韮神山
ここは、仙台から江戸にのぼる奥州街道が通っていたところです。韮上山は、この道に臨み白石川に面する、奇岩怪岩の山で、文治の役の古戦場でもあり、その景観は、昔からここを通る多くの人たちの旅情をなぐさめました。昭和56年4月、国道4号柴田バイパス工事に係る事業のため、山の一部が失われましたが、昔の面影が残っています。山の上には多くの黄韮が自生していたので住民がこれを山の神の霊としてあがめ、このことから韮神山の名が生まれました。
芭蕉の碑
元禄2年(1689)旧5月4日、初夏の頃、俳聖芭蕉が奥の細道の旅のとき、韮神山の下を通りました。大河原の俳人、村井江三は、韮神山一帯の山水の美を愛し、かねて尊崇していた芭蕉の句碑を建てました。弘化3年(1846)のことです。 その句は   
鶯の 笠おとしたる 椿かな     です。
憚(はばか)りの関の歌碑
憚りの関は、平安時代韮神山の下の東街道(後の奥州街道)にありました。ここにある歌碑は、平安の歌人、藤原実方の歌で、   
やすらわで おもい立にし みちのくに ありけるものを 憚りの関   と刻まれています。万治元年(1658)2月に建てられたものです。
三十三観音と遷大悲閣の碑
文政3年(1820)大川原村の万吉が、西国33観音の霊場より、砂や石をあつめて帰りました。それをここに埋め、観音の霊を遷そうとしましたが、果たさないうちに没しました。その子の初吉が父の志を継ぎ、弘化2年(1845)大河原をはじめ、金ヶ瀬・沼辺などの多くの人々の寄進を受けて、三十三観音の石仏を韮神山に安置しました。その由来を刻んだのが、嘉永4年(1851)に建てられた遷大悲閣の碑です。その後石仏は、破損したり、失われたりして、19体だけが残っています。それを山頂に集めたのが現在の姿です。 
このほか、ここから約100m西の昔のにらがみ坂のところにあった湯殿山・馬頭観世音・金華山・山神・庚申の六碑をここに移しました。詳しいことは、村田町教育委員会にお尋ね下さい。   昭和60年11月    建設省  仙台工事事務所
韮神山(にらがみやま)石碑群 村田町 柴田郡