岐阜県長良川は鵜飼で知られる。そこで捕れた鮎は保存食として飯とともに発酵させた熟鮨(なれずし)に加工された。近江琵琶湖でとれた二ゴロブナの熟鮨である鮒鮨と同様、ともに古くから朝廷に献上された特産品である。鮎鮨は京都の朝廷のみならず、江戸時代に入るとはるばる江戸の将軍まで献上された。毎年旧暦5月から8月までの間に、江戸時代の前半には20回、後半には10回にわたって、鮎鮨が岐阜から江戸まで運ばれた。老中証文を受けた特別輸送で、昼夜兼行わずか4~5日間で江戸に届いたという。およそ100時間で400kmの道のりを運んだ。時速4kmの計算となり、重い桶を天秤棒で担いでほぼ普通の徒歩速度で運んで行ったことになる。

この道筋を御鮨街道と呼んだ。名古屋からは岐阜に至る主要街道で、岐阜街道ともよばれた。ここでは鮎鮨の運ばれる道をたどることとし、長良川の鵜匠が住んでいた地区から出発して、加納宿、笠松宿、一宮宿を経て、四ッ家追分で美濃路と合流し、稲葉宿、清州宿、名古屋宿を経て宮(熱田)宿で東海道と合流するまでを旅する。 



加納(岐阜

長良橋を渡る。上流右手の金華山の頂上に岐阜城が小さく見える。斎藤道三の居城稲葉山城が織田信長によって岐阜城と改められた。

長良川右岸の堤防を上流に歩いていくと鵜匠が経営する旅館「すぎ山」の前に鵜飼船が繋がれていた。鵜匠はこのあたり一帯旧鵜飼屋地区に住んでいるのだそうだ。

裏通りを橋までもどる。鵜匠の家か、川魚問屋か、雰囲気のある家並みがあった。

橋の南詰は鵜飼観覧船の乗船場になっている。長良川の鵜飼は毎年5月11日から10月15日まで行われ、多数の観覧船が準備万端整わせて待機していた。

橋の上流側にポケットパークが整備され、川端康成の文学碑と芭蕉句碑がある。

川端康成は大正10(1921)年、加納にある寺の養女となっている伊藤初代に会うために三度にわたって岐阜市を訪れている。川端康成は東京本郷にあるカフェで女給をしていた初代を見染めた。初代はまだ14歳の少女であった。その後康成は初代の父親を訪ね結婚の了解を得る。事情があってカフェを辞め岐阜に移っていた初代を訪ね、結婚の約束を取り付けたのであった。

それからわずか一か月後、彼女からの一通の「非常の手紙」によって二人の初恋は突然悲恋に終わる。

私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様と固いお約束を致しましたが、私にはある非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今このようなことを申し上げればふしぎにお思いになるでしょう。あなた様はその非常を話してくれとおっしゃるでしょう。その非常を話すくらいなら、私は死んだ方がどんなに幸福でしょう。(中略)お別れいたします。さようなら

初代16歳、康成23歳のことであった。「非常」の謎が明かされることはなかった。

貞享5年(1688)、笈の小文の旅を終え、更科紀行の旅に出るまでの3か月あまり、芭蕉は近江、岐阜、名古屋の門人を訪ねてはリラックスした時を過ごしていた。6月、長良川の鵜飼を見物したとき、その印象を『鵜舟』として残している。

    おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな  

国道256号を挟んで長良橋南詰の西側に鵜飼観覧船乗り場がある。ここに川湊があり、鵜飼による鮎が水揚げされた他、近隣地域に産する美濃紙・木材・茶・関の刃物などがここを中継地として全国各地に売りさばかれていった。尾張藩はここに長良川役所を置き、ここを下る荷船から船役銀を徴収した。

川灯台、鵜匠と鵜の銅像があり、観光客が多い。ここから南西に向かって情緒ある旧川原町(現湊町・玉井町・元浜町)の家並みが延びている。千本格子、駒寄せ、虫籠窓、卯建はほぼ標準仕様かのようである。かっては紙問屋・材木問屋など商家が軒を連ねていた。


通りを歩き始めると右手に十八楼という大きな旅館がある。建物は新しいが全体を黒っぽい格子造りでまとめあげ、川原町の景観に溶け込んでいる。ここは江戸時代、油商賀嶋善右衛門(俳号鴎歩)の水楼であった。貞亨5年6月8日、芭蕉は賀嶋鴎歩に招かれ、長良川の岸辺に建つ高殿から鵜飼などを眺めながら夏の夕べを楽しんだ。鴎歩の水楼を「十八楼」と命名し、その謂れを「十八楼の記」の一文に記して鴎歩に与えた。

   このあたり めにみるものは 皆涼し 芭蕉

元浜町に庚申堂がある。永禄3年(1560)斎藤義龍(斎藤道三の子。後、親子は対立し義龍は道三を討つ)が伝燈護国寺を建立したが、同年の別伝の乱とよばれる宗教対立の中で寺は破却され、お堂だけが残った。お堂の正面扉が開放されていて、内部をつぶさに見ることができた。庚申塔で普通台座に掘られている三猿が、ここでは本尊の脇に三匹の木像が並んでいた。

木材店の先で川原町散策を終え、水路を渡って東木材町に入る。ここにも格子造りの美しい町屋が残っている。近江や京でよく見るバッタリや、伊勢地方でみかけた横板を通して軒下を隠す風返しをみることができた。控えめに掲げられた看板から、傘問屋、紙店などとうかがえる。川原町に続く情緒ある家並みである。

