鮮魚(なま)街道は利根川中流の布佐河岸から松戸の江戸川納屋河岸までを結ぶ約30kmの物資輸送路である。夏は銚子から利根川を関宿までのぼり、江戸川で行徳船航路を経由して日本橋行徳河岸まで船輸送された鮮魚だが、大型高瀬舟が関宿まで遡れない渇水期には布佐河岸で陸揚げされ駄馬で陸路松戸納屋河岸まで輸送された後、そこから江戸川を下って江戸に送られた。夕暮れに銚子をでた鮮魚は夜明けに布佐で積み替えられ、その日の午前中に松戸に到着、翌朝には日本橋魚市場に並べられたという。

布佐からの鮮魚街道は、木下河岸からの木下街道と鮮魚駄送をめぐって激しく競争したが、正徳6年(1716)に幕府により布佐から松戸への通し馬が認められてからは、宿場ごとに荷を積み替えるわずらわしさから木下街道が敬遠されて鮮魚街道が主流となった。鮮魚街道は鉄道輸送に取って代わられる明治30年代まで活躍した。



布佐


出発点は利根川布佐河岸である。布佐鮭漁場として知られた網代場跡の土手下に馬頭観音を本尊とする
観音堂がある。布佐は旧水戸街道から銚子までをつなぐ銚子道の宿場であり、また網代場や魚河岸を備えた鮮魚の集積地として栄えた。観音堂はそれらの継立問屋や馬主が駄送馬慰霊のため建立したものである。

土手下を西に延びる銚子道旧道に沿って石井家の古い蔵などが往時の余韻を留めている。芭蕉が鹿島紀行で布佐の魚問屋に宿をかりたが、あまりの生臭さに夜中飛び出して船で鹿島に向ったという。石井家も銚子の鮮魚を扱っていた荷宿であった。

観音堂境内に文化4年の手洗鉢に「東京魚がし」と刻んである。無論「東京」は明治になって追刻されたものである。日本橋魚問屋の寄進であろうか。

観音堂の裏側が鮮魚街道の起点である。地図入りの説明板が建っている。地図に寄れば街道はそのまま南西に真っ直ぐ向ってJR成田線「発作(ほっさく)踏切」をわたることになっているが、別資料では松島薬局の信号の先で左折し、すぐに右折する旧道筋が示されている。実際に歩いてみると一筋東に県道4号の延長線上にあたる道が廃道となっていて、線路をまたいだ工事が進行中であった。

更に東に進むと公園に突き当たって右折する道筋があるが、これもすぐ線路に分断されていて渡ることができない。迂回して宗教団体集会所脇の復活地点にもどると線路から旧道らしき細道がのびていて、国道356号を横ぎり小さな集落の中をぬけて手賀川に向っている。布佐南集会所の前を通って県道に合流し関枠橋を渡る。途中、農家の婦人に鮮魚街道のことを聞いてみたが新たな情報は得られなかった。この道筋が旧道であるかは定かでない。

手賀川が我孫子市布佐と印西市発作の境界をなす。
橋を渡って左手に
若山牧水歌碑がある。大正14年、当地歌人腰川一麿氏の案内で牧水は手賀沼で舟遊びを楽しんだという。腰川家といえば元禄2年(1689)手賀沼新田地を購入して発作に移住した江戸商人村田屋嘉兵衛(腰川)の末裔であろうか。今も発作に堂々たる屋敷を有している。

橋をわたって土手を西に50mほど進むと、土手から降りて発作集落を県道に並行して貫く
旧道が残っている。

すぐ右手に
海野(かいの)作兵衛頌徳碑がある。海野作兵衛は江戸時代初期に江戸小田原町(現日本橋)の諸大名に出入りする鮮魚御用商人であった。寛文11年(1671)幕府の許可を受け手賀沼開拓に着手した。重なる水害により堤防の決壊を繰り返し、幕府から多額の借金をするとともに自分の財産を売り払って事業を継続したと伝えられる。事業は子、孫に受け継がれ、160年間に1290ヘクタールの新田を開拓して飢えに苦しむ農民を救ったという。この石碑は周辺10町村、約400人の農民の寄付によって建てられた。

