鶴川宿は、正徳3年(1713)一村一宿にて宿場を構成しました。また、天保14年(1842)には戸数57戸人口295人、本陣1脇本陣2旅籠上3中3下2計8の小さな宿場でした。 宿場に入り50m右手の家の前には「駒つなぎ石」、そして理法寺の入口には、萬霊等(天和6年−1785)・念仏供養塔(天和6年ー1688)を見ることかできます。少し進むと左手に、かって馬宿であった若松屋が、北隣りには旅籠であった村田屋がありました。また旅籠である街道をこえたところが、問屋柏屋であり近年まで屋号をついでいました。当時、間□24間(43m)奥行き18間(約32m)という大きな家で、上段の間があり脇本陣もつとめていましたが、大正10年(1921)の大火で焼失したためどのような間取りであったかは不明です。また、大椚に向かう途中にはかって本陣がありました。また、江戸五街道の川越は、通常橋梁によるものでしたが、鶴川は甲州街道唯一の「増水時徒渡し」でした。 そのほか、鶴lll周辺には当時の街道をしのぱせる名残りを見ることができます。   

鶴川宿町並み 鶴川 上野原市 山梨県