甲州街道−4 



下花咲・上花咲−下初狩・中初狩白野阿弥陀海道−黒野田駒飼鶴瀬
いこいの広場
日本紀行
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下花咲・上花咲

ふざけあってなかなか前に進まない下校途中の小学生を追い抜いて、国道に合流するとまもなく左に石仏・石塔・芭蕉句碑とともに
花咲の一里塚跡があらわれる。単なる標柱や石碑だけの塚跡でなく、土盛といい植木といい一里塚の面影をよくとどめた復元塚になっている。江戸から24里、24番目の塚とある。

  
しはらくは 花の上なる 月夜かな   芭蕉

やがて右手に二軒のファミリーレストランに挟まれて大きな旧家が建っている。星野家住宅として保存されている下花咲宿の本陣・問屋である。切妻の大屋根に白壁の三階建ての建物で、江戸時代末期のとは思えない現代的な外観は、遠くからみるとアルプス山麓のロッジに似てなくもない。

下花咲宿と合宿の上花咲宿は、大月IC入口を通り過ぎたあたりにあった。笹子川にかかる西芳寺橋の国道沿いあたりに上花咲宿の本陣があったといわれているが、今、町並みからその形跡をさぐるのは難しい。

その先、右手の民家の敷地に入り込んで消えている旧道が残っている。入口に野仏の一群が並んでいた。
三軒屋信号で左に旧道らしい道がのびているが、すこし登ってみたところ、どうやら違うようだった。
街道は国道をすすみ真木橋、初月橋をわたって、初狩に入る。

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下初狩・中初狩

旧街道は国道から分かれて
源氏橋をわたり、線路沿いの旧道に入っていく。しばらくは林の中の快い山道を歩くが、やがて砕石場の真ん中を突っ切り、第七甲州街道踏切をわたって国道20号に合流する。
踏切を渡った右手に、室町時代の京都聖護院道興の歌碑が建っている。左には女性警官がフェンスにもたれかけて携帯で長電話をしていた。

  
今はとて かすみを分けてかえるさに おぼつかなしや はつかりの里

国道との合流点に100.1kmのキロ程標があったので国道を100mもどり、東京から100km地点の記録写真を撮った。200km地点は上諏訪あたりである。

下初狩宿にはいった。沿道の家々が軒並み道路の下にある。そのうちの一軒は特に立派で、道路際に
「山本周五郎生誕の地」の碑が建っている。「生家」とは書いていなかった。

JR初狩駅前をすぎると宮川橋にさしかかる。ここからほぼ南の方向をながめると、きれいな湾曲の山並みの背後に、冠雪に輝く富士の峰がのぞいて見える。頭だけでもと精一杯に背伸びをして、見せてくれているようだ。微妙な角度で、微妙な高さ関係から成り立っている景色であるから、この富士の嶺は橋を渡り終わるや見えなくなってしまう。旅人はこれを
「宮川橋の一目富士」と呼んだ。

橋の向こうから中初狩宿である。下初狩との合宿で、中初狩宿は月の前半を受け持った。町並みは下初狩にくらべ宿場の面影が濃い。「側子(そばこ)」バス停の近く、右手に明治天皇御小休所碑が建つ家が
小林家本陣跡である。家の西側に古い門が残っている。

船石橋を渡ると笹子川傍に石碑が建っていて「御船石所在地○従是東三拾間○」と刻まれている。川をのぞいてみると対岸には規則正しい方形の石が並べられていて、船着場のように思えた。立河原集落で、立ち話中のおじさんにたずねたところ、
岸辺の石は単なる護岸石で、船石とは関係がないこと、
船石とは昔この付近に大きな船の形をした石があって、親鸞上人がその石の上で説法を行ったこと、
立河原はむかし宿場だったが、大洪水で川の向こう(中央本線と川の間)にあった家は全部流されてしまったこと、
この先の天神山越えの旧道はなくなっていること、などを教えてもらった。

