堺田

旧道
は国道47号を横切って再び山道に続いている。足元をよくみると落葉の下に石畳が敷かれていた。石の古さからみて遊歩道で整備されたものだろう。

国道に沿って北上し、まもなく合流する。道向かいに八幡神社があった。

堺田集落の家並みがはじまるとすぐ右手に大きな茅葺の建物がどっしりと構えていた。堺田村の庄屋、
有路(ありじ)家の住宅である。有路家は藩境の守役(封人)を勤める傍ら宿場の問屋も兼ねていた。

岩出山を発って尿前の関でいじめられ、難所中山越えでヘトヘトになって国境を越えてきた芭蕉と曽良はここに宿を頼んで2泊し体力の回復を図ったのであった。

料金を払って中へ入る。愛想のよい管理人のおじさんが早速お茶を出してくれた。ほどなくご婦人の一団が囲炉裏に仲間入りしたのを機に座を離れて屋内を一周する。昭和46年に解体・復元されたという大型農家の建物はつかわれている木材が太くて黒光りした光沢を放ち、重厚な趣のある建築物である。芭蕉は中座敷に泊めてもらったらしい。馬屋にはよくできた張子の馬が首を出していて、一瞬ドキッとした。最上は馬の産地である。

ござ敷きにもどるとますます座が盛り上がっている。記念写真を一枚撮らせてもらって出た。

家の西側に句碑がある。

   蚤虱馬の尿する枕もと

馬屋と座敷は十分に離れていたはずだが、強烈な臭いは馬が目の前にいると錯覚するほどだった。芭蕉一流の誇張である。

道向かいの駐車スペースに
分水嶺の案内標識を見つけた。親水公園風に整備されていて、溝のような細い水流をたどって駅の方向に向っていくと、三叉路にぶつかって水が左右に分かれていく。右側の方(日本海側)が勢いがよい。これで分水嶺なのだ。平地にある分水嶺として珍しがられ密かな人気を集めている。

堺田を離れ笹森にむかう。途中、左に弓状の旧道が残っている。枯れ草の中ののどかな道である。

トップへ


笹森

笹森の集落入り口に目を見張るような大きな屋根の民家が建っている。小豆色の屋根は赤瓦か、瓦形の銅板なのか、よくわからないが、元は見事な茅葺屋根であったに違いない。玄関によってみると「立春大吉」と書いた札で表札を隠しているように見えた。

笹森は国道から山側の高台にかけて集落がある。高台の一角に
国分大明神があり、その隣りに笹森の口留番所があった。番所跡の標識などは見当たらない。跡地は畑になっていて、その後ろを枯葉マークをつけた陸羽東線が走っている。

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行うところで、村人が武器を所持して自宅でその任に当たっていた。笹森では佐藤家が世襲で番人を勤めたという。街道沿いの大きな家は
佐藤家ではあるまいか。

集落の中ほどで旧道は南に折れて明神川を渡る。渡ったところに追分標識があって、
「笹森口留番所跡・堺田」方面と、「新屋・明神」方面の二方向を示している。「新屋・明神」方面は明神川に沿って田圃の中を通っていく。雑草が深いあぜ道をしばらくいくと道は二手にわかれる。川沿いの道は前方で通行不能状態のようで、左の道を選んで進む。

曲折しながら小さな水路にかかる橋をわたり、右折左折するうち明神橋がみえるところまできた。

ちょっとした十字路があって右は国道につながっている。その十字路を左にたどっていくと杉木立の下に
新屋聖観音があった。新屋の守り神として信仰されていたが、今となっては新屋の集落自体がなくなって、廃村の象徴となってしまった。この前を通っているのが旧道なのか定かではない。明神集落へ通じているのであればこれが奥の細道なのかも知れない。

他方、最上をめざす出羽街道としては方向違いであって、国道47号に戻る道を探らねばならない。結局川沿いの道にもどって明神橋の南詰めあたりで県道28号に出た。岩出山以来つきあってきた奥の細道とはここで別れる。

国道47号にもどり、赤倉温泉を通り過ぎる。富沢集落に奥羽三大馬頭観音の一つ
富山馬頭観音がある。奥羽三大馬頭観音とは一関市舞草、宮城県東和町鱒淵そして山形県最上町富山を呼ぶ。桜並木参道をすすんで仁王門をくぐる。金網に防護された仁王が多いなかで、この山門は解放的であった。鍵のかかっていない引戸をあけると、彩色豊かな金剛像がたち、足元には沢山の絵馬が奉納されている。最上は小国馬の産地として知られている。絵馬に混じって鳴子こけしがいくつか置かれているのが微笑ましい。津軽と南部の間ではこういう光景は期待できないであろう。

