台ケ原宿の歴史と由来
 台ケ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ…」とあり、台ケ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。 元和4年(1618)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ケ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。 台ケ原宿は江戸への里程43里10町余、韮崎宿へ4里、隣の教来石宿ヘ1里14町、江戸より数えて40番目、宿内の町並みは東西9町半の位置になり、天保14年の宿村大概帳によれば、人口670人、家数153、(加宿共)とされています。(中略) もう一つの重要な機能は、旅行者の休息と宿泊です。 寛永12年3代将軍家光によって参勤交代制が定められてから、大名や上級家臣が宿泊するのは本陣、脇本陣で、一般の家臣や庶民が宿泊するのは旅籠屋でした。 甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の3藩が利用していました。 特に街道を賑わしたのは、
1.天明3年の浅間山の大噴火によって、中山道が閉鎖となり、甲州道中の通行量が増大した。
2.寛永9年(1632)から元文3年の間、将軍飲用のお茶壹道中の通行が行われ、宿内の田中神社に一行が宿泊された時。
3.中馬(農民の馬による荷物輸送)が発達して物資の交流が激しくなり、当時の宿場は多忙を極めました。

台ヶ原宿本陣屋敷(旧小松家)跡 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県