萩原宿を出た先の変則交差点を右折したところ右手に婦人運動家市川房枝(1893〜1981)の生家跡があった。菅直人はかって市川房枝の選挙スタッフだったことがある。海鼠壁の地さな土蔵が残っており市川姓の表札がうめこまれた門柱が立っている。説明文の最後を載せておく。

生前、房枝は自伝の中で八十年の生涯を振り返ったとき、第一にまぶたに思い浮かぶは母の面影であり、暴力に耐える母の姿であったと回想している。房枝の父藤九郎は子供には優しかった一方で、母たつには厳しかったという。母は「女に生まれた
のが因果だから」と房枝に語ったといわれる。幼い房枝の頭に『なぜ女は我慢しなければならないのか」という疑問が刻み込まれ、後の婦人運動の原点になったという。一宮市教育委員会

家々の表札を注意して歩をすすめると市川姓が非常に多いことに気付く。

信号交差点の先の右側空地に、小さな祠と
「孝子佐吾平遭難遺跡」と書かれた大きな石碑が立っている。明石藩士によって理不尽な無礼打ちにあった孝子を弔うものだ。尾張藩は以後、明石藩が藩領を通行するときは夜間に葬式の装いをしてのみの往来を許した。当時でも正義が通った事例として貴重だ。

道なりに美濃路県道136号を進んでいくと道の両側に
冨田の一里塚が残っている。美濃路で両塚が現存する唯一のものである。左は塚木とともに塚がきれいな姿をなしている。右は塚木が朽ちかけているのか、多くの支柱に支えられて痛々しい。石碑はこちらの方が立派だ。

一里塚の先左手丁字路に
駒塚道標がある。尾張藩の家老石河佐渡守が名古屋へ参勤するために開いた道だそうだ。ここから左に折れて、駒塚の渡しで木曽川を渡り、羽島市の駒塚へ至る。

道向かいに長々とのびる塀は元庄屋の
中嶋家屋敷である。瓦屋根の土塀に黒い腰板が張られ小さな格子の覗き窓が数箇所開けられている。格調高いたたずまいである。塀の先には小ぶりの門と土蔵がつながっていた。

美濃路は木曽川に向って進み起宿に入る。すぐ左手に一宮市尾西歴史民族資料館がある。その別館が
脇本陣林家住宅である。脇本陣林浅右衛門は船庄屋と村庄屋をも兼ね、三ヶ所の渡船場を管理する実力者であった。建物は明治時代に再建されたものだが、潜り戸・駒寄・格子窓など伝統的な町屋建築物である。裏の庭園も素晴らしい。

すぐ右手に
問屋場・本陣跡の石碑と国学者加藤磯足邸跡の碑が並んでいる。問屋と本陣職を兼ねていた加藤家11代当主加藤磯足は本居宣長の高弟であった。

街道から堤防に出る道に
船橋跡碑が建っている。起宿は木曽川の渡船場として栄えた宿場町で、渡船場は、将軍・朝鮮通信使用の船橋河戸、伊勢用の宮河戸と常渡船場の三か所があった。 
 
古い町屋が残る街道筋をすすむと右手に二つ目の渡船場、
宮河戸跡がある。大藩の大名行列などで常渡船場が混雑するような場合の臨時渡船としても使用された。

濃尾大橋のガードをくぐり堤町に出る。重厚な土蔵をもった旧家がみられ風情ある一角をなしている。十字路角の古い建物は旧湊屋文右衛門家の主屋、
丹羽家住宅である。明治24年(1891)の濃尾地震にも耐えた。

十字路を左におれると堤防手前に金刀比羅社があり、脇に起渡船場跡の石柱がある。ここが三つ目の渡し場で、一般の旅人が利用した
定渡船場跡である。ここから対岸の羽島市新井の燈明河戸に渡った。

金刀比羅社の裏側に
人柱観音とよばれる観音石像が立っている。慶長16年(1611)、木曽川本流築堤が難工事であった為、篤信の念仏行者与三兵衛は進んで渦巻く濁流に身をしずめて人柱となり、 ついに堤防堰止めを完成せしめたという。 この菩提をとむらうため人柱与光観世音菩薩が建立された。

