明治天皇金澤行在所址・諏訪郡金澤村道路元標
金沢宿本陣跡
 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約四里(約十五キロメートル)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させその任に当たらせた。 本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には二軒の問屋か置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(一六五一)現在地に移転し金沢町と改称した。 本陣の敷地は約四反歩(約四〇アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく寝食を忘れ町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(一六七八)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家はX所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。 金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。  平成11年5月吉日 金沢財産区 金沢区  金沢歴史同好会  

金沢宿本陣跡  金沢 茅野市 長野県