出羽街道中山越は仙台と出羽を結ぶいくつかの街道のうち最も人気が高い。一つに、義経が京の都から逃れて平泉に落ちのびた道であること。二つに、芭蕉が平泉から出羽越えの道として歩いた奥の細道であること、さらに鳴子温泉、鳴子峡、小黒ヶ崎という観光地を抱えていることなどである。およそ90kmの街道の内、宮城県側が55km、山形県側が35kmという道程の差に加え、奥の細道と観光地が県境の東側に偏っていることから、どうしても比重が宮城県側にかからざるを得ない。紅葉の見頃を選んで鳴子に乗り込んだ。

出羽街道中山越は奥州街道吉岡宿より分岐し、岩出山、鳴子、堺田を経て、羽州街道舟形宿に通ずる道で、現在の国道47号、JR陸羽東線
(奥の細道湯けむりライン)にほぼ沿って走る。分水嶺から江合川が太平洋に注ぎ、小国川が日本海に向って流れている。山形県では出羽街道中山越を小国街道とも呼ぶ。参勤交替には使われなかったが、多賀城より出羽柵に赴く古代軍用道路でもあった。


吉岡

吉岡宿の北出口に当る下町の西端丁字路に
街道碑が立つ。標柱には地図とともに「奥州街道 出羽街道中山越え」と併記された案内板が取り付けてある。角に立っているから追分だと思ったが、どうやらそうではないらしい。共にその角を右に折れて出羽街道はの西側を廻って国道に出ているようである。中興寺の西側に石仏群があって旧街道の雰囲気十分な細い道がのびている。通りがかった古老にたずねると、それは街道ではないとのことだった。

国道4号の西側にのこる旧道を歩いて大柳信号で国道457号に入る。2.5kmほど行ったところで、左に農道が出ている。標識はないが大衡村の
大瓜土橋と大衡小沓の境界線となっている道である。歩いていくと道はすぐに林の中に消えていた。国道にもどり300mほど進んだところで左にでている舗装道路を入っていくと白石木工の建物裏に旧道の続きが残っていた。旧道の左手は谷が刻まれてその向こうに工場が見え隠れする。やがて人家がみえて砂利道となり坂を下って車道に出る。右折して集落をぬけ沓掛川を渡って土道を通って国道に戻る。

大沓掛坂を上りきったところ、万葉バス「尾西」バス停向かいに丁字路があり、木の根元に
追分石がある。自然石に「右なかにゐた 左ゆとの山道 大くつかけ吉岡下町」と刻まれている。「なかにゐた」は出羽街道の中新田宿、「ゆとの山道」は出羽三山の一つ湯殿山を示す。軽井沢越え最上街道と呼ばれ、王城寺から小野田、漆沢を経て軽井沢の番所を通って尾花沢銀山温泉を結ぶ古道である。

旧道は王城寺演習場や圃場整理などで消失し、小野田で現在の中羽前街道(国道347号)に合流している。旧道の入り口部分はいかにも古道に似つかわしい風情を保ちつつ、すぐ先で藪の中に吸い込まれていくはかなさを見せていた。


右手戸部酒店の隣りに
一里塚が残っているという。街道からは深い杉林があるだけで塚の姿はまるでみえない。うろうろしていると店の奥さんが建物脇から林の中へ案内してくれた。「これです」といわれてもまだわからない。それほど藪でかくされているか、塚が崩れているのであろう。もちろん説明札などもなかった。

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中新田(なかにいだ)

一ノ関村を経て
花川をわたると四窯に入る。右手花川堤防下にフレンチガーデン風に垣根を刈り込んだ民家が目を引いた。緑と赤の刈り込に挟まれたアプローチが印象的である。

その隣りに
伊達神社がある。社殿の隣りに安置されている木幹の肌が動物の班を思わせる美しさである。その前に柿が干してあるのも季節感を添えて好ましい。

街道沿いの伊達神社北隣あたりに
肝入り屋敷があった。説明板などもなく神社の森の一部にそれを想像するのみである。

四窯は間の宿だった。とはいえ次ぎの中新田宿まで3kmと近すぎる。現在の地名は色麻町四竃町。共に「しかま」と読む。両方とも気になる地名である。

集落のなかほど、左に入ったところに役場があってその東隣に
彌勒寺がある。そこに天明の飢饉供養塔があるとのことで、必死に探したがそれと見つけることができなかった。墓地の一角に石仏・石塔が並べられている。その中の一つかもしれない。天明3年(178)の大飢饉では、仙台藩領で6万7千人が餓死したという。