濃尾大橋で
木曽川を渡り、愛知県尾張国から岐阜県美濃国に入る。

岐阜羽島側の堤防上に「おこし川渡場」と刻まれた
常夜燈が立っている。明和7年(1770)に竹鼻町伊勢屋の祖先の力士が建立したものと伝わる。柱には彦根藩の儒者、龍公美の漢詩が刻まれている。 

石灯台から堤防中腹の道を500mあまり上流に向って歩いていくと林にぶつかり、東縁の道をそのまま進むと左斜めに下る道につながっている。これが
旧道で、堤防を下りたところに金比羅宮がある。

旧道は小川を岩田橋で渡り突き当りを右折する。角の民家門前に『右いせみち 左おこし舟渡』と刻まれた
道標がある。

街道は北に向って進む。少し行くとY字分岐点に小堂があって脇に道標があった。「右 起道 左 笠松 墨俣道」と読み取れる。別面には「御成婚記念」とあるから新しいものだろう。

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墨俣

県道165号を斜めに渡った先、正木小学校の敷地内に美濃路の説明板と
一里塚跡の石碑が建っている。

正木町小松西交差点手前左手に金毘羅山大権現と刻まれた
及ヶ橋灯籠がある。文政9年(1779)の建立で、元は輪中堤防の松並木にあった。

名鉄竹鼻線の踏切を渡った先の松枝排水路は旧足近川である。昔は水量が多くよく氾濫した為、江戸幕府は南宿村に対し渡し船二艘を与え、水が氾濫したときには渡船により美濃路を維持させた。水路をまたぐ小さな石橋が
及が橋で、先にみた石燈篭はこの辺りにあったものか。なおこの橋より1.6kmほど上流に鎌倉街道が通っていた。

旧道は変則4差路で県道165号と分かれ水谷商店の前を通って南宿集落をぬけていく。このあたりは起宿と墨俣宿のほぼ中間にあたり間宿として小休所が設けられていた。足近分団消防車庫の横に
西方寺道標があり、「親鸞聖人御旧跡 寺田山渋谷院西方寺 従是北六丁」と刻まれている。西方寺は推古天皇時代の創建とされる法相宗の古刹で、鎌倉時代に親鸞がしばらく滞在したとき浄土真宗に改宗したと伝わる。

道標の道向かいに建つ古い門構えの家が
間の宿小休所だった加藤家である。間宿の説明板に「消えた美濃路」についての記載があった。ここから県道1号に出て、坂井集落までの約800mの旧道が土地改良事業で消失した。

県道1号を北に向かい足近町2丁目信号を左折して県道165号に戻る。 
式内阿遅加神社標石と常夜燈が立つ参道入口を通過して二筋目の丁字路を右に入る。やや斜めに集落内に向う道が
美濃路旧道である。坂井集落内の道角に立つ小学校集団登校集合場所の標識の傍で古びた時計が黙々と時を刻んでいた。坂井は江戸時代美濃路立場であった。

道はそのまま境川の堤防に上がる。境川はかっては木曽川の本流であり、美濃国と尾張国の国境を分ける川であった。堤防に上がったところの二股に
西方寺道標がある。南宿にあったと同じもので「親鸞聖人御旧跡 従是東五丁」と刻まれている。ここは鎌倉街道と美濃路の合流点で、鎌倉街道であった堤防道をそのまま東にたどると阿遅加神社や西方寺に至る。

東への寄り道はやめて美濃路を西に向う。東境川橋の南袂、桜の木の下に石仏を祀った祠がうららかに座っている。 

堤防の道は近代になってからの造成道路で昔ながらの集落は堤の下につらなる例が多いなかで、この堤防道は両側を民家に囲まれてれっきとした旧街道の風景を残している。鎌倉街道以来の古道であるには境川の流れが古来から変わっていない必要がある。あるいは川筋と共に堤防上の街道もその道筋を変えていったのか、ともかく家並みと満開の桜並木に彩られた美濃路は車も通らない素晴らしい堤道である。

