おかね塚 押切 市川市 千葉県
行徳の浜は古来塩業を以って栄えし処 押切の地また然り 浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫のこの地に泊まる者また少なしとせず。 時に船頭のしばしばこの地に来たりて江戸吉原に遊び、かねといえる遊女と馴染む。船頭曰く「年季を終えなば夫婦とならん」と。 かね女喜びてその約を懐き歳を待つ。 やがて季明けなば早々にこの地に来りて船頭の至るを迎ふ。 されど船頭その姿を見せず。 待つこと久しされば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を乞うに至るもなおこの地に留まる。 これ船頭への恋慕の情の厚きが故なり。遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。 伝え聞きし明輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建てて霊を弔ふ。 嗚呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 盟友の情の篤きこと実に美なる哉。 聞く者皆涙せざるはなし。 里人の香華を供へておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知る人ぞ少なし。 茲に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ 由来を誌して後世に伝へんとする者也。   綿貫喜郎誌      昭和51年6月吉日