鳴瀬川の手前に
旧道跡が残っている。工場敷地を抜けて川原に突き当たっている。鳴瀬橋を渡ってすぐ左折すると旧道が復活していて加美町南町へと入っていく。

その前に、橋を渡った十字路を右に折れて二、三ヶ所寄り道していく。堤防の道をすぐに下りたところに小山田筑前の墓がある。堤防をさらに東にすすんで左に下りると
鹿島神社がある。本家の千倍もあろうかと思われる大きな要石が祀られていた。要石は鹿島神社の専売特許との説明があるが、たしか香取神社にもあったはずだ。

堤防にもどり鳴瀬川寄りに河岸があったとされる。辺りは河川敷公園に整備されているが、水辺に近寄ってみると手付かずの原風景が残っていた。幅広の河川敷に細い水流があるだけで、どこに河岸を造ったものか見当もつかない。

街道に戻る。南町は庚申塚の先で曲尺手を経て中新田宿中心街へ進んでいく。中新田宿は南町・西町・岡町からなる。
西町が中心街だったようで、街道の左手には中勇酒造田中酒造など造り酒屋の佇まいが往時の風情を醸している。商店街は石畳が整い古い商家がのこる魅力的な町並みである。

西町の信号交差点を右折すると通りの両側に黄色く輝く
銀杏並木が続く。その中に「中新田城」の白い標柱が立っている。大崎氏に改名した斯波氏の居城だったと記されている。標柱の背後にある長興寺は斯波家以来の祈願寺であり、城跡とは関係がなさそうである。跡地はどこかとそのまま東に向かううちに国道347号、457号が合流する北町3番交差点に出た。

その左手角地に、あらためて
中新田城跡の立派な石碑と大崎氏の始祖斯波家兼の銅像が建っている。長興寺に隣接する辺りが跡地ということであろう。この通りは最上街道、別名銀山街道で奥州街道古川宿と尾花沢を結んでいる古い街道である。沓掛の追分石から分岐していた最上街道とは最初の宿場小野田で合流している。中新田は出羽街道と最上街道の交差する要衝に作られた宿場であった。芭蕉は最初岩出山からここまで下ってきて軽井沢越えで尾花沢に出るつもりであった。しかしこの道は難所が多いと聞いて、鳴子経由にしたという。

街道にもどり、次ぎの信号交差点を左折する。国道347号を西に向かい大型小売店のある次ぎの交差点を右にまがる。加美町の北はずれ城生前田地区にはいると人家がまばらとなって田園が広がる風景となる。

まもなく十字路の北西角に黒御影石に
「国史跡 城生柵跡」と刻まれた石碑が建っている。説明板によると一辺約350m四方の築地塀が廻らされていた役所跡だという。国史跡というからには溝跡とか基壇か掘立柱穴などの遺構が残っていそうに思えて周辺を歩き回ったが、人家のほかは田畑か草地で、標識らしいものも見当たらなかった。畑で仕事中の女性にたずねたら、発掘現場はみな埋め戻されたという。彼女自身発掘調査に従事したというから間違いはなさそうだ。出土品はどこかに保管されているはずだろうが、跡地は石碑一本で国史跡とはなんとも寂しい話である。

石碑が建つ十字路を東にまがり街道筋にもどる。北上を再開するとまもなく国道に合流して、すぐ右手に
「菜切谷廃寺跡」の案内標識があった。見落としそうな細い路地の入り口にある。民家をぬけた畑地の盛り上がりに石碑が建っていた。周囲にいくつかの基壇石が残っていて、こちらは史跡らしい風景を備えている。城生柵の付属寺院跡だという。

国道にもどり一路岩出山をめざす。

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岩出山

街道は大きな蛇行をくりかしながら大崎市岩出山にはいる。渋川をわたり道が左にカーブする左手に
馬主神社があり入口に大きな湯殿山碑をはじめとする石塔が集められている。

その先、古川CC道案内のある丁字路を左にはいった右手、林の麓に白い標柱を見つけた。「二軒茶屋塚」と記されている。簡単な説明文があったが、一里塚ではなさそうだ。このあたりの地名は「木戸裏脇」といい由緒ありげだ。木戸は岩出山城下の南出入り口か、あるいは馬に関わる牧の木戸か。