右手東小熊霊苑に美濃路の案内板があり、この道が旧美濃路であることを示し、その査証としてすぐ先左手に
西小熊の一里塚碑が設けられている。

小熊高桑大橋南交差点で県道165号から153号に移る。秋葉神社を右手に見て境川堤防を進むと二股に指しかかり分かれ目に
朽ちた祠と二基の道標があった。文字は判読しがたい。右の道をとって堤防を下ると境川橋南詰に出る。「小熊の渡し」の説明板が立っている。渡しは、現在の境川橋より50m程下流にあったといわれ、渡し船2艘に船頭7人があたり、大きな大名行列の際には船橋が架けられた。

境川と大江川を一跨ぎして羽島市小熊町から岐阜市茶屋新田に入る。岐阜市はその西南端をかすめるだけで、長良大橋を渡ると大垣市墨俣町である。
墨俣の渡しは橋から200mほど上流にあった。

墨俣橋をわたり堤防を200mほど歩いて墨俣渡し跡の地点に向う。左下は寺町で犀川堤防はかっての河端町である。ちょうど桜祭りの只中であった。当時長良川堤上には茶屋があって賑わっていたという。さしずめ桜祭りで堤の両側を占めている出店が現代版茶屋の風景だろうか。

犀川橋西詰めが札の辻で高札場があった。ここは中町に当る。右手には
美濃路、高札場跡の石碑、左手には墨俣本陣跡の碑がある。本陣は代々沢井家が勤めた。ここから旧道が堤防下の宿場町に延びている。墨俣宿は河端・中町・本町・西町・横町からなっていた。

堤防をさらに北に進んで
墨俣一夜城址を訪ねる。木下藤吉郎が一夜で築いたという墨俣城は木造の砦で、現在の城はふるさと創生資金1億円を使って大垣城を模した天守と金のしゃちほこが創られ墨俣一夜城歴史資料館として公開したものである。

天守入口左手に秀吉の馬印である千成ヒョウタンが飾られている。川沿いに西行と阿佛尼の歌碑があった。

春くればうぐいすのまた 梅に来て みのなりはじめ 花のおわり 

春がやってきてうぐいすが梅に止まり梅の実が成り始めて花が散って終わる頃に美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の境にある洲俣に来たという意味である。
かりの世のゆきゝとみるも はかなしや身をうき舟の浮き橋にして

阿佛尼が有名な旅日記「十六夜日記」の中で詠んだ歌である。 墨俣の渡舟場でまさきの綱にてかけとどめた非常に危ない舟を浮かべた浮橋をわたる心境をはかない浮世の旅路にかけて歌った。

札の辻にもどり本町へと西に向かう。古びた商店街は昭和の雰囲気を漂わせている。
岐阜屋百貨店の隣に墨俣宿脇本陣池田屋がある。脇本陣は代々安藤家が勤めた。現在ある建物は、明治24年(1891)の濃尾大震災で崩壊後に再建されたものである。江戸時代の脇本陣正門は本正寺に移築され山門となっている。

本町の大垣信金の前、津島神社・秋葉神社の鳥居の脇に
「文化財 琉球使節通行記念灯籠」の標柱が建っている。鳥居の右奥に石灯籠があった。寛政3年(1791)正月、琉球使節の一行が通行した際、神社に奉納する石灯籠に刻銘文を願い出て、儀衛正、毛廷柱が執筆したというものである。

突き当たりの電気屋がある交差点を右折して墨俣宿西町にはいる。美濃路は八幡神社を過ぎて犀川の堤防に上がる。途中に「史跡 美濃路」の石柱があった。

堤防に上がると右手河川敷は広い駐車場となっており花見客の車で一杯である。遠くに一夜城が見え見晴らしがよい。この広い土地は長良川の
犀川遊水地となっており、その説明板が立っていた。

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大垣

道なりに堤上の道を歩いていく。右手は新興住宅地だ。大垣市から瑞穂市にはいった先で左に下りていく道をたどると堤下の交差点に美濃路
東結一里塚跡の石碑があった。このあたり瑞穂市から安八郡安八町東結に入る境目で、一里塚の説明板は安八町教育委員会によるものだ。

県道171号を渡った角に「歴史の道 鎌倉街道 美濃路」と書かれた板標識が立っている。車止めが設けてあるのはどうやら歴史の道として整備された結果であろう。犀川支流に沿ったのどかな道をたどる。遠くに光る冠雪の峰は近江の国とにまたがる伊吹山である。右手に「倉稲魂神 米の宮之趾」の石碑、左に白山神社をみて
町屋観音堂に至る。照手姫ゆかりの十一面観音が祀られている。脇に立つ「歴史の道」案内板には、鎌倉街道・町屋の由来についても触れている。

