筑波街道



真鍋-藤沢下大島・大形小田北条・神郡臼井・筑波

いこいの広場
日本紀行



真鍋

JR土浦駅からバスに乗り、通学の高校生にまじって土浦一高前で降りる。水戸街道から左に出ている八坂通りが筑波街道である。筑波神社まで約20km、北条まで国道125号に沿ってのびる。すぐ右手に米と塩を商っている二階の格子が美しい商家が建っている。八坂神社の境内にはまだ初詣の余韻が残っていた。国道125号と合流し真鍋跨道橋で国道6号をまたぐとすぐに右の旧道にはいる。現在の並木1丁目だが学校や郵便局には「都和」の地名を冠している。

再び国道125号と合流し常磐自動車道をこえる。沿道に旧街道の趣はなく、敷地をたっぷり使った車の販売店が目立つ。上坂田地区にはいり、常陽銀行先の交差点角に初めて街道の印を見つけた。ラブホテル「やまべ」の案内看板の脇に、古そうな石柱が立っている。「上坂田中央」「篤志寄付者 十円  敷地二百五十坪」などが読み取れた。期待していたような道しるべではなさそうであった。

藤沢

藤沢東町の集落にはいると町並みが急に街道らしくなってきた。大きな屋根をかまえた立派な家が続く。藤沢小学校歩道橋の先から右に短い旧道がのこっており、その中間ほどの丁字路に道標が建っている。正面:「皇太子殿下御誕生記念 右至土浦約二里 左至筑波約三里」、 右面:「当字ヲヘテ山ノ荘 石岡縣道ニ通ズ」、 裏面:「昭和元年一月建立」。

県道199号を横切ったあたりから「藤沢下宿」となる。真鍋から約6kmほどのところだから最初の宿場にてごろな距離だ。右手に本陣跡かとおもわれるような広大な敷地に薬医門をかまえ、台地斜面に芝生を敷き詰めた屋敷があった。向かいの台地上には「藤沢防空監視硝之跡」の大きな石碑がある。

藤沢十字路で左におれて寄り道をする。神宮寺の前を通り民家の軒先を左斜めにおりていったところに藤沢城跡があるという。竹やぶにかこまれた畑地に出た。真ん中に葉をみぐるみ落としたイチョウの木が跡地の標識代わりに立っている。藪には土塁や堀跡がのこっていた。藤沢城は南北朝時代から戦国時代の終わりまで小田城の支城であった。小田城主、小田氏治は小田城が攻められるつど藤沢城に敗退した。最後は豊臣秀吉によって攻められて小田城は落ち藤沢城も廃城となった。

道をもどり、三叉路を右にすすむと右手に県指定文化財「藤原藤房卿遺跡」がある。

後醍醐天皇の側近であった藤房は、北条高時によって常陸のこの地に流され、小田治久に預けられた。元弘3年(1333年)天皇が還幸されるにおよんで藤房も京都へ帰ったが、やがて僧侶となって諸国を遍歴したと伝えられている。この遺跡は、髪頭塚とも呼ばれ藤房の髪を切って埋めた地であると伝えられ、現在は約10m四方の塚に榎がそびえ、遺跡の石碑と三島毅の碑文(撰文)がある。

藤沢十字路にもどる。藤沢本町が宿場の中心で、公民館・郵便局あたりにかけては、白壁塀や板塀をめぐらし薬医門を構えて寺院かと見違えるような立派な家が並んでいる。宿場のはずれに奥まってある遍照寺が貧弱に見えた。
 
遍照寺の先、八坂神社を左に見て旧道は右に曲がる。もう大きな家は見られなくなった。左に曲がる五差路角に小さな祠とその脇に板石碑、道向かいには道標がある。板碑は慶長12年(1607)に造立の二十三夜供養塔で、全国でも珍しいという。また、道標には指指し絵の下に、「(右)藤沢 並木 真鍋 土浦  (左) 大島 大形 小田 北条 筑波 方面」とあった。筑波街道の起点は真鍋でなくて、どうも土浦である気分が強い。

