白石和紙の紙問屋をはじめ太物屋、味噌醤油醸造、不動産業、金融など手広く商っていた白石指折りの経済人であった。現在も仙南信用金庫と蔵王酒造の経営に携わっている。

宿場街は南から本町、中町、長町、亘理(わたり)町、短ヶ町、新町の六町からなり長さ1.4kmの大きな宿場町であった。商人町にはそれぞれに市神が設けられた。その一つ亘理町の市神が、つきあたりの歯医者の裏手にある。歯科医の前を左折して国道113号を西にすすむと、右手に「うーめん番所」の大きな看板がたっている。このあたりに白石宿の北口木戸が設けられていた。

「うーめん番所」で昼食をとる。白石和紙とともに、この土地の伝統的特産品として知られるウーメン(温麺)は、9cmほどの短いソーメンである。時は奇しくも芭蕉がこの土地を歩いていた元禄2年、白石城下に住む鈴木浅右衛門という親思いの男が、胃を病んで苦しむ父親のために、油のかわりに葛をつかった素麺を試し、これを父にすすめたところ胃病はみるみる快方にむかい、やがて全快した。城主片倉景綱はこの親孝行な息子の温かい思いやりを誉めて『温麺』と名づけたという。

国道113号を更にすすみ、東北自動車道をこえて愛宕山の北側山麓にやすむ「片倉小十郎歴代御廟」をたずねる。石段をのぼり白石の町をみおろす見晴らしのよい墓地の外縁をまわりこんだ奥に、初代片倉小十郎景綱を初めとして代々の領主とその家族の墓が並んでいる。10体の阿弥陀菩薩像は9代の城主と7代村廉夫人の墓標としてつくられたもので、「片倉小十郎歴代御廟」を特徴あるものにしている。

城の北側を流れる沢端川沿いの後小路には家臣の武家屋敷が並んでいた。この一画には今も民家ながら、門をかまえた格式ある家並みがつづいている。なかでも
小関家屋敷は享保年間の古い建築物で中級武士の屋敷と言われている。佐倉、但馬家と同じ格だ。清冽な流れの傍に、母屋、門、塀が保存された。間取り・部屋つくりは素朴で、農家住宅を素地として武家屋敷への過渡的形態をしめしているといわれている。

川づたいに西の方にまわり、市営野球場の方から城山にのぼることにした。

坂を上っていくと二の丸跡に天守閣をバックに、身長197cmの大きな力士像が立っている。当地出身の第18代横綱大砲万右衛門(1869−1918年)の等寸大銅像である。尾車部屋に入門し、明治25年に入幕。通算成績は106勝30敗52分け4預かり。横綱時代は引き分けが多く、負けない横綱として「分け綱」の異名を取った。41年に引退し、年寄「待乳(まつち)山」になる。相撲に「引き分け」なんてあったのだ。

高い石垣をまわり込むと、正門入り口に出て、そこで待機していたボランティアのおじさんたちが盛んにガイドをすすめに来る。大手門をくぐると、白壁のうつくしい天守閣が優雅なたたずまいを見せていた。前で菊の展示会が開かれている。

白石城は、刈田経元が後三年の役(1083〜1087年)後ここに居城したことに始まる。14世紀末には刈田氏の子孫白石氏が天正14年(1545)まで城主となった。その後、蒲生氏、上杉氏の所領を経て、慶長5年(1600)伊達政宗の領するところとなった。後慶長7年(1602)、伊達政宗の重鎮片倉小十郎景綱が入城し、明治維新まで10代260年間にわたって片倉氏1万8000石の居城となる。一国一城が原則であった幕府の方針に唯一の例外を認めて、仙台藩には白石にも城を許した。片倉景綱は徳川家康も一目おいた知将であったといわれている。

その平和も幕藩体制の崩壊とともにみじめな運命をたどる。幕末の戊辰戦争時に官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成し、白石にはその公議所が設けられた。同盟はもろくも数ヶ月で崩壊、仙台藩は会津藩に先立って降伏した。片倉家の家臣団は領地を失い、白石で帰農する他、北海道に移住していった。北海道開拓団の移住費用を捻出するために城は売りにだされ、明治7年に城郭が解体された。