集落の北端で国道とわかれて
旧道が短く残る。宮城県農業公社の標識がある二股で国道を右に分けて下野目南原と南沢木戸脇裏の境界にそって坂を上がる。資料ではこの旧道沿いに富岡数馬の碑や庚申碑などがあるとなっており、幾度も探索したが見つからなかった。

舗装車道が右にカーブするところで真っ直ぐ民家の私道と思われるアプローチに入っていくのが旧道跡らしい。林中に消失した後北側で復活して、大久保製菓前で国道を横切り、国道東側に沿って丸山地区までの短い旧道が残る。

街道は岩出山市内に入り、通丁信号丁字路を左折、突き当たる手前の信号を左折して
伊達家霊廟に寄る。蛭沢川を松窓寺橋で渡った左手の山中にある。天正19年(1591)米沢から移ってきた伊達政宗が12年後仙台青葉城に移ってから岩出山領主となった政宗第4子宗泰をはじめとして歴代岩出山領主の墓がある。

北の方角に岩出山の町が展望できる。中央を縦走する広い通りが県道226号で、出羽街道の道筋であろう。仲町、本町の区間が一段と幅広く整備されている。

仲町交差点北東角の交番あたりに旅籠石崎屋があり、元禄2年(1689)5月14日
芭蕉と曽良が一泊した。一筋北の右手ポケットパークに芭蕉像と奥の細道案内板、岩出山町道路元標などが建っている。

内川に架かる岩出山橋にさしかかると県道の景観は一変して、道幅も狭くなり沿道の家並みも旧街道の面影をただよわせている。内川沿いに西へ寄り道する。

二ノ溝(にのかまえ)橋界隈は情緒あふれる一角である。内川に沿って遊歩道が整備されている。橋は木橋で、欄干を横板で覆った珍しい造りである。

北角を占めるのは
森民酒造店で、冠木門の内側にレンガ造りの煙突がそびえている。ちょうど店の雨戸が開けられるところだった。


南に目をむけると、こちらはかっての武家町で、水路がついて緑の多いしっとりした路地である。門に板塀を構える屋敷は
阿部東庵記念館である。阿部東庵は伊達邦直公に仕えた典医で、長崎や京都で医学や蘭学を学んだだけでなく、茶道や歌道にも通じていた文化人であった。

城山公園に上る。途中にSLが展示されている。JR陸羽東線を引退した昭和14年製の蒸気機関車である。頂上広場に城址碑がある。

左奥に平服姿の
伊達政宗立像が立つ。青葉城址にあった政宗騎馬銅像が戦時中に供出された。空になった台座に小野田セメントが平服立像を寄贈した。この像はセメント像だろうか。仙台市民はこの像を余り喜ばなかった。昭和39年になって青葉城址に新しい騎馬像が出来上がったので、平服像は政宗ゆかりの岩出山城址に寄贈されたものである。右目が痛々しい。武将というよりもキリスト教徒が立っているように見える。不評だったわけがわかるような気がする。

岩出山最後の訪問場所は
有備館である。有備館は伊達家の家臣子弟の学問所として使用された、江戸期のものとして残る最古の藩校建築である。萱葺の格式を備えた美しい建物である。岩出山城本丸の断崖を借景としてつくられた回遊式池泉庭園も名園とされている。開園前の準備をしていたおじさんに無料で入らせてもらった。

街道に戻り突き当たりの横町集会所前を左折、
岩出山大橋で江合川(えあいがわ)を渡る。南袂の河川敷きは公園として整備され秋葉山碑などもと街道筋にあったと思われる石塔があった。

橋を渡って左折、上野目深山の後藤酒店前を右折して国道47号要害信号を横断して県道17号に移る。角に
奥の細道、上街道(迫街道)の案内標識が建っている。

下鎌集落の手前で左に直角に折れ西に進んでいくと右手に追分の名前となった
天王寺がある。推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。三度の火災にあって七堂伽藍も運慶作の聖観音像と聖徳太子像も焼失した。 

いよいよ待望の
天王寺追分にたどり着く。左手に萱葺屋根の大きな農家があった。分岐点には道標を兼ねた山神塔のほか、「おくのほそ道」の案内板、上街道の石柱などが建てられている。