家並がまばらになって左手県道との間の低地には黒々とした田畑がのびて、街道の右側に生垣に囲まれ門を構えた
大きな農家がつづく。鮮魚街道は干拓地に造られた街道で、水害から守るために建物敷地は石垣で一段高くしてある。

大杉神社のある四辻角に
「南江戸道」と刻まれた道標があり、横道沿いには十九夜塔がずらりと並べられている。

すぐ先にひと際目を引くのは石垣台に建つ堂々とした長屋門である。今は瓦屋根だがかっては美しい茅葺の威容を誇っていたにちがいない。

薬医門を構え武家屋敷の品格を漂わせる家も立派である。共に手賀沼開拓者の血を引く旧家であろう。

発作区集落をぬけ亀成川に架かる下前川橋をわたると広大な新田がひろがり区画整理のため旧道筋は途絶えている。直線的な農道をたどり変則十字路の一つ手前を左折して県道59号に出る。右折して西に向うとすぐ左に細い道が出ている。

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浦部


旧亀成村と浦部村の村境をなす道で、50mほど入った左手に享保元年(1716)、安永3年(1774)など多くの古い
庚申塔が建っている。

県道にもどり松山下公園信号二股を直進する。県道59号は永治(えいじ)郵便局の角を右折して永治集落の旧道に入る。入り口に「大六天神社0.2K」「月影の井0.4K」の案内標識とともに地図が設けられている。

地図を頼りに
大六天神社に寄る。台地の北縁にこんもりとした土盛があって樹木の根元に小さな第六天社の祠があった。盛り上がりは古墳だといわれる。小祠の中に祀られた石塔には「大六天」「安永二年」の文字が読み取れる。木立の左手に「手賀沼干拓発祥之地」の大きな石碑がある。農林大臣の名があった。

奥は公園風に整備されていて、段丘の下には
浦部村新田が広がり遠方に下手賀沼が望まれる。江戸時代初期から始まった手賀沼干拓の試みは幾度の挫折を経て、結局昭和の時代第二次大戦後に政府事業として完成した。

旧道は永治小学校の裏手を行きその先道は
二股に分かれる。立ち話をしていた二人の婦人にどちらが旧道かと聞くと、右が昔の商店街だったという。このあたりでは鮮魚街道といっても通じず道は木下街道だという。確かに県道59号が現在の木下街道である。

右の道を進んでいくと左手に
月影の井があった。鎌倉の星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井の一つと伝わっている。金網でふさいだ井戸がそうなのか、中を覗くことができなかった。

月影の井の先の三叉路を右に折れていく道が鮮魚街道の古い道筋だった。手賀沼の南縁に沿って台地上を平塚まで通じていたという。何時の時点で阿夫利神社経由の道筋に変わったのか知らない。恐らくはいくつもの抜け道があったのであろう。後に藤ヶ谷金毘羅宮にある説明板の地図でこの様子がわかる。

永治集落から竹林の小径を通り抜けて県道にもどる。
まもなく右手に出羽三山碑に続いて
百庚申が一列に並んでいる。天保10年(1839)の年号が刻まれている。いずれも赤く塗られていて異様な風景である。文字や浮彫の部分を中心に塗られているところからみて、どうも拓本目的ではないかと思われるが今だに理由がわからずじまいだ。最初にみたのは木下街道の神々廻(ししば)であった。千葉県外でこのような庚申塔をまだ見たことがない。