三叉路交差点で国道256号を左折、材木町郵便局を通りすぎて、右手「ふくろう絵工房」の角の細い路地を南に入って行く。十字路を横切った先の左手に「御鮨所跡」の立札がある。ここから梶川堀にかけて河崎遅喜衛門家(御鮨元)が勤める御鮨所があった。鵜飼で捕獲された鮎は御鮨所に運ばれて、熟鮨に加工された。発酵が進み、数日で食べごろになるのを見計らって御鮨街道を江戸に向けて運び出されていった。

立札の先の十字路を左に折れると突当りに岐阜大仏がある。天保3年(1832)に38年の歳月を費やして完成された大仏は乾漆仏としては日本一の大きさを誇る。坐像で高さ13.7m、骨格は木材で組み外部は竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものである。堂内に居並ぶ極彩色の木像五百羅漢も見ものである。

御鮨所を出た鮎鮨は本町通りに出て右折、本町1丁目と2丁目信号の間の路地を入って行く。米屋町郵便局の筋向い辺りに岐阜町本陣があった。尾張藩主が岐阜を訪問した際に泊まった所である。本陣を勤めたのは賀島勘右衛門(庄蔵)家であった。十八楼の賀嶋善右衛門と同族か。本陣建物は明治24年の濃尾地震で焼失し、その後大正時代に海運業で財を成した日下部久太郎が本陣跡地に和洋二館の豪邸を建てた。本宅の和館は名古屋八事の興正寺に移築され、旧日下部汽船本店として使用された赤レンガ造りの洋館は現在石原美術が入居している。

伊奈波1丁目交差点を左折すると正面に善光寺が見える。その右側の鳥居をくぐり太鼓石橋の神橋の脇を通って石段を上っていくと山門の奥に伊奈波神社がある。景行天皇の14年(84年)に創建されたといわれる古社である。もとは稲葉山にあったものが斎藤道三の稲葉山城(岐阜城)入城に際して現地に移転してきた。

街道にもどる途中、右手の堀沿いに立つ誓願寺あたりに岐阜奉行所が置かれていた。元和五年(1619年)岐阜町が尾張藩領になると代官が置かれ、元禄8年(1695)には奉行所が置かれた。東西約108m、南北約216mの敷地に堀をめぐらし、敷地内には奉行所・門番屋敷・囚人牢屋・道場・同心屋敷などが設けられた。なお、「岐阜」の名称は織田信長が斎藤氏を破ったとき、「井ノ口」にかえて岐阜と改称したものである。

街道を南に歩を進める。左手にうだつを備えた商家や連子格子と矢来の美しい家並みがある。このあたり現白木町は岐阜町の入口にあたり、高札場が設けられていた。白木町と常磐町の境をなす交差点は総構え跡で、堀と土塁が築かれ岐阜城の南出入口をなしていた。

その先の交差点角にある「さし源本店」前に御鮨街道の標識がある。

達磨大師堂がある笹土居町にはいると街道の両側に絵入りの御鮨街道立札が立っている。鮎鮨が詰められた桶、それを前後に二つ吊り下げて天秤棒で担ぐ人足、御鮨所での加工作業風景など、長良川鮎鮨絵巻からの絵図である。

小熊町をとおりぬけ金屋町1丁目の交差点に総黒板壁造りの豪壮な屋敷が構えていて角に釣鐘が置かれている。日本最古の鋳造所である岡本太右衛門宅である。創業は永禄6年(1563年)に遡り日本で一番古い鋳造メーカーと言われている。江戸時代に「鍋屋」の称号を天皇家から授与された。建物は江戸時代末期の町屋である。

見どころが多かった岐阜城下を出て中山道加納宿まで、城下町独特の曲がりを重ねた道順を追う。

金園町2丁目交差点の先、元町2丁目の二股を左にとる。名鉄各務原線の踏切を渡って林文堂手前を右折最初の十字路を左折。正面にコメダコーヒーを見て突当り丁字路を右折。すぐの高砂町3丁目信号を左折して、JT高架下をくぐり名鉄名古屋本線をわたると加納南広江町で中山道との合流点に至る。

右手角に
道標があり、「左中山道 右ぎふ道」だったのが明治初年になって「左西京道」、「右東京道」が追加された。ぎふ道とは御鮨街道のこと。明治になり江戸が東京となって、中山道を東西に分けて東京、京都を示すことにしたのだろう。御鮨街道(ぎふ道)はここを左折する。中山道はここで直角に折れている。

中山道に合流してすぐ左手に加納宿の案内標識があり、つづいて民家に岐阜問屋場跡の説明板が掛けられている。岐阜問屋を勤めた熊田家には鮎鮨の運搬にたいして手厚い保護が与えられていた。御鮨所を出た鮎鮨はまずここで第一次引き継ぎが行われ、つぎの宿笠松に向かったのである。

この先、中山道との共有区間にもかなりの曲尺手がある。
加納柳町の五差路交差点を直進する。交差点手前左手と、交差点を渡った善徳寺手前に加納宿標識がある。右手の民家は連子格子と駒寄が美しい。善徳寺前を左折、すぐに右折して加納安良町に入る。ここに加納宿東番所があった。

県道4号を渡り、左に秋葉神社をみて突当りの十字路を右折する。北西角に自然石の道標がある。「左 西京  右 岐阜 谷汲」と刻まれ明治18年の銘がある。谷汲は岐阜の北方にあり、華厳寺・横蔵寺の門前町として知られまた、桜・紅葉の名所としても人気が高い。江戸方面から来た者のための道標である。 