うーめん番所横の道を堤防に出て、白石大橋で白石川を渡る。
これより奥州街道は槻木で阿武隈川と合流するまで白石川に沿って東進する。



旧街道は下川原で国道4号に合流し、 白鳥橋で児捨川をわたる。
国道から左に入ったところ、薬師堂の前に鎌先温泉への分岐点を示す道標がある。
そこから国道に並行にはしる道からいかにも旧道らしい匂いがただよってくるが、散歩中のおじさんにたずねてみると、手を横にふった。

国道は東北自動車道の白石インターへの入口を過ぎて、刈田郡蔵王町に入る。

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道下三叉路で左の県道12号線にはいっていく道が旧街道である。すぐに道は二手に分かれ、街道は右の県道25号線にのって国道にでる。

県道12号線をまっすぐに進むと
刈田峰神社(白鳥大明神)がある。刈田郡総鎮守として又伊達家の重臣白石城主片倉氏総守護神として古くから崇敬を受けた名社で、白鳥明神ともよばれている。地名にも「白鳥」がのこっているように、この地では白鳥信仰がさかんだった。社殿の裏にも白鳥を浮彫にした江戸時代初期の古い石碑が集められている。

宿場の規模はちいさいながら、海鼠壁の土蔵をのこした家並みをみることができて、落ちついた味わいを感じさせる町だ。土蔵の白壁にも白鳥の浮彫がみえる。板壁塀の本陣跡建物と、となりの特定郵便局風の二階建て洋館建物とが、江戸と明治期の展示品のようにならんでいる。




金ヶ瀬

北白川橋にでる丁字路交差点をすぎいてすぐに左の旧道に入る。ちいさな集落をぬけると国道との合流点手前に明治22年の道標がたっている。上半分が折れていて仙台からの里程がわからないが、槻木の道標から計算すると多分10里ではないかと推定される。
道標の先を左斜めにはいる坂道をあがっていくと
大高山神社の裏側にでる。裏参道にあたるこの道は赤坂とよばれた旧街道だった。今は遊歩道として保存されている。

大高山神社は大河原町最古の歴史を持ち、柴田郡の総社格として由緒のある神社である。現在の本殿は元禄14年(1701)の造営で、社宝に東北最古といわれる正応6年(1293)銘の銅造鰐口(国重要文化財)がある。また、表参道の石段をあがったところに立っている鳥居は、寛政13年(1801)に南蛮鉄でつくられためずらしいものだ。
神社からはじまる金ヶ瀬宿場は、静かな町並みだが往時をしのばせるような古い家はすくないようだった。



大河原

金ヶ瀬宿をぬけて国道4号線にしばらく合流したあと、新南交差点を右折してふたたび旧場にもどる。白石川にちかづいたあたりに、裁判所と検察庁ががならんでいる。そこで道は左にカーブして大河原宿の中心街に入っていく。宿場の中ほどに蔵造りの学習塾があり中学生らしき生徒が出入りしている。なまこ壁の土蔵を3棟も連ねた大きな店が中心地の十字路角を占めている。「西川ふとん店チェーン」とあるのがちょっと気になった。

その交差点を右にはいって
尾形橋にでてみた。あいにく雨模様の空で見晴らしはよくなかったが、白石川対岸には桜並木の連なりが見える。大河原町から船岡につづく桜並木は「一見千本桜」とよばれる桜の名所である。

旧街道は大河原小学校入口で鉤型にまがり、海道東6差路を直進して、西桜町と南桜町の境をぬけていく。このあたりの旧道の道筋は住宅街の再開発で消えてしまっているが、海道西あたりで荒川をわたり対岸の山ノ上にでていたようだ。

韮神橋で荒川をわたると、国道4号線の向こう側に、
韮神山の麓を削った一角をかりて、観音像と石碑の一群がみえる。説明板が教育委員会でなく、建設省仙台建設事務所作であるところが面白い。「詳しくは村田町教育委員会にお尋ねください」とあるが、内容が充実しているため教育委員会が出る幕をうしなった感じである。

芭蕉は元禄2年(1689)旧5月4日にここを通っていった。句碑にある句はこの場所と関係なく、伊賀上野で詠まれたものである。
  
   
うぐいすの 笠おとしたる 椿かな

藤原実方の歌碑もある。

   
やすらわで おもい立にし みちのくに ありけるものを 憚(はばか)りの関

憚りの関は韮神山のふもとを通る東山道にあった。実方は陸奥に左遷されて、名取の西方にある東山道で馬から落ちて死んだ。のちほど、その事故現場をみにいく。

国道に併走する旧道をすすんで船迫地区にはいる。


(2005年11月)
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