永代橋の南は佃島で、付近は白魚の漁場。摂津国西成郡佃村から幕府に呼び寄せられた漁民が干潟を与えられて住み着いた。西岸は江戸湊で廻船の大型船が停泊している。広重は別に「江戸名所百景」でも「永代橋佃しま」を描いている。
永代橋は、元禄11年(1698)に隅田川の第4番目の橋として、現在の永代橋の場所よりも上流約150mのこの付近に架けられていました。 当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。 当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁を十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。左図は、安藤広重の天保前期の作品「江戸名所之内永代橋佃沖漁舟」であり、月下の沖合いに点々と白魚舟の篝火が明滅する夜の江戸を、詩情ゆたかに描き出しています。永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926)12月に現在の橋に架け替えられました。その姿は上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。     1989年4月   中央区
永代橋