岐阜町本陣跡・日下部邸跡 米屋町 岐阜市 岐阜県
ここは、江戸時代に岐阜の町を治めていた尾張藩主が岐阜を訪れる「岐阜御成」の際に、藩主の宿舎(本陣)をつとめた賀島勘右衛門(庄蔵)家があったところです。 もともと賀島家は、駿州今川氏浪人から信長に召しだされ、信長没後は阿波蜂須賀氏に仕官した一族ですが、勘右衛門家は、岐阜に残って岐阜町の惣年寄となり、本陣をつとめることから御宿勘右衛門と呼ばれていました。 本陣であったころの賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失してしまいましたが、江戸時代は、間口20間(約36m)、奥行30間(約54m)あり、この米屋町から西筋の中竹屋町まで、つまり、現在でも道路と道路に挟まれている東西一ブロック分の奥行きを有していました。 歴代の尾張藩主は在任中に一度は岐阜を来訪し、鵜飼観覧と御山(金華山)登山を欠かしませんでした。尾張藩主が賀島家に泊まる際は、夜分は篝火を焚き多数の侍が警備し、付近はたいへんな物々しさだったといいます。特に積極的経済政策で将軍吉宗に対抗した尾張藩7代藩主宗春については、御成記として公式記録も残されており、その豪華な様子がうかがわれます。

日下部邸は、かつての尾張藩本陣跡地に建てられた、隣接する和洋二館の建物で、現在は洋館のみが残されています。建主は日下部久太郎、現羽島市の出身で、明治後期から昭和初期にかけて海運業で成功し、岐阜経済界の立志伝中の人物でした。 建設当時、洋館は事務所として使われましたが、和館は本宅であり、広さ約380の当時では珍しい木造総二階建ての建物でした。設計は明治42年ごろ、着工は同44年。すべてが完成したのは大正期になってからでした。 以下略

平成21年4月  岐阜市教育委員会