その先JAの手前で右の旧道に入る。県道には「木下街道」と記された標識が取り付けられている。角に「石尊道」と刻まれた小さな道標があった。阿夫利神社への道である。

旧道はすぐに三叉路にさしかかり鋭角に左折して県道に戻る。三叉路の右手にはまたあの赤く塗られた大きな庚申塔群があった。ここでは文字と浮彫だけが塗られている。

県道を600mほど進むと
阿夫利神社の鳥居にたどり着く。県道からわかれて右に入っていくのが鮮魚街道である。かっては鳥居が旧道を跨いで建っていた。

県道をそのままいくと250mほどで木下街道の
十余一追分に出る。行徳から出た木下街道はこの交差点を直進して千葉ニュータウンを横切って県道4号につながっていた。行徳からここまで道を同じくしていた県道59号はこの交差点で旧木下街道と分かれて北上し、布佐の手前で右にそれて西方から木下市街地に入っている。
芭蕉は鹿島紀行で布佐に出るなら、ここを通ったのではないかと思うのである。

鳥居から林の中を西にすすんでいくとやがて右手に「石尊参道」の石標がある神社入口に差し掛かる。阿夫利神社は白木造りの清楚な社殿である。明和元年(1764)銚子海岸より取上げた2個の青石に奇怪のことあり、その石を石尊様と呼んで祀るようになった。

街道にもどり西に歩を進め印西市高西新田から白井市十余一に入る。十余一は小金牧・佐倉牧開拓の第11番目入植地として名付けられた地名である。

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平塚

平塚地区に入り、えびや商店の丁字路角に明治29年建立の道標が立つ。
「西 松戸 東京道」「東 白井道」と刻まれている。発作から手賀沼南岸に沿って造られた鮮魚街道の古い道筋がこの丁字路に出てきていた。手賀沼あたりまでその旧道を遡ってみる。

阿夫利神社からここまでの雑然とした沿道風景とはうってかわって
平塚集落は落ちついた雰囲気の中にあった。バス停小屋に「金町青果市場 初荷1月5日10時集荷」の連絡札が正月の気分をつないでいる。古い店構えの建物が残り旧街道の趣を感じさせる町並みである。

集落の中ほどに
延命寺がある。寛弘2年(1005)開基と伝わる古刹で、ベンガラ塗りの山門を潜ると左手に江戸期の観音堂がある。細い木割りを駆使した繊細な方三間堂形式で、擬宝珠付き高欄をめぐらせた清楚で優美な御堂であった。

すぐ先左手に鳥見神社が、そのさきに八幡宮がある。
旧い道筋はそこから林の中を通って手賀沼河岸にあった滝田家に通じていた。今は林中の坂を下って手賀沼干拓地南端に造られた新しい車道にでる。

丁字路を右にまがった右手に国重要文化財の
滝田家住宅がある。滝田家は手賀沼干拓が始められた寛永年間(1624〜1644)にこの地に定住し組頭を務める名家であった。

長屋門から中にはいると左手に土蔵と煙出しのある茅葺寄棟造りの母屋が建っている。江戸時代初期の豪農民家の典型とされている。

主人が出てこられて話をうかがう事ができた。昔は沼がここまできていて滝田家の敷地内に河岸があったという。利根川から船がここまで入ってきていた。今も船戸という地名が残っている。湖岸までいってみると、ボートが一隻繋がれた無人の釣り船センターがかっての
船戸河岸の面影を留めていた。

滝田家前の新道は昔の湖畔で、発作からの旧道は背後の丘陵上に造られていたという。その痕跡を教えてもらった。新道から右に入って坂をあがると右手に農道が出ている。傍の墓地は滝田家のものだそうだ。畑をとおりぬけて林の中に入る。100mほどの山道をたどると田圃にでて道は途絶えた。田の向こう側では八幡宮、鳥見神社を経て平塚集落に通じる道にもどる。