加納大橋で荒田川を渡る。欄干に大名行列のプレートが取り付けられている。

街道は橋から二つ目の道路、県道181号を左折する。右手「だんご屋」の角に宿場道標があり、「左鵜沼宿」「右河渡宿」と示している。

すぐの丁字路で二つの街道が分かれる。中山道は直進してそのまま名鉄名古屋本線の茶所駅踏切を渡って東進し、御鮨街道(岐阜街道)は丁字路を右折して南に向かう。

丁字路を折れてすぐ右手の小堂前にぶたれ坊の鏡岩碑と道標がある。「ぶたれ坊」とは江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」のことで、土俵の外での行いが悪かったことを悔い改め、寺を建て茶店を設けて旅人に茶をふるまった他、自分の木像を置いて道行く人にぶってもらった。身代わりがぶたれることで罪滅ぼしになるのならたやすいことだ。

道標には「東海道いせ道」「江戸木曽路」と刻まれている。この道標も鏡岩浜之介が作らせたものであるという。

街道は真直ぐに南にのびている。この道は八丁畷とよばれた。名鉄名古屋本線に沿って直線に走ってきた街道は境川に接近し、川沿いの道と合流して線路から離れて川に沿って進んでいく。合流点に地蔵堂が建っていた。

東川手集落の入口左手に川を背にして馬頭観音堂がある。街道はその先国道21号に分断される。ガード下を潜って街道の復活地点にもどり南進を再開するとまもなく県道14に合流してそのまま境川を渡る。境川は木曽川の旧川筋にあたり、昔はここが尾張と美濃の国境となっていた。1586年の大洪水で木曽川の流路は南方に移動した。

旧御鮨街道はもう少し上流側で渡河していた。橋を渡ってすぐ左折し旧道筋にもどる。街道はその先で岐阜市から羽島郡笠松町に入っていく。

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笠松


旧街道は車もすくなく落ち着いた道で、沿道の家並みにもさりげなくうだつを設けた民家が散見される。名鉄竹鼻線の踏切をわたり、左に秋葉神社をみて、旧笠松宿に入っていく。

笠松村は江戸時代、美濃郡代の陣屋が置かれた河川交通の要衝であった。郡代というのは、江戸幕府の直轄領(天領)を勤める役職で、代官より格上であった。

左手NTNの手前に黒板壁の蔵と白漆喰壁の二階に虫籠窓を切った蔵店が続く商家があり、筋向かいには笠松宿の問屋を勤めた高島家住宅が綺麗な格子造りの佇まいを見せている。高島久右衛門の祖は近江高島商人で現在9代目。笠松に出て味噌・醤油の醸造で財をなした。

問屋場跡には常夜灯、道標、歌碑、秋葉山小祠が並び立っている。岐阜町の御鮨所を出た鮎鮨は岐阜(加納)問屋を経て、ここ笠松問屋で受け継ぎ、一宮問屋へ送られた。笠松からは、主に笠松の農民が1回14人で運ぶ仕事をしていた。歌碑には「鮎鮨の桶かつぎ 受けわたし 人びとは江戸への道を ひたに走りき」と記されている。

問屋場跡の先でT字路に突当り、左折して最初の十字路(角にだるま薬局)を右折すると笠松のメインストリート本町通りに入る。笠松町歴史民俗資料館の先には二軒の古い商家がならび、さらに屋根神様を祀った杉山邸が続く。杉山邸の二階は神様と並んで黒格子の虫籠窓が白壁に映え、一階の出格子と紺暖簾からは町屋の香りが漂い出してくる。杉山家は江戸時代初期の笠松庄屋八人衆の一人で、輪番で問屋を勤めた名家である。高島家とおなじく味噌・醤油造り屋であった。

宿場の終わりは五差路になって、左に川湊に出る道(名古屋道・御鮨街道)、右に伊勢路、直進する京道が分岐している。木戸跡の標識が立っていてここに関所があったことを記している。

五差路を左折し、木曽川堤防に上がって笠松渡船場跡に出る。一帯が港公園として様々な史跡・案内板が整備されている。

堤防の上に川灯台いせ道道標、傍らに一団の芭蕉句碑、案内板が設置されている。

道標は四面に「すぐ京道」「左なごや道」「右いせ道」「天保四癸巳年一二月 高嶋久右衛門」と刻まれ、木戸跡の分岐点にあったものを復元したものである。オリジナルはどこへ行ったのか記されていない。高嶋久右衛門とは笠松問屋を勤めた人物である。説明板中の道標記載と、地図とに齟齬がある。地図ならびに説明文では直進(南)が伊勢道、右(西)が京道であるのに対し、道標では直進(すぐ)が京道、右が伊勢道となっている。方角としては説明板が正しい。

芭蕉関係の石碑等は「野ざらし芭蕉道」としてまとめられている。説明板には「昭和63年6月笠松町制百年に際し、笠松港公園みはらしの広場に句碑を建て、これら美濃国の足跡を総括して俳聖の「野ざらし芭蕉道」と称することにした」とその趣旨を記し、貞享元年、2年の足跡が図示されている。それによれば、芭蕉は貞享元年、伊賀上野から京、近江を経て大垣に入り、桑名―名古屋に滞在した後、再び大垣にもどる途中で岐阜街道をたどって笠松に寄っている。公園に建てられた句碑に刻まれているのは「時雨ふれ笠松へ着日なりけり」「春かぜやきせるくはえて船頭殿」の二句である。前句は熱田から笠松に向けて発つときの句、後の句は大針から木曽川を下って桑名へ向かう途中、笠松を過ぎたあたりの船上吟であるという。いずれも『野ざらし紀行』にはない番外編のようで、出典も明らかでない。説明板では笠松で一泊したとあり、どこに泊まったのか知りたいものだ。

