行徳街道



今井橋−南行徳−行徳−行徳橋−稲荷木−本八幡

いこいの広場
日本紀行



小名木川と江戸川を結ぶ新川が開削され、江戸川筋に新河岸ができる寛永9年(1632)以前、行徳の河岸は行徳4丁目の内匠堀辺りにあり、成田詣での船客はそこから権現道あるいは行徳街道を通って八幡へ向かったようである。

その道を歩いてみる。

船を使わない場合、新川の東端である新川口橋から旧江戸川沿いに熊野神社の前を通り、瑞穂大橋で新中川をわたり、児童公園の縁をまわって今井橋に出なければならない。橋を渡ると千葉県市川市の南行徳に入る。相の川交差点角の標識が、南北に横切っている道が行徳街道であることを示している。右にいけば浦安に至る。ここを左折して民家の並ぶ住宅地に入っていった。

突き当りを右におれて進むと中宿というバス停を通る。ここもかっての宿場町か。
次は「欠真間(かけまま)」という妙な地名だ。横道の小公園に地名の由来が記されていた。どうやら市川真間村の土砂が流れ着いて海が岡になりそこに村ができたらしい。

源心寺の手前に総横板張りの大きな倉庫が旧街道筋の町並みを引き立たせていた。白木地の看板に
「ふじたけ味噌醸造」の文字が読み取れた。

押切丁字路にでる。右に進むと行徳駅だ。駅まで行ってみた。行徳街道沿いの町並みとはうって変わって、繁華な商店街である。駅前広場の観光案内地図は、古い写真や江戸名所図会からの絵が焼き付けられてよくできている。行徳街道と成田街道の道筋が明確に示されていて心強かった。この土地は行徳船による繁栄の後、総武線の通過を嫌ったがために陸の孤島と化したが、東西線の開通で東京のベッドタウンとして甦った。行徳の歴史は、水路でも陸路であっても、町の繁栄には交通が決定的な要因となることを如実に物語っている。

街道に戻る途中、
「おかね塚」を見た。内匠堀筋にある小さな墓地におかね塚とよばれる石仏と由来碑が建っている。吉原遊女かねの純真な愛を行徳の船頭が裏切った。

 「嗚呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉」

碑文はむくわれなかった遊女の純愛をせつなく訴えるものである。

伊勢宿から関ヶ島にかけて、はっきりわかる鉤の手跡を二か所通る。二つ目の鉤の手を通り越したところで左にはいる道の突き当たりに、行徳のシンボルである常夜燈が立っていた。ここが日本橋小網町との間を往復していた行徳船の発着場である。堤防越しに旧江戸川をのぞきこむと、近くに船着場跡らしき接岸場所を見たような気がした。

船からおりて行徳街道に向かう人、船の出発時間を待つ旅人の多くが利用したという
「笹屋うどん」の店が街道沿いに残されている。江戸時代といわず、古くは源頼朝が安房に逃れてきたときに寄ったという伝えもあるほどの老舗だった。古川柳が伝わっている。

 
行徳を下る小舟に干しうどん

 さあ船が出ますとうどんやへ知らせ


左手に老舗の浅子神輿店がある。作業場は通り向かいの新宅にあり、裏から完成まぢかの作品を見ることが出来た。すぐ先には加藤宅、行徳3丁目バス停隣はかっての行徳塩田所有者であった塩場師(ショバシ)田中家の邸宅である。いずれも繊細な格子が美しい旧家だ。田中邸の軒先に芭蕉句碑があった。鹿島での一句である。

 
月はやし梢は雨を持ながら

この辺の本行徳地区(街道筋バス停でいえば行徳4丁目から北へ1丁目まで)が宿場の中心地だったようだ。

関ヶ島から本行徳地区にかけて、行徳街道の一筋東を車も通れないほどの細い道が通っている。行徳街道が整備される以前からの古道で、家康が東金に鷹狩にいく際に通ったところから
「権現道」とよばれた。家康は東金に行くのに、元佐倉道から南下して今井の渡しで江戸川をこえ、行徳経由で成田街道へ入っていった。住宅に挟まれた細道に寺の入口が点々として続いている。権現道は寺町通りにでて終わる。左にまがればすぐ行徳街道に合流、右に折れれば旧成田街道の道筋をたどる。

行徳1丁目のバス停近くに豊受神社がある。16世紀前半のころ
金海法印という山伏が建立したといわれている小さな神社だ。この山伏は徳が高く行いが正しくて人々から「行徳さま」と崇められたという。山伏の愛称がそのまま地名になった。

社殿の裏に3年に一度練り歩く神輿が納まっている。夏日の昼下がり、凪のようなけだるい空気の中に碁石を打つ音が聞こえてきた。戸を開け放った集会所の畳の間に数組の老人が向かい合って座していた。

