木食白道上人加持水井碑 上野原 上野原市 山梨県

木食(もくじき)について  (大月郷土資料館)木食と言うのは真言系仏教の修行の一形態である。高野山の僧応其(おうご)(1536〜1608)が形態を整えたとされており、十穀を断ち、山にこもる修行である。その後、木食行をしながら念仏を唱える浄土系や、念仏も唱えるが造仏もするという天台系の木食行も盛んになった。本来修行方法としての名であった「木食」はやがてその修行を実践している僧を指すようにもなる。江戸時代には数多くの木食僧が存在していた。一般に「木食上人」というと江戸時代後期の「行道(五行・明満)」が有名である。行道の風貌を評したある僧の文書によると、顔色は憎悴し、髭は雪のように白く、髪は乱れて螺旋をなして垂れている。背は六尺(180cm)、土色の衣を着ており異様である。僧のようで僧でなく、変わり者あるいは狂人と疑ってしまう。五穀と塩を食べないごとを誓ってから50年になるが、臥具を使用せず、暑くても寒くても着物は一枚きりであると記されている。同業の僧からはこのように疎んじられていた木食僧であるが、回国の合間に造仏をする行道や行者は「回国聖」・「作仏聖」なとと呼ばれ、民衆には支持を得ていた。柳宗悦氏らの論考により、行道が有名になったため、弟子である白道にも光が当てられることになったわけだが、大月市内には明らかに白道らの作風と異なる仏像が存在する。また、古記録や無縫塔の存在により、白道以外にも多数の木食僧がいたことが知られる。 これら有名無名の木食達はこの大月の地に何を求めてやってきたのだろうか。