旧道入り口まで戻りすこし発作方面に歩を進めてみた。次の集落の手前右手に集会所のような建物があって前に石仏群と小さな祠がある。石仏は総てが子を抱いた観音像である。中央にひと際大きな昭和66年建立の
子育て観音像が建ち、台石の正面には「女人講中」、裏面には多数の名前が刻まれている。その多くが「滝田」「船田」「海老原」姓であった。

旧道探索はそこまでとしてえびや商店脇の丁字路にもどる。
交通の激しい街道を西に進んでいくと大和製作所の道向かいに大きな出羽三山碑が建つ。

街道は白井工業団地に入って京葉プラントの先の二股を左に入り河原子(かわらご)集落を通り抜ける。河原子台交差点を過ぎたあたり右手に中地区共同墓地があり手前に子安観音堂、その先路傍に文化10年の他10基ほどの古い庚申塔が整列している。

その先の逆Y字路信号角に寛政6年(1794)の青面金剛王碑と庚申塔が並んでいる。

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富塚・藤ヶ谷

街道は中地区から富塚地区にはいり、国道16号と県道280号を横切る。
県道を越えた右手、石段の上に金毘羅神社の石祠がある。

旧街道は松屋商店の先の丁字路を右折する。この角に最近まで茅葺の民家が残っていたそうだが、現在は解体されて建替工事中であった。古めかしい井戸だけが残っていた。

道は
変則五叉路にさしかかる。その中を旧道は曲尺手状に左折・右折していく。最初の角、右手に安政3年(1856)の道標を兼ねた成田不動尊が立ち、正面に「右成田山道」側面に「右きおろし道」と刻まれている。きおろし(木下)道が鮮魚街道のことだろう。

道向かいの民家は竹垣と庭木が懐かしいたたずまいをみせて風情ある一角をなしている。左に折れると二股が二度続く。いずれも右にとるのが旧街道筋であるが、最初の二股を直進して
鳥見神社に寄った。300mほど進んで右に曲がった突き当たりに鳥居が立つ。

参道をすすむと左手に庚申塔がずらりと並ぶ。その最後の一基の右側脇腹に鋭い切り込みがある。宝永3年(1706)のもので、
「切られ庚申」とよばれている。銚子から鮮魚を輸送中の男がこのあたりで火の玉に襲われ刀を振り降ろしたところこの庚申塔に当ってしまったという話が伝わる。切り口は上斜めからと下斜めから切り込まれていて確かに鋭い切り傷である。伝わる話はかなりあやしい。まず、鮮魚運び人足が刀を持っていたか? 次に、名石工でもこれだけ鋭く石を切り刻むことはできないだろう。ましてや荷駄人足の一振りにおいてをや。

その奥に密かな祠が見える。内をうかがうとエレファントマンとエレファントウーマンが抱き合って接吻しているではないか。
歓喜天だという。鳥見神社によったのはこれを見るためだった。

街道にもどり矢の橋台霊園を過ぎ坂を降りて行く。車両止めのブロックをこえて白井市と柏市を分ける広い車道の脇に庚申塔などがある。車道をこえるとまた新しい道がよこぎっている。このあたりは住宅開発にともなって新しい道が惜しげもなく造られている。その二つ目の新道を横切った右手路傍に文政13年(1831)の小さな道標があり不動明王が彫られ
「成田道」とて刻まれている。

旧街道はすぐに三叉路を左折する。すぐ右手、竹やぶ脇の階段の上に無残にうち捨てられた
金毘羅宮がある。祠の残材がシートにまとめられていた。階下には儒学者大沼枕山の立派な撰碑と、鮮魚街道の全体像がわかる詳しい説明板があった。金毘羅宮は、幕末の嘉永5年(1852)に鮮魚道の中間点として賑わったここ藤ヶ谷台町に造立されたとある。荷駄人足たちはここで休息をとりつつ魚に水をかけて鮮度を回復したというのが面白い。