トップへ


向町

国道47号最上町本城交差点で右の旧道にはいる。陸羽東線の高架手前に「十日町」と書かれた標識が立っている。最上には向町に加え十日町にも継立があったとする資料もある。十日町は本城とよばれる小国城下の中心地であった。現在の最上町の中心である向町はその地名が示唆するように絹出川の向こう側にある。

十日町バス停の背後に巨大な石碑が二つ並んでいる。
招魂碑と湯殿山碑である。「湯殿山」の文字は深く彫られていて、「山」の字穴に三本のローソクが入り込んでいた。二つの巨碑にはさまれて小さな馬頭観音碑がいじけた姿で立っている。

「本城→」の標識に従って路地をたどっていくと左手に小国城跡の案内板があった。残念ながら下半分が破れていて肝心な城跡へのアクセス経路がわからない。下部には「…小国城は、戦国時代細川氏の岩部館であった。天正8年に小国日向守の居城となり42年間城下町をはじめ小国郷(最上町)を統治した城山である。ここから山頂に登れば小国郷が眺望できる。」との説明書きがある。後ろの山に向って進んでいったが、畑に遮られて山に入っていく道を見つけることができなかった。

バス通りにもどって先にすすむと道は左に曲がって絹出川にむかう。曲がり角に右にのびている道があって、入っていくと果たせるかな十日町公民館から城跡に通じる道が整備されていた。

山道を上がっていくと、途中に
山の神があり、その先に「本城」「山頂」の案内標識があった。「本城」方面に行くと先ほどの畑の何処かに下りるのだろう。

山頂が
本丸跡だが、堀や土塁などの遺構は残っていない。説明書きにあったように、北方角に最上町が一望できた。最上は山に囲まれた美しい盆地である。

山を下りて絹出橋を渡る。県道63号を横切ると旧向町宿場跡である。宿場街はまっすぐに延びて1kmほどで国道47号に合流する。町並みに昔の面影はないが、宿場の入り口に当る場所に一軒、趣きある家があった。飛鳥姓で、もとは旅籠であったらしい。

最上は小国馬産の地であることは何度も触れた。向町宿はその馬市で賑わったところである。裏街道より一筋東の通りにある
旧農協が馬市跡である。この辺りには役場のほか最上町の公共施設が集まっていて、商店街の街道筋よりも雰囲気のある通りになっている。

「この通りが旧街道でしょうか」と尋ねると
「いいえ。これは
裏通りです。表通りが街道です」と、明快な答えが返ってきた。

国道に合流して北に進む。

若宮で国道の南側を並走する旧道にはいる。道の両側に水が流れる落ちついた集落である。国道と合流する手前右手に享保16年の観音碑、安政元年の水神社碑などの古碑群がある。


トップへ



鵜杉


国道で白川を渡り清水町を通り抜け陸羽東線の南側に移るとまもなく次の宿駅鵜杉に至る。鵜杉の宿場は現国道沿いにあって、旧道はない。「鵜杉」バス停と、そのすぐ北にある「鵜杉駅」が鵜杉集落のわずかな手がかりで、うっかりすれば集落そのものを見逃してしまうほどにめだたない存在である。とはいえ、JRの駅があるからにはそれなりの由緒があるところなのだろう。

駅近くの踏切りで
「奥の細道湯けむりライン」の電車を間近に見ることができた。正面に「奥の細道」と書かれた二枚の葉が老人ドライバー用の枯葉マークに似ていた。

鵜杉を出て街道は山間部にはいっていく。小国川が西から南に大きく流れを変えるに伴って陸羽東線と国道も方向転換する。
川の駅もがみで休憩した。小国川にヤナが設けられたこぎれいな休憩所である。

旅を再開するとまもなく水が落ちる音がしてくる。川の向こう岸に二筋の水量豊かな滝が落ちている。しばらく自然の景色に見とれていたが、後でそれは
発電所だったと知った。美しい発電所だ。


瀬見温泉駅の南に温泉街に通じる道がついている。街道の道筋として、このまま国道をいくのがよいのか、温泉街を通るのが旧道なのか知らないまま、左に入った。道端に公園が設けられていて瀬見温泉案内板がある。義経伝説の色濃いところであることが強調されている。