右に出ている道が上街道または迫街道とよばれ、岩出山と一ノ関を結ぶ道である。芭蕉は平泉からの帰途、この道を通って岩出山へ出た。奥の細道そのものである。

出羽街道中山越は天王寺追分をそのまま真っ直ぐに進み、鳴子を目指す。街道は右手に延びる丘陵の麓に沿ってのどかな集落を縫っている。

上野目小学校をすぎて古舘八幡神社前を通る。鳥居の後ろに「古舘跡」、「古館古墳群」ときされた白い標柱が立っている。誰の館跡なのか説明板はなかった。

すぐ右手に「居合道剣道範士山蔦重吉生誕の地」と書かれた標柱があった。

左手にトタンで一部補修した茅葺屋根の農家をみて
一栗城跡に差し掛かる。室町時代末期、大崎氏家臣の居城だった。

芭蕉は岩出山に一泊する前日、天王寺追分から小黒崎をめざしてこのあたりまで来ていたのだが、日が暮れて前進を断念、岩出山に泊ることにしたものである。

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下宮(池月

前方になだらかな山並みが低くよこたわり、街道の両側はさっぱりした刈田が広がる。

集落の手前に大きな茅葺屋根の農家が見えてきた。西側に屋敷林をもち生垣をかこった立派な屋敷である。ただ、茅葺屋根はビニールシートやトタンで補修されて痛々しい姿であった。主屋に付け足したような小屋は消防ポンプ置き場で、屋根に干してあるホースが包帯に見えた。


根岸遺跡の石碑を通り過ぎる。詳しい説明はないが縄文時代の遺跡らしい。

池月小学校前に
街道碑がある。吉岡下町の丁字路にあったものと同様の形式だ。学校の前の道が出羽街道中山越と考えそうだが、旧道はもうすこし手前で斜めに南下し、池月駅の東方で線路を横切って駅前集落を通り抜け国道47号の池月信号交差点に出ていたようである。その跡をさぐってみると、それらし道が線路まで残っていた。誰も通らない廃道である。民家の間を縫って駅前通りを斜めにぬける道が残っている。これが旧道跡かどうか定かではない。

下宮宿は国道池月信号を右折してJR線路までの短い区間に作られた。古い家が残っていない池月駅周辺だが、この通りだけは昔を偲ばせる家並をみることができた。この旧宿場通りは岩出山で別れた国道475号で、小僧街道とよばれている。JR踏切の名も小僧街道踏切である。踏み切りをわたったところで右から池月小学校前の道が合流してくる。

旧道は踏切りから小僧街道をすこし北に進み、花岳院の参道入り口で左折する。寺を回りこむようにして西に方向を転じてのびていく道は惚れ惚れするような街道である。時々孤立した人家があるだけで集落すら通らない。

線路とつかず離れずしながら、道が右にカーブしていくところで左に折れて国道に出た。合流点右手に
荒雄川神社がある。大崎五郡の一の宮として崇敬され、源義家所縁の式内社である。小さな社殿だが凛とした佇まいであった。

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鍛冶谷沢

2kmほどいくと小黒ヶ崎に至る。観光センター駐車場に芭蕉像が立つ。まぶしそうに空を見上げるポーズの芭蕉は国道向かいの小黒ヶ崎山を至近距離から眺めていたのであろう。

そばに大きな案内板があって、奥の細道本文と曽良随行日記からの抜粋が記されている。池月からはなだらかな丘陵に見えていた山が国道のすぐ傍まで迫ってくると、木々の一本一本が明瞭に眺められて秋の錦が織りなす小黒ヶ崎山は美しい迫力を見せていた。暖色に混じって純緑色の松の木がその存在を目立たせている。どこでも名勝は春か秋にすぐる季節はないが、特に小黒ヶ崎山はその季節に限るといわれる。良い時に来た。

そこから僅か行ったところで左に入る細道がある。道なりにたどっていくと江合川の川原にもうひとつの歌枕がある。
美豆の小島といって、川中島に巨岩がありその上に生えている松が風情ひとしおであると愛でられた。

川原の駐車スペースに
歌碑がある。

   をぐろ崎 みつの小島の 人ならば  都のつとに いざといはましを

「小黒崎美津の小島が人ならば、都の土産に、共に参ろういざと言うだろうに 」という意味らしい。現代訳されてもまだわからない。

水流の変遷によって岩の相対的位置は岸辺であったり川中であったりと変わった。今生えている松は勿論新しい。そんなことを勘案しても現代の美豆の小島は昔に劣らず趣きあるように見えた。