地図は利根川から陸路、江戸川経由で行徳まで、そこから日本橋までの航路を示している。これをみれば距離的には木下から行徳まで陸路を直送した木下街道ルートの方が、布佐より松戸―江戸川で行徳に下った鮮魚街道ルートよりも短かったことがよくわかる。鮮魚街道にだけ通し馬が認められたことがその距離的ハンディを補って余りあったと見るほかない。地図は手賀沼が「つ」の字にまだひとつにつながっていた時代を示していて鮮魚街道(赤点線)は永治から手賀沼南端に位置する船戸河岸を通っている。後年、このルートが木下街道と再接近して西進する現在の道筋にかわった。その位置関係を知る上でもこの地図は参考になった。

旧道は丁字路を右折して坂を上がりきったところに
鮮魚街道常夜燈が建つ。「紀元2539年6月設之」と銘記されており、明治12年の建立である。説明版で鮮魚街道の起点を布佐ではなく木下と反復しているのが気になった。両者を同一視している向きがないでもない。常夜燈の寄進者も布佐ではなくて木下の者としている。

そばの
相馬商店は元茶屋であった。金毘羅宮の説明板に記されていたように、ここ藤ヶ谷は布佐―松戸の中間地点にあたり、途中宿場のなかった鮮魚街道で一服するには都合のよい立場だったようである。

なだらかな坂道を上りつめた右手に馬頭観音をみて道なりに坂を下り、街道は海上自衛隊下総航空基地に突き当たって途切れてしまう。

基地周辺の道を通って一旦県道280号に出、すぐ先の二股を左にとって基地の北縁を西にすすむ。藤ヶ谷バス停傍の基地滑走導入路で、上空を二機の訓練機が降下してきた。模型飛行機のようなかぼそい姿だが一人前の爆音を響かせていた。
基地の北西角で左折して沼南高柳高校前を通り柏市から鎌ヶ谷市に入っていく。

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六実・五香

右に幼稚園のある丁字路で鮮魚街道にもどる。念のため左折して基地からの旧道復活地点を確認しておく。有刺鉄線が張り巡らされているだけで街道であった痕跡は何もない。

街道を西に向うと道が左にカーブするあたり右手に立派な石垣を配した民家がある。その手前の路地を入っていくと竹やぶが繁る台地の崖に突き当たる。ここに戦国時代
佐津間城が築かれた。50m四方ほどの小さなものだった。藪の中にそれらしき地形の凹凸が残っているように見えた。

旧街道は渋谷重兵衛米店の信号を左に行く。旧道に入った左手畑の縁に小さな馬
頭観音がある。

その先の十字路を右折して坂を上がっていくと右手に
鳥居があり二体の道祖神石塔を祀る小祠がある。

その先の三叉路角に「南無大師遍照金剛」の碑があり、側面に
「左 松戸・江戸道」と刻まれて道標を兼ねている。

道標の立つ三叉路を右にとって県道8号を横切って鎌ヶ谷市から松戸市にはいり、繁華な県道281号に合流する。ここまでの鮮魚街道は工場が入り混じりながらも梨畑を含む田園を基調としたのどかな風景であった。以降は松戸まで、商店街と住宅地が混在する市街地である。鮮魚街道も終盤にはいってきた。

東部野田線六実(むつみ)駅北側の踏み切りをわたる。右手に建つ漆喰海鼠壁、虫籠窓の老舗呉服店
きもの川久には小金牧で行われた鹿狩りの様子が大きく描かれている。明治に入って幕府の野馬放牧場は開拓され困窮した江戸の武士や市民が入植してきた。入植順に1番から13番まで縁起のよい名前がつけられた。六実は6番目で、この先の五香(ごこう)は5番目だった。

