生前、房枝は自伝の中で八十年の生涯を振り返ったとき、第一にまぶたに思い浮かぶは母の面影であり、暴力に耐える母の姿であったと回想している。房枝の父藤九郎は子供には優しかった一方で、母たつには厳しかったという。母は「女に生まれた のが因果だから」と房枝に語ったといわれる。幼い房枝の頭に『なぜ女は我慢しなければならないのか」という疑問が刻み込まれ、後の婦人運動の原点になったという。一宮市教育委員会 |
春くればうぐいすのまた 梅に来て みのなりはじめ 花のおわり 春がやってきてうぐいすが梅に止まり梅の実が成り始めて花が散って終わる頃に美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の境にある洲俣に来たという意味である。 |
かりの世のゆきゝとみるも はかなしや身をうき舟の浮き橋にして 阿佛尼が有名な旅日記「十六夜日記」の中で詠んだ歌である。 墨俣の渡舟場でまさきの綱にてかけとどめた非常に危ない舟を浮かべた浮橋をわたる心境をはかない浮世の旅路にかけて歌った。 |
鎌倉街道 今からおよそ800年ぐらい前のことです。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉の道路が整備されました。京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ッ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路でありました。(史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る)私たちの郷土を行く鎌倉街道は、東西の伝統・文化が行きかい、人々の生活を支えはぐくんできた歴史の道であり、こころの道であります。 |
待合(町屋) 中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、ある時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名がつけられたといいます。結出身の蓑虫山人(天保7年(1836)東結上村に生まれる)の絵日記の中にも待合とか待合川とかの名が記されています。また、この地には大垣と名古屋とを結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くには渡し場や結神社があり、旅館や店などがならび宿場町をなしていたということから、いつの世からか、待合が町屋と地名が改名されたようです。 |