国道にもどて次ぎの宿、鍛冶谷沢を目指す。国道が鳴子バイパスとなって左にそれていくところで、国道を下りて旧道に入っていく。川渡駅前通りの商店街を通り抜け、県道253号を越えて200mほどいったところの三叉路
「鍛冶谷宿駅跡」と東北大学付属農場が併記された矢印標識が立っている。その三叉路をUターン気味に折れて坂を登っていく。「第一羽後街道踏切」を渡って、なおゆるやかな坂を上がったところが旧鍛冶谷沢宿である。

手民家の生垣の隙間に立派な湯殿山碑にならんで、「鍛冶谷澤駅跡」の碑があった。どのあたりから宿場が始まっていたのか、よくわからない。なお、羽後街道とは、この先鳴子で出羽街道中山越と分かれて北上し秋田県湯沢に至る道で、分かれるまでは出羽街道中山越と重なっている。

それより私を惑わせたのは、この先進めば
東北大学付属農場に入ってしまうことで、出羽街道にもどるには来た道を引着返すしかない。袋小路に宿駅を作るわけはないだろう、という疑問だった。踏切までもどり線路の南側についている細道を西に進んだ。鍛冶谷澤集会所を通り過ぎて鳴子中学校前で広い車道に出た。宿場跡からこの地点への近道があったのだろうと思われる。

街道は開放的な風景の中を鳴子温泉に向って進む。
巨大な杉の木がそびえる根元に馬頭観音、馬力神の石碑が並んでいた。珍しく馬ばかりである。

沿道にちらほらと旅館が目に付くようになってきた。

旧街道は江合川左岸に出てくる。東北電力池月ダム取水口をすぎた辺りに民家に向って右斜めに上がる細道がある。これが旧道だろう。民家の玄関先をすぎると杉並木の峠道さながらの情緒ある場所を通る。道は車道におりて川とホテル紫雲峡のために途絶している。左におれて堤防道を進み、市民病院鳴子温泉分院病院脇の道にはいって病院裏手の敷地を西に進む。紫雲峡で消失した道筋の延長線上に当る。

職員宿舎第3号棟前を通ってパイプ手摺の橋をわたると
洞川院の前に出る。寺の入り口に奥の細道標柱があって、旧道であることを確認できる。旧道は裏通り風情の道を進んで国道108号に突き当たる。この国道108号が、鳴子大橋の南詰で国道47号と分かれてきた羽後街道である。出羽街道の旧道は国道108号をよこぎって建物の隙間を通り抜け、左にまがって村本旅館の手前で舗装された堤防道に出る。

まもなく道は砂利道となり中屋敷で二股にさしかかる。前方右手にジャンボの里右にとって堤防からおりる。草むらの中で道が二つにわかれているが、右にまがって岩淵前集落に向う。車道につきあたり左折し小さな集落を通り抜けると道は江合川につきあたる。道は左にまがって再び堤防道になる。

道なりに南にくだり左に曲がると右手河川敷にかかるように二軒の人家がある。犬がうるさく吠えた。人家の先で右におりる道があり、草道をたどっていくと深い草むらの空き地に出た。わずかに畑が耕されている様子である。樹木と草にさえぎられて前方の様子がよく見えないが、この先が渡し場になっていて対岸に尿前の関所があったはずだ。芭蕉はここから綱渡しで江合川を渡っていった。

堤防の道にもどって東に向かう。中屋敷の二股まで戻ってきた。結局一周してきたことになる。この二股を下りないでそのまま川に沿って遡上していたらすぐ先が
渡し場跡だった。昔はこの先の堤防道がなかったとしか考えられない。

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尿前

対岸へは鳴子大橋までもどらなくても、数ヶ所に設けられている釣客用の歩道橋で渡ることができる。二股近くから川に下る細道にはいっていくと水面まで1mほどもない低さに架けられた橋があった。正面に「農民の家」という宿泊施設が建っている。鳴子温泉街の西端近くにあたる。

鳴子温泉自体は出羽街道沿いになく、芭蕉も寄っていかなかったが、宮城県を代表する温泉であるうえに全国的に知られるこけしの産地でもある。尿前の関に向う前に温泉街を散策した。

駅前にも温泉街にも鳴子こけしの愛らしい木人形が観光客を迎えている。頭と胴の調和が良く木肌を生かした菊や紅葉の胴模様が素朴な味わいを醸している。頭を回すとキイキイと鳴るのが面白い。