まずこの道は「義経通り」である。出羽街道ではないようだ。小国川に架けられた橋を
義経大橋といい、欄干の上で義経が横笛を吹いている。

このほか公園には弁慶の硯石や弁慶の投げ松があったようだが見落とした。

瀬見温泉は温泉宿が10軒余の小さな温泉である。亀割山で産気づいた義経の北の方のために産湯を求めて川におりた弁慶が偶然浅瀬で湯煙をあげる岩場を発見した。薙刀で岩を砕くと湯が出てきた。今も川の岸辺に湯煙を漂わせる
薬研湯(やげんのゆ)がある。露天風呂にはなっていないようで客の姿はみえない。

温泉街の入り口に湯前神社、斉藤茂吉の歌碑などがある。温泉街は古い木造の宿が並び鄙びた情緒を漂わせている。200mほどで宿街をすぎて、川の対岸にわたり国道を左折する。

すぐ右手に
亀割子安観音がある。祠の前に杉の大木がたちはだかり、その脇に男根石と女陰石が置かれていた。子安観音を盛りたてている。

北の方が出産したのはこの奥の院だそうだ。立て札に1.6kmもあると記されている。追っかけるには遠すぎる。

国道47号を南下する。大堀をすぎると舟形町である。終点が射程内に入ってきた。

トップへ





国道が松原橋に向う手前で出羽街道は国道と分かれて県道56号に入る。老の沢川をわたると野集落である。県道の左側に二本の道がのびている。ひとつは県道と並行にでている道で、他の一つは県道からほぼ直角にでて杉並木の中に入っていく。

県道に沿った道が旧道だろうと入っていくと脚立の最上部に腰掛けて柿の採取に余念がないおじさんに出会った。

「みごとな柿の木ですね」
「渋柿なんだよ。渋を抜いて食べる」
「ところでこの道は旧街道ですか?」
「そう。でも駕籠をかついて通った道はあの杉林の中を通っているやつだ。鍵の手になってそこに出てくる」

ほぼ直角に出ていた道が江戸時代からの道ということだ。後戻りして杉並木をいく。林はすぐに出て、左前方にすばらしい里山の風景が広がっていた。中央の細い緑の筋が老の沢川だろう。

四季それぞれに手前の田圃と背景の山の色彩が移り変わるのを想像した。どれをとっても絵になるセッティングである。怖しげな山でないのがよい。山菜を採りに、栗を拾いに、あるいは松茸がみつかるかも知れない…・
「いつでもおいで」と、そんなやさしい表情をしている。

おじさんが言った通り集落に入って、右折し大きな農家のまえで県道に出て左折した。おじさんはもういなかった。

鵜杉で気付いたことだが、庭木の一本一本に板を円錐形に結わえた雪除けを施している。手間のかかる仕事だが、ほれほどに雪の深さを思わせた。県道沿いの家並みは何の趣もない。

すぐ先が幅集落で、ここも左に旧道が延びている。はいったすぐ左手に地蔵堂がある。
川流れ地蔵という。詳しい由緒は見当たらないが、川を流れてきた地蔵を拾い上げて祀ったというのが一般的な川流れ地蔵の話である。

次ぎの大谷(だいや)で左手すこし奥に鳥居とお御堂らしいものが見えた。ちかづいてみると庚申塔と馬頭観音が並んでいた。

街道は左に山、右は小国川にはさまれた狭い場所を通る。道と川が接するところに観光ヤナ場があった。川原に下りて無人のヤナ場まで行ってみた。ここも清流と田園と山並みが絵になる風景である。

山形は観光地と銘打っていなくてもさりげなく極上の景色を秘めた奥ゆかしさがある。

トップへ



舟形

長沢の大きな集落を県道右側の旧道で通り抜ける。一ノ関には最初に左に入って県道を斜めに横切った後一ノ関信号で再び斜めに渡って一直線の道にはいる。

舟形小学校の前を通り過ぎいよいよ舟形の町内に入る。寺の脇で曲尺手に曲がり中央公民館の辻で
羽州街道の旧道と合流する。出羽街道中山越の終点である。

舟形はいずれ羽州街道として訪れる。すこしだけ旧街道を南に歩いてみた。すぐ左手にある「みなさまの店 本陣商店」が
本陣跡である。

さらに駅前をみて現在の羽州街道である国道13号にも出てみた。舟形町役場前・舟形十字路が三つの異なるバス乗り場になっている。町営バスと山交バスのほかに東京八重洲通り行きの夜行バスがあるのには驚いた。なんでここから…と思ったが、ここからではなく新庄からだった。最上川下り用であろう。

今回の旅で初めて山形県を見た。最上地方という県東北部の一部をみただけだが、もう私は山形県が好きになった。

(2010年11月)
トップへ 前ページへ

出羽街道中山越-2



堺田−笹森向町(最上)鵜杉舟形
いこいの広場
日本紀行
前ページへ