丁切根跡 河原町 仙台
往昔、広瀬川の氾濫で形成された河原地帯で川原町とも書く。渡し場をはさんで城下と在郷の境に位置・・城下・在郷から移住した商人や百姓が定着、寛文期に橋ができると長町宿とともに町は繁栄した。藩政初期創設といわれる青物市場の廃止、道路交通の発達に伴なった町の性格も変わった。 市制施行88周年記念  仙台市
仙台では、武家の屋敷まちを「丁」、足軽・職人・商人らの住む町を「町」として区別していた。町は24あり(「町方24町」という)、道に沿ってひと続きに配置された。また、宮町や八幡町などの門前町でも商工業者が店を開くことができた。24町と門前町の町はずれには、それぞれ「丁切り柵」と呼ばれる関門が作られ、このうち城下への出入り口となる八幡町・原町・堤町・河原町の柵には木戸が設けられた。これが「丁切根」である。城下南の出入り口をなす河原町の丁切根は、奥州街道と六郷方面に通ずる井戸浜街道の接続点付近(現河原町1丁目小西家付近)にあった。藩主の上り・下りの前後3日間、この木戸は閉められ、往来の者は身元調べの上で、くぐり門から出入りさせられた。木戸の鍵をあずかる木戸番の役(通常は朝6時頃開け夕方6時頃閉める)を代々仰せつかったのは、蒟蒻(こんにゃく)の粉と鳥モチの専売特許権を持つ針生屋であった。