温泉神社によった。ここにも古びたこけしが立っている。池月、鬼首の荒雄川神社に並んで延喜式内玉造三座の一社である。説明版には鳴子温泉の由来が記されている。

国道47号で大谷川を渡った先で国道と分かれて右に下りていくと林の中に尿前の
番所跡にたどり着く。出羽街道の旧道が渡ったのは江合川で、渡し場のすぐ下流で大谷川と合流しているのである。

尿前番所は土地の有力者
遊佐氏の屋敷内に造られ、出羽街道はこの屋敷の中を通っていた。屋敷は土塀がめぐらされ、長屋門、役宅など10棟もの建物でなっていた。復元された門をくぐるとこけむした石段がつづき、奥に芭蕉立像と文学碑が立つ。跡地の左手に石畳の道があって数軒の民家が立ち並んでいる。家並みの最初の家が遊佐氏の末裔が営む関の茶屋である。この一角が旧尿前宿駅跡で、戸数はわずか十戸余の小さな宿場であった。

家並みがつきたところにも関所跡の標識がある。その先は無粋な道路が視界をふさいでいて、トンネルをくぐらないと川の姿がみえない。深い木立と藪で対岸の様子を窺うことは不可能で、木々の隙間にかすかながら水の流れを確認することができた。

石畳の道を引き返す。大根や垣を吊るした軒下が秋色の深まりを感じさせる。街道は宿場を出て、急な尿前坂を登っていく。左方にある薬師神社前に自然石の芭蕉句碑があった。表には「芭蕉翁」と大きく刻まれているだけで、
「蚤虱馬の尿する枕元」の句は裏面にある。明和5年の古い句碑である。

ロープを手繰りながら階段を上がる。国道47号を横切ってやや左によったところから第二段の石階段坂を上がる。この坂は薬師坂とよばれて、尿前の坂よりもさらに急で長い。東屋のある平地に出た。このあたりは岩手の森とよばれ、尿前の関所が川沿いに移るまで番所が置かれていた。

きれいに整備された道を右に100mほどいくと、右手に芭蕉に思いを寄せた斎藤茂吉の歌碑があり、さらにその奥に宝珠の頭だけを地上に置いた
薬師堂跡がある。ここの説明板によると、関所から薬師堂までの険しい坂道をひっくるめて尿前の坂、あるいは薬師坂とよんでいて二つに分けていない。なお、堂宇の建物は温泉神社にうつされたと記している。先ほど寄った温泉神社の社殿がそうなのか。

道はすぐ先で二つに分かれ、出羽街道・奥の細道は右であるとの標識がある。旧道は鳴子トンネルの上を跨ぐ恰好で、鳴子スキー場の裾を通って山道を下り、先にわかれた町道の延長線に出る。小深沢入口の標識がある。

右におれて車道をたどっていくと右手に
内山伊右衛門の墓を通り過ぎて一旦国道に出る。すぐに鳴子こけしを乗せた「奥の細道入口」の標識が立ち、となりには小深沢0.2kmの案内標識があった。小深沢までの200mの道は難所のイメージにほど遠いなだらかな下り道である。すでに国道は沢に近い位置に来ていたからであろう。「おくのほそ道」遊歩道として大々的に整備されただけあって、快適な道である。

小深沢の橋を渡ってから本格的な難所がはじまる。つぎの大深沢までにきつい山登りがある。九十九折の道を登る。振り返ると色とりどりに染まった木々の合間から下方に赤い橋脚の橋が見えた。あの橋は大深沢橋だろうか。その深い谷に下りるために今賢明に斜面を登っている。

息が切れたところからしばらく平坦な道が続き錦秋の山道歩きを楽しむ余裕が出てきた。このあたり「ふるさとの森」とよばれて、一角に前田夕暮の歌碑が説明抜きでぽつねんとある。
「大深沢1.0km」の表示がある。
「ふるさとの森 奥の細道 
大深沢入り口まで7分」の表示がでてくる。
7分ほど歩いて入り口にやってきた。白塗りのパイプで柵が設けてある。

しばらく歩いてようやく下り坂が始まった。道は落ち葉で埋まって心地よい。道の両側に
土塁のような盛土が認められる。かっては軍用にも利用された出羽街道だから、難所を防御の拠点としてあえて土塁を築いたのかもしれない。あるいは単に、道を切り通した結果の盛り上がりかもしれない。

