弁慶の硯石 藤田 国見町 伊達郡
 硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。『信達二郡村誌』には「石面に縦2尺余、横1尺45寸許りなる、硯の海を穿って常に水を湛えたり、百日の旱魃にもいまだ會って、涸るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。(中略)源義経当国の軍勢を集め賜う時、(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし所成べし・・・・・」と、水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。 また西側を流れる滝川の対岸には、弁慶の踵清水と称する湧水があり、阿津賀志山の南麓には義経の腰掛松など、この地には義経、弁慶主従にまつわる伝説が多く残されている。かってこの山には、装飾を施した横穴古墳群が、山頂から南麓部にかけて分布がみられ、戊辰戦争に仙台藩が構築した砲台場跡もあったが、凝灰岩の採掘によって破壊された。 硯石山は風光明媚な景勝の地で、数々のロマンを秘めた、伝説と歴史の山である。春たけなわの季節山頂に立てば、爛漫と咲き乱れる桜や、やや遅れて咲き出す、桃の花の合間からは、文治5年(1189)の8月、奥州合戦に源頼朝が率いる鎌倉軍と、藤原泰衡の奥州軍が阿津賀志山麓で戦った、古戦場の跡を垣間見ることができる。この戦いは閏4月30日に、義経、弁慶主従が、衣川館で泰衡に襲われ謀殺されてから、約100日後の出来事であった。水田を隔てたこの山北側の眼下には、伊達氏の重臣石母田氏の居館で、土塁や水濠遺構が残る石母田城跡、そして宮城との県境をなす長嶺(大峠山)の山々、北西に目を転ずれば、羽州街道の難所とされた小坂峠、半田山など、スケールの大きな眺望は人々を魅了してやまない。  平成17年4月  国見町教育委員会