川辺に下りると正面に「笠松渡船場跡」の標識があり、右手に石畳が復元されている。堤防から渡船場までは荷車などが土にめり込まないように石畳が敷かれた。鮎鮨はここで船に積まれて川を渡った。


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一宮  

木曽川を渡ると愛知県一宮市である。美濃・尾張国境は境川から現木曽川に移動した。笠松渡し場の対岸は宝江(ほうえ)の渡しといわれている。徳川家康の時代、北方渡しと呼ばれてここより上流、現新木曽川大橋付近にあったが、慶長12年(1607)岐阜街道改修に伴い官道の渡しは宝江に移された。

橋をわたり堤防を上流に進むと、高橋源左衛門旧居跡がある。関ケ原の合戦前夜、この地の高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門両名が東軍の先鋒池田輝政の軍勢の木曽川越えを助け、その恩賞として船頭給、二十八石五斗を与えられて御船渡守となった。河川敷ゲートボール場がその屋敷跡で、その場所に近づくと、「皇太子殿下御野立所」の石碑が立っていた。明治44年10月17日、木曽川で実施された特別騎兵渡河演習の際、当時皇太子であった後の大正天皇が、ここで演習を上覧した。

宝江集落に下りる。右手民家は元旅籠だそうだ。

右手に「宝江渡跡」の標柱が立っている。



二股分岐点に
道標と「岐阜街道」碑がある。道標は文政12年(1829)のもので、「左なごや道」「右つしま起道」と深く刻まれている。左の名古屋道を進む。名古屋道は岐阜街道と同じでそれぞれ岐阜と名古屋からみた目的地を街道名としている。

北方中島信号交差点の北角に素朴ながら味わい深い馬頭観音が祠に鎮座している。南角には「南無妙法蓮華経」と刻まれた髭題目碑があった。

街道は県道190号に合流するがすぐに左に分かれて名鉄の黒田駅、JR東海道本線の木曽川駅の北側を通過する。このあたり、御鮨街道を挟んで、「往還南」「往還西」「往還東」の地名が残っていて、岐阜―名古屋間の往来が盛んであったことをうかがわせる。

街道はJR踏切を渡った先の二股を右にとって、すぐ信号交差点を右折し、木曽川町黒田を南下する。交通量もすくなく落ち着いた雰囲気の街並みである。

野府川(のぶがわ)を旭橋で渡る。川の手前の道を西に進み、JR東海道本線を越えたところ、黒田小学校の東に「古城」という地名が残る。戦国時代ここに黒田城があり、天文14年(1545)この城で盛豊山内一豊が生まれている。

県道175号を横切るところがきれいな曲尺手をなしている。右折する丁字路の左手に木曽川町道路元標があった。黒田城の東側にもあたり、木曽川町の中心的位置にあったことを推測させる。

すぐ右手の善龍寺明治天皇小休所跡碑がある。明治11年の東海北陸巡幸の際休憩所となった。

左に愛宕神社をみて道なりに南下を続ける。このあたりの地図をながめていると、黒田城の南側を西から「一ノ通り」「二ノ通り」・・と延々と「十二ノ通り」まで地名が残っている。黒田城下の町割りに際して何らかの意味があったのだろう。往還東・西・南の他、律儀な地割名が多く面白い。

四ノ通りと五ノ通りの境界線を歩いている。東海北陸自動車道のガードを潜り、曲尺手風なクランク道を二度経て名鉄石刀(いわと)駅の東方で県道190号と合流する。馬寄信号をこえると右手に尾張六地蔵第一の彼岸縄手地蔵がある。

まもなく右手に「皇大神宮御聖蹟」の標柱が立つ酒見神社がある。856年、当地の良質な米を求めて伊勢内宮より酒造師が派遣され、翌年の神宮大祭に供える清酒をこの地で造ったと伝わる。酒見神社は清酒醸造の元祖である。参道が藩塀で遮られた尾張、伊勢地方に多い様式をもった神社である。奥に皇大神宮遥拝所があった。

酒見神社の先で街道は県道とわかれて左斜めの旧道に入る。すぐに日光川を渡り尾張国一之宮である真清田神社(ますみだじんじゃ)の西側にさしかかる。一宮は真清田神社の門前町として発展した。堂々たる楼門をくぐると、正面からは二重の屋根に見える拝殿がある。斜めからみると、巨大な切り妻破風だった。拝殿・祭文殿・渡殿・本殿を連接した真清田造りである。昔は9000坪もの敷地の周囲に土塀を巡らしていたという。今もその名残が見られ、出店に利用されているようである。

神社正面から本町アーケード商店街がのびている。あいにく定休日とあってほとんどがシャッターを閉めていた。そんなかなに近江屋呉服店があった。無風の商店街に鯉のぼりが元気なくだらりとぶら下がっている。商店街の北には一宮神社、東側に一宮市役所、西側には一宮駅があって、まさに本町商店街は一宮の中心をなしている。

アーケード商店街を抜け、「豊島図書館南」信号を渡った先の三叉路を左に進む。県道190号の手前の十字路の北東角に一宮一里塚跡の石碑がある。後方の空き地は真清田神社御旅所境内である。