下り道も九十九折で、階段を慎重に下りて橋がみえる沢にたどり着いた。水の流れは小深沢よりも小さいくらいである。休む間もなく上り始める。二山越える難所ということである。小深沢からの上りに比べればいくらか楽に思えた。

上り坂はやがて峠道となりまもなく山中を抜けて集落に出る。出口右手に自然石の「青面金剛童子碑」があった。車道をたどると道は二手に分かれる。車道脇に赤い鳥居があって水子地蔵の祠がある。旧街道はその道を行かずに、右側の
民家脇を通り抜ける。下に国道47号が見えてきた。

国道の向こう側は景勝地
鳴子峡の駐車場である。紅葉狩りをかねて大勢の観光客で賑わっていた。その人の流れに入り込んでしばし紅葉と渓谷の美を味わう。惜しむかな時刻は夕方に近づいていて燃えるような色の競演は見られず、くすんだ色合いに満足せざるを得なかった。

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中山

鳴子渓谷の観光を終えて、国道を次ぎの宿場中山に向う。沿道には中山平温泉の旅館が点在して、湯煙があちこちで気まぐれに立ちゆれている。硫黄の臭いが漂ってくる気がする。

中山平温泉駅前から1kmほどいったところに国道47号「仙台から81km」の標識が立つ。宿の沢をわたったところを右に折れると集落入り口に
「中山宿駅の跡」、「奥の細道 中山宿」の二つの標識が立っている。中山宿は玉造郡5宿のなかで最も遅くに設けられた宿場である。設立に当っては鳴子村の肝入遊佐氏が大きな貢献をした。幕末期の中山宿の規模は戸数10戸という小さい宿駅だった。現在の集落規模とあまり変わっていない。

標識の先を左にまがるともう家並みが終わる。山道への入り口に石碑が二基ある。右側が嘉永6年(1853)建立の
遊佐大明神碑である。鳴子村尿前の肝入・検断遊佐平左衛門の偉業を讃えるものである。

すぐ先には鳥居の奥に
山神社がある。鳥居の足元に青面金剛碑、すこしはなれた小祠には立派な金精神が祀られている。ここからふりかえると旧中山宿集落が一望できる。両手ですくいあげられそうなこじんまりとした集落である。


街道は間伐されてすずしげな杉木立の中を行く。鳴子の深沢遊歩道と同じくこの道も奥の細道遊歩道として整備された道であるが、鳴子からここまで足を延ばす人はそう多くはなさそうで、深閑とした空気に包まれている。

杉林をぬけると景色はひろがりを見せて、砂利道を進んでいくうち道沿いに別荘かペンション風の明るい人家が建っていた。平坦な道が続いて、開けた右方に対して左側にまとまった林が現れる。やがて農道を右に分けて軽井沢に下る山道の入り口にたどり着いた。

ながい下り坂だが、大深沢のような急な勾配ではなく、難所という険しさを感じさせなかった。紅葉の山道を楽しみながら下りていくと、谷川のせせらぎが聞こえてきて軽井沢にかかる短い橋が見えてきた。水流は豊かで清冽である。橋の上流に小規模な淵が形成されて、緻密な水平の岩相が露出している。清水の流れを見つめながらしばらく休んだ。鳴子以来、ここまでの一人歩きで熊のことをすっかり忘れてしまっていた。

さてここから先、都合で県境近くまでの山道を端折っている。その間に史跡としては義経所縁の
甘酒地蔵と三界万霊塔がある。山や谷はなく比較的平坦で歩きやすい道だと聞いている。

国道で西に向かい、北に大きく方向を変えて山形県に入る。そこからまもなく
国道は出羽街道中山越の旧道と交差する。国道左右の旧道出入り口には標識や案内板が設置されている。

その右側から入って行った。すぐに坂を下り沢を渡る。この小川は尿前で江合川に合流していた
大谷川で、江戸時代新庄藩と伊達藩の藩境をなしていた。現在も宮城・山形県境であるが、何の印もなく旧国境としてはそっけない。右手に一軒の家があるが、かっての茶屋であろう。

街道は幅広く落葉を敷きつめた絨毯の上を歩いているような心地よさである。このまま甘酒地蔵まで行きたかったが、時間の都合で断念し、引き返した。事実上の藩境をみただけで良しとしておこう


(2010年11月)

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出羽街道中山越-1



吉岡−中新田岩出山下宮(池月)鍛冶谷沢(川渡)尿前中山

いこいの広場
日本紀行
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