藤原実方朝臣は中世30大歌仙の一人で一条天皇につかえ、左近衛中将であったが藤原行成(こうぜい)卿(書道の大家、三蹟の一人)との争いがもとで長徳元年(995)陸奥守に左遷され、はるばるとみちのくに下った。長徳4年(998)冬笠島道祖神社の前を乗り打ちして奇禍にあい、それがもとで、この地に薨じた。その命日は里人によって「国司祭」とよばれたという。実方は、能因、西行にさきがけて、いわばみちのくの歌枕散歩に先鞭をつけた人というべきであろう。 星移り年変わって、西行がみちのくを訪れたとき、野の中に立つ由緒ありげな塚をみて、これが実方の墓と知った彼は折から霜枯れのすすきに心をよせ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」の一首を残した。実方、西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情と遊心とおをかき立てる憧憬の地であったにちがいなかったと思われる。しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。 「笠島はいづこ さ月の ぬかり道」の一句は彼の万斛(ばんこく)の思いをこめた絶唱である。芭蕉の門人天野桃隣は先師の心をくんでか元禄9年(1696)はるばるとこの地に杖をひいたが、実方の墓はさらに風雪にあって様子をかえ、「五輪(塔)折り崩れて名のみばかり」であったと、その荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆(ちどり)」に書きとどめた。今は五輪塔さえ失われ、わずかに墳丘をとどめるばかりで、墓の畔りには、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑があり、また西行の歌にゆかりのある一叢の薄(すすき)の中に松洞馬年(しょうとうばねん)の句碑がある。
藤原実方朝臣(実方中将)の墓 愛島塩手 北野 名取市