街道はこの十字路を右折する。すぐ右手、銭湯「殿町温泉」の脇に隠れるようにして、「真清田神社一の鳥居跡」の石柱があった。

旧街道はすぐに県道190号に合流して南に進み、「牛野通」信号で再び右側の旧道に入って行く。400mほど行った所、県道からきた道と合流する地点に浅間社がある。

旧道はやがて大江用水に分断される。県道の橋を渡って右手の旧道復活地点より旧道歩きを再開する。名神高速道路の手前で二股を左にとり、高速道路のガードをくぐったところ右手に小さな津島神社がある。その先で御鮨街道は一宮市から稲沢市に入る。


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稲葉

旧道は県道190号を斜めに渡って進む。すぐに県道166号に遮られて横断できない。赤池居道信号を迂回して旧道筋にもどる。800mほどいったところで左後ろからくる道と合流する。その分岐点に「御巡幸之跡」碑と赤池一里塚跡の石碑が建っている。

広々とした田園地帯に時折小工場や倉庫が建つ風景の中をやがて下津(おりづ)片町に入ってくる。立派な民家が多い落ち着いた雰囲気の集落である。特に右手に長屋門と黒板塀を構えた大きな屋敷が目立った。 

県道161号を横切る手前右手に祠堂を集めた一角がある。石標には「御嶽神社・地蔵堂・大峰行者堂・弘法大師記念碑」と列記されている。

県道をわたると下津新町である。左手に山神社があり、その先の変則十字路を左折する。

県道155号を横断するとその先鉤型になった丁字路があり、そこを右折して南に進む。丁字路の左手には矢来を設け、板壁の蔵と格子戸が粋な佇まいをみせる屋敷が建っている。旧家か料亭かよくわからないが、魅力的な家である。

南北にまっすぐ延びる街道の左手は東国府、右側は西国府という地名である。尾張国府はここから3kmほど西方、名鉄国府宮駅西側辺りにあった。御鮨街道の両側につけられた国府という地名と尾張国府と何らかの関係がありそうに思える。

続いて東下町、西下町の集落である。格子造りの家、二階に勾欄を設けた民家、長屋門など、街道筋の町屋、旅籠、豪農屋敷を思わせるような家並みが見かけられ趣がある。野村酒造場は二階が黒壁に荒格子、街道沿いに駒寄を付けた旧家とみられる。

街道は下津下町を通り抜け井之口信号で県道62号を斜めに渡る。道なりにJR東海道本線に向かって進み、県道136号との丁字路四ッ家追分に出て美濃路に合流する。

県道を左折してすぐに右折して南に向かって歩き出すと右手に
長光寺があり、道端に、「右ぎふ道 左京都道」と深く彫られた道標がある。文政2年(1819)建立のこの道標は元四ッ家追分にあったものである。交通事故にあって折られてしまったという。本来は「右 ぎふ道并浅井道 左 京都道并大垣道」と刻まれていたらしいが、浅井道、大垣道の刻字はみていない。

長光寺は
六角堂と呼ばれる地蔵堂が有名で、室町時代のもので重要文化財である。

長光寺の南側角地の民家敷地内に浅野長勝邸跡の石碑がある。浅野長勝邸は豊臣秀吉正室ねねの義父であった。

右手路傍に信長菩提寺総見院の立て札がある。元参道だった駐車場の奥に総見院がある。
御鮨街道は稲沢市から清洲市一場に入る。

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清洲


一場集落は落ちついた町並みをみせ、ところどころに古い家が残っている。
街道は三叉路を左折してすぐ御嶽神社のところを右折する。

東名阪自動車道をくぐった先の三叉路を右折して東海道本線、新幹線のガードをくぐると清州宿である。

「清州3」信号の先の十字路右手に清洲宿本陣跡がある。本陣は林惣兵衛家で美濃路最大の建坪312坪を誇っていた。今も正門が残っており明治天皇小休所の碑が立っている。林医院はその末裔であろう。この一角だけが風情をとどめている。

その先の十字路を左折して清州公園に寄る。公園に織田信長の銅像が立つ。桶狭間の戦いへの出陣姿だというが、逆光で表情がよくわからなかった。

堤防をつたって
清洲城を訪ねる。4階の天守閣は下2階が黒基調、上2階は白肌の面白い配色になっている。城の歴史は説明板にまかせよう。清州は名古屋に移るまで尾張の中心であった。


街道にもどり、旧宿場街をぬけると丁字路に出る。正面の清涼寺の鐘は清須宿内に時を告げていた。この丁字路が岐阜街道・美濃路清須宿の中心にあたり、高札場があった札の辻である。沿道の家並みに昔の面影はない。

清須宿は慶長7年(1602)清須城下の伝馬町に設けられたが慶長15年(1610)の清須越しで廃止された。その後元和2年(1616)桑名町に再設されたが寛文8年(1668)の火災で焼失、その後神明町に新たに開設された。天保14年(1843)時点で、清須宿は家屋521軒、人口2545人、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠21軒となっている。


札の辻を左折して
五条橋を渡る。橋の西詰めには五条橋の説明板と「清洲古城址」碑がある。五条橋は清須越しで名古屋堀川にうつされた。擬宝珠のオリジナルは名古屋城にある。

五条橋東詰めに「清須の前田利家とまつ」と題する説明板が建っている。大河ドラマを機に設置されたものだろう。そこを右折してすぐの二股を左にとる。

一二階と駒寄せに繊細な格子を施した見事な町屋建物が目を引いた。目障りなものを一切排してツンとすました美しさだ。

道は県道127号に合流して名鉄の高架をくぐり、「巡礼橋東」信号の先二つ目の丁字路を左に折れて旧道に入る。曲尺手となっており、すぐに清州丸の内郵便局の先で右折する。


