この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に明暦3年(1657)の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられている。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐治右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の寺院の形を整えたものと思われる。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来像は寄木造り、鎌倉時代初期前後(12世紀頃)の作である。端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手になるものと考えられる。縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にあったが寺が廃絶し、一時小金の東漸寺に移されたものを、高麗屋佐治右衛門がこの堂に納めたといわれている。墓地内には戊辰戦争(1868)の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もある。    1992年3月  船橋市教育委員会
元は70mほど北東寄り、陸橋下になっている三叉路に建てられていた。正面の「右 いち川みち」は、現在の船橋市西船橋から市川市八幡をへて同市市川への道を示す。「左 行とくみち」は、現在の船橋市山野町・印内町から市川市二俣・原木をへて同市本行徳への道を示す。それぞれ江戸川の渡し場をへて、江戸に通じていた主要な道であった。 左・右側面の「是より 行とく」・「是より いち川」は村境でなく、行徳方面・市川方面のことである。元禄7年(1694)10月26日の銘があり、市内では最古の道標である。  平成10年3月   船橋市教育委員会
観音堂の由来 
この観音堂は元禄14年(1701)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋佐治右衛門が建立寄進したものである。(中略)  伝説では、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、加藤清正に連行された者の子孫だという。  以下略   海神念仏堂
 念仏堂・元禄7年銘道標  海神1丁目17 船橋