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白野

国道が左にまがって中央本線の下を通る手前あたり、かってはシマダトレーディングの横を通って天神峠をこえて白野宿に至る道があった。現在は中央自動車道の下をくぐったところまでは道が残っているが、その先はおじさんの言ったとおり山中に消えていた。

国道で川に沿って迂回し白野側にでると、旧道の出口らしき道がみえる。すこし入ってみたところ、高速道路のガード手前に、夫婦道祖神と並んで
一里塚跡の標柱がたっているではないか。いまや林道となった甲州街道の古道の傍らに誰にも気づかれることもなく隠遁の生活を送っている。

国道にもどると、街道はすぐに右の旧道にはいっていく。白野宿は小さな宿場町ながら下宿、中宿、上宿のバス停があってまとまった静かな集落である。めだって古い建物もない。通りでであったおばさんに本陣のことをたずねると、
法林寺の参道入口にある今泉家がそうだという。

集落あげてツバメ飛来地とみえ、軒下に巣の跡が見られる家が多い。土とワラで固めた巣が来年を待っている家、取り払われて乾いた土がこびりついている軒、ツバメ除けに何枚ものCDが糸でつりさげられている軒下と、それぞれ異なった対応振りがおもしろい。さて来年やってくるツバメは各家の思惑とおりに振舞うかどうか。

白野宿は阿弥陀海道宿、黒野田宿との合宿で、問屋業務は1日から15日までが黒野田宿、16日から22日までを阿弥陀海道宿が、23日から月末までを白野宿が担当した。かっての上初狩宿がこの三宿にわかれたという。

宿場をぬけると国道にでて、すぐに「原入口」バス停で再び右の旧道へはいっていく。JRのガードをくぐったところに
「伝説 立石坂の立石」とかかれた標柱が斜めにたっていたが、ただそれだけで要領を得なかった。線路沿いの道をたどって原集落にはいる。稲村神社にいろいろな素朴な史跡が集まっている。説明板は地元の有志によるものだろう、教育委員会ではない。

左道端に「親鸞聖人念仏塚碑」。神社境内に聳え立つ三又の大杉は見ごたえがある。一段高いところに、珍しい道祖神があった。説明板には自然石による男根女陰だとあるが、円柱形の棒石などは形が整っていてとても自然石とは思えない。棒石を支える丸石は睾丸に見えた。

吉久保集落の先で道はJR線路に分断されて消失していた。すこしもどり丁字路を折れてJRガードを潜り国道に出る。ガード手前に葦池の碑がある。むかしここにあった池にまつわる娘の話が伝わっている。

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阿弥陀海道・黒野田

国道は笹子橋を渡って阿弥陀海道宿に入る。左手に笹一酒造と名物の笹子餅の看板が目立つほかどこが宿場だったのか定かでないが、橋から笹子駅までの間であろう。地名は「阿弥陀海」となっている。それで「あみだかいどう」と読ませるそうだが、なぜ「道」の一字をはぶいたのか知らない。


ガードをこえると地名は黒野田にかわっている。左に
「黒埜宿の笠懸地蔵」という腹の出た地蔵が片膝たて姿で座っている。江戸末期のものだそうだ。地蔵もさることながら「黒埜宿」の文字が気になった。黒野田の古名が黒埜(くろの?)だったのか。

「天野」姓の表札がかかる古い門構えの家があり、笠懸地蔵とともに、沿道にわずかながらの古色を添えている。

国道はこの先、左の古い黒野田橋をわたって普明院の前に出る。入口の右側に「江戸日本橋より二十五里」の石標、左には
「一里塚跡 黒野田」の標柱が立っている。ちなみに普明院の山号も黒埜山となっていた。