通りには古い町屋の建物が残る。伊勢安商店は昔ながらの行灯風屋根付き看板を立て「まげわっぱ」を商っている。曲げ輪っぱとはスギやヒノキなどの薄板を円筒形に曲げて作られる箱のことで伝統工芸品の一つである。格子、二階手摺のほか近江でよくみかけるバッタリもあった。感じのよい店である。

左手、正覚寺の門前に自然石の古い道標がある。「北みのかいとう 南無阿弥陀仏 是より西つしまかい道」と刻まれた道標はこの先の一里塚に建てられていたもので、付近の用水改修工事で川底から出土したものである。また境内には桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元の菩提を弔うため築かれた今川塚がある。元は須ヶ口の民家敷地内にあったが、平成19年11月、ここに移設された。

名鉄津島線の踏切り手前の小さな石橋の右手に須ノ口一里塚跡碑がある。正覚寺にあった道標はここに建っていたものである。

新川橋の手前右手にポケットパークが作られていて、旧新川橋の親柱や、津島街道追分道標、美濃路案内板、新川開削頌徳碑などが集まっている。

新川は庄内川治水対策として開削されたものである。1787年に完成した。

ここから分岐する津島街道は上街道とよばれる旧道で、津島と名古屋を結ぶ道として大いに利用された。

「美濃路の歴史」と題した案内板が建てられている。そこに添えてある地図が大変わかりやすく要を得たもので、一目で美濃路のありようが理解できる。御鮨街道への言及がないのがすこし寂しい。


左手に瑞正寺があり、境内には日本一といわれる宝塔がある。この北に尾張藩の断罪仕置場があり、罪人を弔うため法華信者二人が文化5年(1808)から8年の歳月をかけて建立したという。高さは説明札によれば4.5m、散策マップによれば3.6mとなっている。4.5mは台石を含めたものか。

街道は左にゆるやかにカーブして西枇杷島町に入る。沿道には格子、駒寄せ、梲(うだつ)などを設けた古い町屋が多くみかけられ、旧街道商店街の雰囲気を色濃く残した町並みがつづく。宿場でもない町並みとしては特異な存在といえる。散見される屋根神様が尾張特有の色を添えて一層趣を増しているようである。屋根神様にもその様式にはバリエーションがあって面白い。

左手に
問屋記念館がある。枇杷島橋たもとにある市場モニュメントの碑に記されている枇杷島青物問屋創業者の一人、山田九左衛門家の旧住居を移築したものである。間口は狭く大きな家とはみえないが長い奥行きの中に大座敷を有する商家である。残念ながら休館日に当って中を見学することができなかった。


古風な町並みが延びている。右手にある古民家を利用したみのじの館に入って美濃路散策ルートマップをもらった。JR東海道線の高架と
県道67号との間は
旧青果問屋市場跡である。現地名も街道を挟んで北側が「問屋」、南側が「南問屋」と、そのものである。ほとんどが店を閉じた状態の中で「カネヨシ金物店」が独り問屋街の跡をまもっている風であった。

県道の東側に橋詰神社がある。境内右奥にある土蔵は山車蔵で、中には頼朝車といわれるからくり山車が納められている。

神社から堤防下の道をすこし上流に行った左手に立派な
道標と、その後ろに巨大な大根を担いだ男の石像がある。道標は文政10年(1827)建立で、旧枇杷島橋小橋のたもとに立てられた。西は津島天王、清州宿道、東は東海道名古屋道、北 岩倉道とある。大根を担ぐ男はさきほど跡地を通り抜けた枇杷島青果市場「下小田井の市」のモニュメントである。


この地は慶長年間(1596~1614)、徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。昭和30年に移転するまでの約300年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。(中略)市場での取引は荷主と買主の相対売買が原則であった。買主は素人すなわち直接消費者でもよく、これは他の市場にみられない大きな特色の一つであった。






枇杷島橋で庄内川を渡る。今も見える中洲が当時の中島だろうか、橋はこの島の左右に架けられていた。



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名古屋


橋を渡ってすぐ県道から左におりて堤防下の道を東にすすむ。三叉路の左手に昔の枇杷島橋をかたどったモニュメントがある。当時は中洲を挟んで大小2つの総桧造りの橋がかけられていた。ここに師長伝説が刻まれている。すぐ先の左手にある清音寺に、その内容が記されていた。

治承3年(1179)琵琶の名手である太政大臣藤原師長は、平清盛のため尾張国井戸田(名古屋氏瑞穂区妙音通)に流された。師長は村長横江氏の娘を寵愛したが、翌年平清盛の死により赦されて都に帰るとき、形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。しかし、娘は別れを悲しみ、この近くの池に身を投じたという。これに因んで枇杷島の名がついた。娘の菩提を弔うためこの寺が建立され、娘の法号清音院から寺号を清音寺とした。

モニュメントには入水した娘が琵琶の甲に書き残した歌が刻まれている。現地妻でしかなかった男への痛烈な恨みに聞こえてならない。


   
四つの緒の 調べも絶えて 三瀬川 沈み果てぬと 君につたへよ

古い家並みが残る通りを行く。民家の一階屋根に小さな祠が乗せてある。屋根神様といい、かっては尾張地方に広く見られたものだという。御鮨街道の出発点、岐阜でもすでに見てきたものである。