交差点の角に
「寺町通り」の標識がとりつけてある。行徳ルートの成田街道はここからスタートして、寺町通りをすぎ行徳バイパスを越えたところを左折して妙典地区を北上する。大正時代までは江戸川放水路はなく、成田街道は現在の水管橋のやや下流を通って、田尻、原木、二俣、印内、山野町を経て、海神念仏堂の前に出た。
妙典から海神までの道筋については『成田街道−行徳ルート』で記す。

寺町通りの寺をいくつかたずねてみた。

すぐ右手に長松禅寺の入口がある。案内板に、山号の別称「塩場山」とあった。塩焼き労働者の信仰を集めていたという。

大きな通りが交差する。この通りの歩道の下を「内匠掘」の水が流れている。
国府台の合戦以後、行徳が北条氏の支配下にあったころ、その家臣の中に、この地に定着して土地の開拓に献身的な働きをした者がいた。一人が
浦安の田中内匠(田中重兵衛)で、他の一人は欠真間に住み着いた狩野新右衛門である。二人はこの地に農業用水を確保しようと、鎌ヶ谷を水源とする水路の開削に着手し、八幡、行徳を通って浦安まで、全長約12kmに及ぶ用水路を完成させた。二人の名を取って「内匠掘(たくみぼり)」、または「淨天(じょうてん)堀とよばれた。狩野新右衛門(淨天)は仏教に帰依し、私財を喜捨して源心寺の堂宇を建立した。

交差点の東北角に占めるのがこの地区では最大の徳願寺である。宮本武蔵ゆかりある寺として知られている。山門、鐘楼は古色が強い。

交差点を内匠掘跡に沿って一筋南に下る。「本塩1」に所在するのが法善寺で、寺号の別称は「塩場寺」。地名が示す通りここはかっての塩田地帯である。地図には「本塩」につづいて「富浜」、「塩焼」という地名がみえる。
法善寺に寄ったのは芭蕉の句碑を見るためであった。「塩塚」ともよばれている石碑が本堂の前の木陰に休んでいた。

 
うたがふな潮の華(はな)も浦の春

芭蕉が伊勢国の二見ヶ浦で詠んだ一句を寛政9年(1797)、芭蕉の百回忌を記念して行徳の俳人戸田麦丈等が碑に刻んだ。

行徳街道に戻り下新宿(しもしんしゅく)、河原を通って江戸川(放水路)にかかる行徳橋に出る。左手下の民家の壁に、愛嬌ある魚の絵柄を染めた暖簾がのんびりとゆれていた。魚屋かと思ったが、その餌になる虫を売る店のようだった。 

橋を渡る。

歩道から張り出したコンクリートの塊の横を通る。中は部屋になっていて、電燈の明かりの下で2人の男性が詰めていた。橋は可動堰を兼ねていて、その監視員だろう。堰は通常閉められていて、下流の海水、上流側の淡水を分けている。

行徳橋から下流方面のながめがよい。下流側は潮の満ち干きがあって干潟があらわれる。川辺の干潟が公園にくみこまれていて、多くの家族連れが水辺に見えた。新行徳橋を行徳バイパスが通り、その向こうに地下鉄東西線が走っている。

行徳街道は橋の上流側200mほどの場所を通っていた。北側の堤防に上がると橋北詰バス停から旧道が稲荷木(とうかぎ)地区の中に延びているのがよく見える。街道は双輪寺参道入り口、稲荷神社の前を通り、やや左に曲ったあと一本松で大きな通りに合流する。徳川家康の時代、伊奈備前守忠次が上総道の改修にあたったさい、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道をつくって、その分岐点に松を植えたと伝えられている。

その一本松の切株が今も残っている。そばの庚申塔には「これより右やわたみち これより左市川国分寺みち」と刻まれている。国府台、松戸をめざすには左の市川国分寺道を行き、成田街道・木下街道に向う旅人はこの新道を通って本八幡にでるのが近道だった。八幡新道は行徳街道の延長となった。

京葉道路の高架下を潜り抜けてすぐ左手に、平将門の兜を祭るとも源義家の兜を祭るともいう甲(かぶと)大神社がある。行徳街道は総武本線本八幡駅の西側を通って国道14号線の成田街道に合流して終わる。

成田街道(国道14号)を東に1.5kmほど行った鬼越2丁目の丁字路から木下街道(県道59号)が北にでている。芭蕉はこの道をあるいて布佐にいたり、そこから船で利根川を下って鹿島へ向った。

木下街道の南の起点を鬼越2丁目交差点とする場合もあれば、本八幡から行徳街道をたどって行徳新河岸の常夜燈までをふくめて木下街道とよぶこともある。こだわらないことにする。

(2006.08.31)
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