旧道はやがて国道125号と合流し、それは更に右からくる125号バイパスと合わさり、大きな流れとなって台地を降りていく。坂を下るとつくば市である。

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下大島・大形

下大島のバス停付近に、藁葺きのお堂らしき建物とともに石仏の一群がある。小さな鹿島神社参道入口付近には水路溜池新設記念碑、二十三夜供養塔などの石碑がある。背後には広々とした畑地が広がって、その向こうにみえる家並みは田土部の集落であろう。野菜を取り入れているおばあさんの姿がファインダーに入ってきた。

大形集落の入口から300mほどの旧道が右にのびている。右側に水路を配し、南向きの家々は見事な長屋門を競っている。門の両側を納屋として使っている農家が多いなかで、網戸越しにレースのカーテンがゆれる居室を見た。長屋門の展示会場を歩いているような100mであった。

国道に合流してすぐ、右に出る細道がある。旧道とおもわれる一方で、単なる農道とも見える。「疑わしきは歩く」のルールに則って右にそれて入った。遠くに筑波山の姿が視野に捕らえられた。男女二体の頂を持ち、時刻によって山全体が紫の色を帯びるという、霊山紫峰の筑波山がその肌を露わにした。二基の馬頭観音石碑がそれを憚るように立つ。両体には修復の銘が記されていた。大形・小田連名になっている。石碑の立つ農道が両村境をなしているのであろう。そばにもう一基、救助を待つ板碑がうつ伏せていた。



小田

県道53号との交差点をすぎ、中沢橋をわたったところで、「筑波山温泉郷」と描かれた派手な看板が二又道の正面を占領している。温泉郷まではまだ10kmある。旧道は二又を左にとる。古い建物が残る小田の集落に入った。解脱寺を左に見て、二又の先の十字路にでた。角に大きな道標がたっているが、文字は読み取れなかった。

その角を左におれて
小田城址をたずねる。畑中の台地に土塁をのこした小高い塚風の木立がみえてくる。青シートが点在する周囲の跡地は発掘調査の只中で、女子中学生がふたり、一人が物差しで溝の深さを測り他の一人がそれを書き留めていた。小田城は、十二世紀末に常陸国の守護、八田知家によって築かれもので、南北朝時代には北畠親房も居住したという。戦国時代には佐竹氏の勢力下にはいったが、佐竹氏の秋田転封とともに廃城となった。

街道の小田中部丁字路にもどる。郵便局をすぎて集落もおわりかけるころ、左の路地傍に庚申塔などの石造物が並んでいる。八幡橋をわたると
北条新田にはいる。長い白壁塀をめぐらせた広壮な屋敷は、寺でなく民家である。前方に筑波山の双頭が次第に大きく現れる。青くもあるし、「紫峰」を意識すると紫がかってもみえた。色合いは結局、近づくにつれ緑の色に落ちついていく。

八幡川にそって歩いた後、北条新田交差点で国道125号を横切り、北条の入口付近で
大池公園に立ち寄った。二つの池があって共に石鳥居が首まで浸かっていた。池の回りには桜の木が植えられていて春は花見の人で賑わうという。

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北条・神郡

街道に戻り、やや崩れかけた茅葺の門を構えた旧家が残る北条の古い町並みにはいっていく。八坂神社で道は鉤型にまがり、弁慶寿し、
宮本家住宅といった重厚な蔵店がならんでいる。いよいよ筑波神社参道入口である北条仲町交差点に近づいてきた。

角に
「これよりつくば道」と深く彫られた立派な道標が建っている。正徳5年(1715)の建立で、古くて大きく立派でかつ文字が読み易いという点で、船橋の成田街道道標と共に全国的に有名な道標である。
「東 ひだり きよたき(清滝) つちうら(土浦) 加し満(鹿島)」
「にし おふそね(大曽根) いちのや(一ノ矢) 江戸」
 
「日本の道百選」に選ばれたつくば道を歩き始める。峠道にさしかかるころ、裾野に西日を受けた筑波山が見えてきた。近くにみえるが道のりはまだ3kmほどはある。

北条集落をぬけ、一旦車道に出てすぐ右折して正面に筑波山を見ながら神郡集落に向う。北条以上に古い家並みである。ベンガラ塀を囲った長屋門が美しい。坂を下って振り返ると、その奥に茅葺の母屋が潜んでいた。しばらくいくと今度は白壁土蔵の家並みが続く。農家とも思えない、門前の町屋の趣を醸している。