国道22号を横切り、榎小学校北信号の先に白山神社が現れる。このあたりは名古屋と清須宿の中間にあたり、茶屋が並ぶ立て場であった。かっては傍に川が流れ権現橋という石橋が架けられていた。その欄干が白山神社の垣根の一部として使われているという。神社石垣の上を飾る石欄干がそうだろうか。その柱の一つに札が掛けられ「美濃難の信長」と題した記述があった。

織田信長は1534年、現在の右古屋城二の丸跡にあった那古野城(名古屋城)で生まれたという。21才で淆洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた。美濃、斎藤道三の娘、濃姫を妻として迎えたのも那古野城である。清州城に移ったあと1560年、今川義元を迎え討つため、若き日の豊臣秀吉等を引き達れ桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街道である。 美濃路まちづくり推進協議会

高速道路の手前左手の民家金網に樽屋町の大木戸跡を示す説明札が掛けられている。名古屋城下には南口橘町と東口の飯田街道入口、そしてここ樽屋町に西口大木戸があった。

高速道路をくぐった先の交差点右手角に一里塚跡の立て札がある。電柱や金網にまぎれて注意しないと見落としそうだ江川郵便局を通り過ぎ、財屋本店前の丁字路を右折する。旧道はそのまま国道22号を突き進んで南下するが、ここで国道22号を東にむかい幅下橋を渡って名古屋城を見ていくことにした。

慶長15年(1610)の清須越で家康は織田信長の居城清州城を廃し、名古屋に壮大な城を築き上げた。正門から入り公園を抜けると眼前に優美な天守閣が全貌を現す。加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名が普請を命じられ慶長17年(1612)に完成させた。石垣の石には普請を担った藩や大名の目印として紋が刻まれている。

堀に沿って北側からまわっていくと天守閣の礎石や、なぜかしら島根県松江市の古墳石室がある。東出口付近に清正石とよばれる巨岩が石垣に組み込まれている。二の丸には大岩にのって指揮をとる加藤清正の像がある。各地で巨石の石積みを見るたびにその技術と労力に感嘆するのだが、いつも同時にピラミッドのことを思って納得するのである。

旧道は国道22号を渡った後、幅下小学校と北に隣接する公園の建設の際失われた。公園に突き当たったところで左折し、延命地蔵の先で右折して鉤型に折れ、アネックス富田前の丁字路を右折する。

街道は五条橋の西詰めを通りすぎる。五条橋は清須城下にあったものを慶長15年(1610)の清須越で移築したものである。清須城下町を丸ごと名古屋へ引越した。

旧街道は堀川の西岸にそって南下するが、一筋西側に移ると
四間道(しけみち)と呼ばれる風情漂う道が延びている。元禄13年(1700)の大火後、藩が防火対策として堀川端の問屋街の裏通りを4間に広げ、道路の東側を一段高くさせて石積みの上に土蔵を連ねて建てさせた。西側には町屋が建ち並び独特な景観を作り上げている。

清須越商人、伊藤家の蔵が建ち並ぶ。松坂屋創業者の伊藤家に対し堀川沿いの伊藤家を川伊藤と呼ばれていた。旧街道沿いに重々しい格子窓を設けた伊藤家母屋がある。

四間道に連なる土蔵の一つに「青木家」の説明札がある。天文23年(1554)創業の塩問屋で、清洲越しで名古屋城下に移転してきた。尾張藩の勝手方御用達十人衆といわれた豪商である。


桜橋西信号で県道68号を渡った旧街道はその先を左折して
伝馬橋堀川を渡る。堀川は徳川家康が名古屋城築城のため資材運搬用に開削した運河である。この周辺には材木屋が多かった。

橋の東詰めに
木戸があった。
ここより街道風景は途端に都会オフィス街に変身する。

旧街道は伝馬町通を東に進み、伝馬町本町交差点に出る。
ここが高札場、札の辻である。名古屋宿の中心地で、交差点東南角に高札場、西南角に問屋場が設けられていた。名古屋宿は「宿」と称されていたが、御三家名古屋城下のため本陣や旅籠もない特殊な宿場であった。伝馬番所は最初は渡辺金左衛門が勤め、寛文3年には吉田伊兵衛が受け継ぎ以後吉田家が世襲した。原則として諸大名の宿泊はなく、宮宿と清須宿間を直通させ名古屋宿を通過させた。朝鮮通信使は当時門前町にあった性高院を宿所とし、一般の旅人は玉屋町(現本町通り、伝馬町-錦通間)にあった22軒の旅籠屋を利用した。

若宮大通りを越えたあたりから沿道の景観は庶民的な門前商店街の様相を見せ始める。右手に
大須観音(真言宗宝生院)がある。元亨4年(1324)に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建、元弘3年(1333)に同社の別当寺として真福寺が創建されたのが当寺の始まりである。慶長10年(1605)木曽川の洪水で流失、同17年に徳川家康が現在地に移し復興させた。建物は昭和時代に再建されたものである。朱塗りの高欄が両翼をつなぎ、まるで寝殿造りのような豪壮な造りである。

道路際境内に
芭蕉句碑があった。貞享4年(1687)12月3日、「笈の小文」の旅で名古屋を訪れた芭蕉を書林風月堂当主夕道(せきどう)が雪見の宴に招いた。風月堂は長谷川孫助(夕道)が京都の書肆風月堂で修行したのち、名古屋(現在の丸の内3丁目中日病院)で開業したものである。
  
 
いざさらば雪見にころぶ所まで    芭蕉翁

旧街道にもどる。沿道には古いたたずまいの店舗が数軒みかけられ、旧道の雰囲気を感じ取れる。道路の両側は仏具店に占領された商店街になっている。これほど濃密な仏具店街をみたことがない。