街道はいよいよ最大の難所笹子峠に向かう。一足先に中央本線が笹子トンネルに入った。特急あずさが入っていく。


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笹子峠

追分集落をぬけ、旧道は県道212号日影笹子線として国道から左にわかれていく。新田バス停の先で右にはいる古道を行くことにした。杉林の道は比較的歩きやすい。熊が気になって、ため息でもわめきでもうめきでもないような大声を時折だしながら歩いている自分がバカに思えた。30分ほどで、左上にみえる県道にでる。沢にかかる短い橋をわたったところ左手に「笹子峠自然遊歩道」の入り口がでて来て、再び山道にはいる。

スギの落ち葉で道は柔らかい。上り下り、沢渡りを重ねて20分ほどで
明治天皇御野立所跡の石碑が建つ空き地に出た。かなり急な坂を上って矢立の杉に着く。
昔、武者が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたてて武運を祈ったという巨木である。根周り幹囲15mの中は空洞になっていて、入ってみると真上に空がみえた。

その先、登山道の二股を左にとって峠に向かう。道はさらに険しくなって笹で塞がれた場所もあった。急坂をあえぎながら上っていくと、やや開けたところで三脚を構えているおじさんがいる。
「こんにちは。峠はまだでしょうか」と、声をかけた。
「もうすぐですよ。写真をとられるんですか。じゃあ、この木の実を撮っていかれたらいかがですか」
見ると、サクランボのような真っ赤に光るつぶらな木の実がなっていた。

県道に出てまもなく、煉瓦色した
笹子隧道の前に着く。昭和13年に完成して昭和33年まで20年間働いた後、今は有形文化財として隠居の身である。緑の中の色合いといい、左右二本の垂れ飾りといい、折り目正しい品位をみせる構築物である。その脇に古道がのこっているので、急勾配を這い上がって旧笹子峠を越えていった。峠じたいには今風の道標が立っているだけで気がぬけるほどあっさりしたものだった。

トンネルの向こう側は甲州市大和町日影になる。県道を横切って引き続き古道をたどる。しばらくして県道と接するところに江戸時代、
甘酒茶屋があった。ガードレールの左側に見落としそうなほどのめだたない古道が続いている。すぐに舗装された道に出て、しめたと思ったのもつかのま、これまで以上にきつい峠道にはいっていった

。深い谷沢に向かって急な坂を降りていく。心細い木橋をわたり、あるいは石づたいに浅い沢を渡ってまた上る。石塔もない標識だけの馬頭観世音菩薩、「自害沢天明水」の道標などに励まされながらようやく県道に出た。案内板が立っている。

笹 子 峠

徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約55里)を開通させました。笹子峠はほぼその中間で江戸から約27里(約100km)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高1096m、上下3里の難所でした。峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が20頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事揚、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和61年2月12日、次のような唄が作られ発表されました。

甲州峠唄  作詞 金田一春彦  作曲  西岡文郎

  
あれに白いはコブシの花か   峠三里は春がすみ
  うしろ見返りゃ今来た道は  林の中を見え隠れ
  高くさえずる妻恋雲雀  おれも歌おうかあの歌を
  ここは何処だと馬子衆に間えば  ここは甲州笹子道


この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和62年5月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。          佐藤達明 文

ということはここが
清水橋だが、橋はあったかな。

このあとはつづら折の県道をたどって日影地区の駒飼宿に向かう。途中、
桃の木茶屋跡の標柱があった。

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駒飼

長かった笹子峠道をおりて、駒飼集落の入口に架かる天狗橋の右側に芭蕉句碑がある。

  
秣負ふ 人を栞の 夏野哉   芭蕉

句は奥の細道にでてくる、那須余瀬で詠まれたものだ。 

集落にはいったところの左手に脇本陣跡、数軒先の空き地には
本陣跡の標柱と共に明治天皇御小休所跡の碑がたっている。また、本陣跡には当時の屋号を記した駒飼宿の案内板が設けられていて、小さな宿場ながら、それを大いに意識した雰囲気が感じられる。落ち着いた家並みの中に大屋根の家が散見され、なかなか趣がある。