街道沿いの
高お神社香実会所跡で、五香六実の村落開拓の中心となった所である。傍に開墾百年記念碑がその歴史を伝えている。

右手に五香稲荷神社を見て
五香十字路にさしかかる。旧道はすぐ先の二股を右に入る。新京成線で分断されるが線路の向こう側に旧道は続いている。

五香駅の西側にでて県道281号の変則十字路を南に下って五香公園にある
御立場跡へ寄ることにした。松戸四中の西側の道を南にすすみ二つ目の信号を左折、あさひ幼稚園の東南にある公園の東端に跡碑が立つ。徳川将軍家が小金牧で鹿狩を行った際、将軍がその模様を眺めた場所で、高さ10mの塚を築きその上に座所を設けたという大がかりなものだった。

街道にもどり県道の一筋北を並走する旧道を歩いていく。裏通りは静かな住宅街だ。旧道は常盤平中学の先で広いけやき通りにでて県道281号に合流する。合流三角地帯に小公園が整備され、清水と一茶句碑(「母馬が番して呑ます清水かな」)、水を掬って飲んでいる少年像がある。
子和清水といい、酒好きの父親とその息子の話が伝わっている。この話を聞いた人々が「親は古酒、子は清水」と言うようになった。

県道をすこし歩いて常磐平柳町交差点で再び右の旧道に入る。新京成線の手前にある「さくら通り」を右にすこし入ったところ左手に江戸幕府が置いた
金ヶ作陣屋跡を示す標柱が立っている。小金牧の管理を司る役所である。


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松戸

街道は道なりに進みかっぱ横丁を通って新京成線みのり台駅脇で踏切を渡り県道に戻る。左手工業団地を過ぎたところの変則五叉路交差点を左斜めに入っていく。左手に湯楽の里というスーパ銭湯がある。

次の交差点の左手前脇に文化11年(1814)の庚申塔がある。その先細い道路が二本出ているが右側の道が旧道筋。総合卸売市場の裏通りをすぎると道幅が広くなって、まもなく国道464号との交差点に出る。


ここを右折してすぐ左斜めの細道に入る。国道に沿った400mほどの旧道だが、車が通らず裏道の雰囲気が濃い一角である。

国道にもどり松戸隧道交差点を斜めに渡って千葉大園芸学部の南側を回り込んでいく。途中左に降りていく道があるが、そのまま山裾を進み突きあたって左折したところ、右手の土手に
「維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓」がある。千葉大園芸学部の学生、職員が土手回りの清掃作業中であった。落ち葉がひどい。

道はJR常磐線に突き当たる。線路を歩道橋で渡り県道5号(流山街道)に合流する。右折して角町交差点に出る。旧水戸街道、松戸宿に到着した。

すぐ先の路地を左に入って利根川土手まで行くと
渡船場河岸(下河岸)跡で、天領松戸宿の入り口を示す「是より御料松戸宿碑」が建っている。水戸街道の渡し場であった。

旧街道を東へ進み松戸郵便局のあるあたりに問屋場・本陣・脇本陣などがあって宿場の中心街を形成していた。

坂川に沿って北に歩くと
松戸神社である。日本武尊が東征の際に従者と待ち合わせた地に建てられた祠がその発祥だという。待つ土(地)から松戸の名が出たという伝えもある。

街道をよこぎる坂川にかかる
春雨橋の周辺には古い商家が多い。建物だけ保存されているものもあれば人が出入りする現役の店もある。

西蓮寺の角を左折して鮮魚街道終点の
納屋河岸に到着する。土手下に復元された黒板塀が船問屋を営んでいた青木家跡である。布佐で利根川から荷揚げされた鮮魚は鮮魚街道を通ってここから再び船で江戸川を下り江戸へ運ばれた。

納屋河岸の北に隣接して平潟河岸があった。この一帯には材木・鮮魚を扱う商人や水運業者があつまり、彼らを相手とする飯盛女を抱える旅篭が数多くでき平潟遊廓が形成された。

 (2011年2月)
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鮮魚街道



布佐・発作−浦部平塚富塚・藤ヶ谷六実・五香松戸

いこいの広場
日本紀行