臼井・筑波


神郡集落をでると景色が広く開け、新旧ニ本の道の先には臼井の町と筑波山の全容が一望できる。左の嶺が男体山、右の女体山が標高877mで男体山より若干高い。それでも百名山中最も低い山である。

臼井集落は急な坂道である。舗装された坂道をたまに車がローギアで行き来する。あとでバスの運転手から聞いた話だが、もともと石段だったものをこわして車道にしたのだという。それほどに急な斜面にも階段状に家並みが続いている。白壁の塀に沿って流れ落ちる山水も急であった。

石の鳥居の脇に「是よ里山上」と刻まれた石碑が立っている。道なりに登っていく途中の二又には標識があって、神社への道筋を誤らないようにしてある。ついに車ものぼれない坂になり、心臓破りの階段を上って県道42号に出る。沿道はホテルや土産店が連なる参道前の繁華街である。さらに階段を登って筑波山大御堂をたずね、東に迂回して筑波山神社に着いた。

寛永10年(1633)三代将軍家光より寄進されたという御神橋の横をとおり最後の石段を登りつめて、赤銅の大鈴が吊らされた拝殿前に出た。筑波神社の祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命ということになっているが、神体は山そのものである。したがってこの神社に本殿はない。

境内に多くの歌碑が並んでいた。筑波山にちなむ歌を二つ紹介しよう。

最初は小倉百人一首から。

 つくばねの みねよりおつる みなのがわ  こひぞつもりて ふちとなりぬる(後撰771)

作者は57代陽成天皇。貞観18年(876)、9歳で即位したが、殺人を好む暴君として知られ多くの乱行話を残して17歳で退位した。そんな奇怪な天皇だが歌には優れたものがあった。

みなの川は男女川。筑波山の清水から発し女体山と男体山の間を流れ、桜川に合流して水戸街道土浦宿の南端を通って霞ヶ浦に注ぐ。

二つ目は万葉集より。性愛賛歌である。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて  
未通女壮士(をとめをとこ)の 行き集いかがう嬥歌(かがひ)に
人妻に 吾も交らむ わが妻に 他(ひと)も言(こと)問へ
この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎(とが)むな
 
( 高橋虫麻呂『万葉集』第9巻・1759)

鷲の住む筑波山の 裳羽服津の津のほとりで
誘い合って男女が集まり 歌垣で歌い踊るのだ
私もそこに行って人妻と交わろう 私の妻に他の男も言い寄るがよい
この山を治める神が 昔から許している行事である
今日だけは目をつぶって 咎め立てもしないでもらいたい


直訳すれば、歌垣は古代のおおらかな野外乱交行事のようにきこえる。
歌垣は本来、東南アジアに起源を持つ農作物の豊穣を祈願する儀式だったが、時代が経つにつれ男女が集まって飲み食いし、性的な行為を楽しむ行事となった。「夜這い」とおなじく、古くから農村で公然と行われていた性風習であったという。五穀豊穣、子孫繁栄、集団見合い、性教育、娯楽などと、意味付けるのはすべて後講釈で、単に性欲の発散機会とみるのが素直であろう。

日が暮れるとともに一定の場所に村人が集まり、飲食をし夜を徹して団欒する風俗は歌垣だけではない。宗教的な行事としての庚申、二十三夜などの月待ちなどもたぶんにレクレーションの要素があったにちがいない。府中大国魂神社の「くらやみ祭り」はまさに闇中の祭りである。深夜のレクレーションに性欲を封鎖することは困難である。そしてそもそも反自然的であった。

日本三大○○風にいえば、古代の歌垣の場として知られている場所が三箇所ある。摂津の歌垣山、肥前の杵島岳(白石町)、そして常陸の筑波山である。そのなかでも筑波山は、最も古く最も盛んであった。

土産にガマの膏を買った。店先に四六のガマが飼われている。前後の足の指を数えてみたがよくわからなかった。


(2007年1月)
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