宿場の出口ちかくで左に下る古道が延びている。坂上に「旧甲州街道」の標柱がたっていて、片面に「甲州道中駒飼宿と鶴瀬宿を結ぶこの古道は往時の面影を今に伝えています」と記されている。坂をくだって渡る橋の名前も「古道橋」であった。古道は道なりに進んで、轟音の反響する中央自動車道の鉄橋下を通って国道20号に出ていく。高速道路の高架を過ぎた道路際の一角に集められた石仏もじっと騒音にたえているようであった。

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鶴瀬

旧道は大和橋西詰交差点で国道20号に合流する。旧道はさらに国道を横切って現在あるガスステーションの裏側をまわりこむように続いていたらしい。また、そのあたりに一里塚もあったといわれている。念のためのぞいてみたが、日川の崖淵に古道の痕跡はなかった。この辺には「甲州鞍馬石」を扱う石材店が多い。地区名を刻んだ石碑も茶褐色の暖かみある鞍馬石でできている。

国道を西にむかうと100mばかりで古いほうの
立会橋をわたり、鶴瀬宿にはいっていく。国道を逆S字形によこぎる形で短い道のりに集落がある。橋を渡った所に金岡自画地蔵尊の碑がある。巨勢金岡(こせのかなおか)は、平安初期の宮廷画家で大和絵の創始者とされる。その金岡がこの地を巡歴した際、岩面に地蔵尊を画いた場所だという。

国道をよこぎる手前右側に
鶴瀬関所跡がある。甲州12関所の一つで、「鶴瀬の口留番所」とも呼ばれた。国道の反対側にわたったところに「鶴瀬地区」と刻まれた鞍馬石とならんで、鶴瀬宿の標柱がたっている。宿内家数58軒という小さな宿場であった。駒飼宿からも約2kmと近く、継ぎ立て業務を毎月1日から20日までを鶴瀬宿が、のこり10日を駒飼宿が受け持った。

街道はしばらく国道を進む。途中、志々久保バス停近くの右手崖上に
「古跡血洗沢」、少し先の崖下には「古跡鞍掛」の標柱が設けられている。まもなく落石防止のための洞門があらわれる。洞門の右側に古道が残っていて、小道を上がっていくと観世音菩薩の石碑があり、さらに上がった所に「聖観音堂」の標識がたっている。説明文には「本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したものといわれており、養蚕の守護神として信仰あり」とあった。古道はそこで行き止まりになっていた。国道に降り、左側の歩道から再び国道を横切って右下に回りこむ旧道に入る。

樹木のすきまから、日川に架けられている古そうな板張りの吊り橋がみえる。現在は使われていそうにないが、
長垣の吊り橋として日川の渓谷美を引き立たせている。その先に、吊橋を背景に「武田不動尊」の標柱と姿よい常夜灯がたっている。わき道から川岸に下りる階段がついていて、中ほどの踊り場に小さな祠と不動尊石像があった。水辺は清流と木々の緑にかこまれ清涼とした小さな空間で、吊り橋がいっそう高く上空に架かっている。

旧道は共和集落に入る。入口に「旧甲州街道」の標識がたっていて「甲州街道鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ
横吹の道中は往時の面影を今に伝えています」とあった。どこかでみた文句だなと、駒飼宿の古道入口の標識を思い出した。すぐ右上を走る国道の陰に隠れて僅かな戸数の横吹集落があった。

火の見櫓の下に球形の道祖神がある。この原形を原の稲村神社でみた。他の街道では見た覚えがない。ここにあるのはただ丸い石が二段に積まれているだけで稲村神社の道祖神のような具象性はない。隣に、素朴で小さな六地蔵を浮き彫りにした平石が3個、都合18地蔵がかわいく並んでいる。改めて道祖神をみなおすと、球形の石がダチョウの卵のように大きく感じられた。

横吹の坂を上がって国道にもどる。風景が雄大に開けて甲府盆地が視野に入ってきた。盆地のはじまりは勝沼である。

(2007年11月)
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