甲州二十四ケ所のロ留番所の一つで、信州ロを見張った国境の口留番所である。 ここがいつ頃から使用ざれたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖のロ留番所から移ってきた。この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げちれ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び幟に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ケ原屯所の初代屯所長に起用されている。今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取氏宅に保存されている。

天保7年8月百姓一揆時に開門 その責任をとり名取慶助は若尾に改姓。 明治4年廃藩により廃止 1992年若尾法昭

山口関所跡 上教来石 白州町 北杜市 山梨県