ほどなく旧道は古渡町交差点の手前で国道19号と合流する。この合流点に江戸時代
橘町大木戸が設置されていた。

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国道の西側歩道を歩いていくと金山新橋南交差点の角に
佐屋街道道標がたっている。文政4年(1821)に佐屋街道筋の旅籠仲間が立てたものである。、「東 右 なこや 木曽 海道」 「西 右 宮海道 左 なこや道」「左 さや海道 つしま道」とある。この交差点は北名古屋、南熱田、西佐屋に分かれることから三所の境と呼ばれた。

新尾頭(しんおとう)交差点の少し先の車道縁に「熱田神宮第一神門址」の石碑がある。その右手にある道を入って行くと突き当たりの右手に妙安寺がある。高台にある妙安寺の庭からは伊勢湾が間近に眺められ、名古屋三景の一つとして文人墨客がよく訪れた。いくつかの句碑にまじって亀の甲に乗った芭蕉の句碑がある。

旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、しばらくとどまらせんとせしほどに
  此うみに草鞋すてん笠しぐれ
貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の往路、林桐葉亭に招かれて詠んだ句。桐葉亭はそこから草鞋を投げ捨てられるほど海が近かった。

熱田公園の手前に美しい白壁塀に囲まれた
青大悲寺がある。宝暦6年(1756)この地で生まれた「きの」という女性が開いた如来教の本山である。名古屋弁で語られた説教がそのまま経典となった。通常の寺に見られる大屋根の本堂は見られず、小規模な庵風の建物や小堂、平屋建ての座敷はあたかもご婦人方が茶会を楽しんでいる別荘屋敷の趣である。ここで当世名古屋市長の数倍も純な名古屋弁で説法が行われていたと想像するとおもわず笑みがこぼれるほど愛らしくおかしい。

すぐ先右手に断夫山(だんぷやま)古墳がある。東海地方最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。6世紀はじめ尾張氏の首長の墓と考えられている。尾張氏は日本武尊の新妻宮簀媛命の実家である。熱田神宮に近いこの地に埋葬されたことはうなづける。


熱田神宮西門より入って本殿を参拝する。彫刻をちりばめ朱塗りや極彩色のけばけばしい神殿が多い中で、白木造りの熱田神宮は簡素ながらも荘厳なたたずまいで、神話の宮にふさわしい空気を満たしている。熱田神宮は三種の神器の一つ草薙剣を祀ることからはじまった。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときその体内から1本の剣が出てきた。後に日本武尊はこの剣を授けられて東征に赴いた。駿河の国で野火攻めにあったときこの剣で草をなぎ払って難を遁れて以来草薙剣と呼ばれるようになった。東征を終えた日本武尊は、結婚したばかりの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)にこの剣を預けて、こんどは伊吹山に荒ぶる神を鎮めようと出かけたが、そこで大蛇の妖気にあたって伊勢亀山の能褒野で亡くなった。宮簀媛命は熱田に社地を定め、預かっていた草薙剣を祀った。


表参道を進んでいくと信長塀がある。織田信長が桶狭間出陣の際願文を奏し大勝したのでそのお礼として奉納した塀だという。京都三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大塀の一つといわれている。西宮神社の長大さに比べると長さがすこし物足りない気がした。


東参道を少し入った右手に堅固な築地塀を両翼に従えた清雪門が保存されている。静寂の中でかたくなに閉ざした門は不開門(あかずのもん)とよばれ、朱鳥元年(686)以降不動の姿で佇んでいる。

東参道と表参道が交差する左手の林の中に高さ8mを越す大灯篭がある。佐久間燈籠とよばれ、寛永7年(1630)佐久間勝之が寄進した。京都南禅寺の大灯篭、上野東照宮の「お化け灯籠」とともに日本三大石燈籠といわれている。南禅寺、東照宮ともに高さは6m余りで、熱田神宮の佐久間灯篭は飛びぬけて高い。なお、この三大灯篭はいずれも佐久間勝之の寄進によるものである。佐久間勝之(1568~1634)は信濃国長沼藩初代藩主。寛永7年から8年にかけて3基の大灯篭を日本の東、中央、西の都に一基ずつ寄進した。巨大灯篭マニアとでもいおうか、他地にも佐久間灯篭があるかも知れない。


正門である南門から出る。広重は神宮の祭りで二頭の荒馬を競わせる神事を描いている。熱田神宮では5月5日の神輿渡御神事のあと、荒馬を競わせその年の豊作などを占った。絵では赤地と藍色の半纏グループが競っている。朱の鳥居の内側から門前の茶店を入れた構図である。正門の一の鳥居は簡素な掘立ての白木造りであった。近くにいた守衛に聞いたところ、熱田神宮に朱塗りの鳥居はないとのこと。広重の創作であろうと思われる。門前の通りはただ広い車道である。祭日にはここに出店が並ぶのであろう。

通りを渡った先、左手、蓬莱軒の南隣に林桐葉の住居跡がある。林桐葉(林七左衛門)は熱田の郷士で、貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。また貞享4年11月にも『笈の小文』の旅路にあった芭蕉をもてなし、熱田三歌仙を巻いている。

国道1号を渡って旧道の延長線にもどる。50mも行かないところに東海道との合流・分岐点である三叉路に出た。長良川を出た鮎は鮨となって、ここよりはるばる東海道を江戸まで旅するが、御鮨街道の旅はここで終わることにする。

完(2013年5月)

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加納(岐阜)-笠松一宮稲葉清洲名古屋
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