鎌倉街道
今からおよそ800年ぐらい前のことです。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉の道路が整備されました。京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ッ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路でありました。(史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る)私たちの郷土を行く鎌倉街道は、東西の伝統・文化が行きかい、人々の生活を支えはぐくんできた歴史の道であり、こころの道であります。
待合(町屋)
中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、ある時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名がつけられたといいます。結出身の蓑虫山人(天保7年(1836)東結上村に生まれる)の絵日記の中にも待合とか待合川とかの名が記されています。また、この地には大垣と名古屋とを結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くには渡し場や結神社があり、旅館や店などがならび宿場町をなしていたということから、いつの世からか、待合が町屋と地名が改名されたようです。

美濃路は町屋観音堂の先の二股を直進してそのまま揖斐川の佐渡(さわたり)の渡しに出ていた。右におれて近くにある
結神社によっていく。創建は第80代高倉天皇の嘉応年間(1169)と伝えられる古社である。建治3年(1277)、十六夜日記の作家、阿仏尼が京から鎌倉に下る途中この社を訪ね、「守れただ 契りむすぶ神ならば とけぬうらみに われ迷はさで」と詠んでいる。墨俣城でも彼女の歌碑を見たところだ。

佐渡の渡しは川幅50間余(約91m)、渡船2艘、予備として鵜飼船2艘、船頭は10人が配置されていた。将軍や朝鮮通信使の通行時には80艘ほどの臨時の船橋が架けられた。現在はその上流にある新揖斐川橋を渡る。伊吹山が美しい。

橋を渡って堤防を300mほど下流にもどったところに
佐渡常夜灯がある。嘉永7年(1854)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立された。すんなりとした上品な石燈篭である。そこから堤防を下りたところで旧道が復活している。

枡形に折れながら進むと右手に宮脇酒造が堂々とした長屋門を構え、敷地内に樹齢200年という楠がみごとな枝振りを見せている。

道なりに市街地にはいっていく。小野信号交差点で県道50号を横断し今宿地区を通り抜ける。今宿は鎌倉街道の宿駅が置かれたことに由来する。高橋骨折院前で左折すると三塚
町の端正な家並みがつづいている。広い車道に出たあたりで旧道はとぎれ、東中学校の北側に沿って西進し小学校に突き当たって再び車道に出る。

新規川の手前の道路際に、
三塚の一里塚碑があった。側面には「使者場跡」とも刻まれている。東方から大垣城下に入る諸侯を出迎える茶屋屋敷があったところだろうか。説明札は見当たらなかった。

いよいよ伝馬町にはいり街道は一層都市的装いを強めていく。桜並木がその盛りを楽しんでいる。伝馬町西信号から二筋目の変則的交差点が大垣城下への入り口、美濃路
名古屋口御門跡である。大垣宿は戸田氏十万石の城下町で美濃路中最大の宿場であった。また松尾芭蕉「奥の細道」結びの地としても有名である。

美濃路は大垣城下の町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町を縫うように通っていた。名古屋口門から西の総門の京口門まで、10町59間(約1km)の長さだが、城を避けるようにその間に10の曲がりがあったという。ここが最初の曲がりである。

突き当りを右折(2の曲がり)。最初の十字路を左折(3の曲がり)。本町商店街通りである。この交差点あたりが
札の辻であった。交差点の北側に高札場跡の説明札があり、昭和初期ころの高札場の写真が掲示されている。瓦屋根付きの立派なものだ。

本町商店街を南に歩いていくと右手、交差点角に老舗田中屋煎餅総本家があり、その前に美濃路
大垣宿脇本陣跡の標柱が建っている。松井喜右衛門によって創立され、後上田家が勤めるようになった。この脇本陣は本町本陣と呼ばれ、間口12間半、坪数127坪余もある格式高い建物だった。 

県道237号を横切って最初の交差点を右折する(4の曲がり)。交差点の南東角に
本町道標がある。「左江戸道 右京道」とわかり易く刻まれている。北西角(太田屋呉服店壁)に美濃路の標識があり旧道筋であることを確認できる。

すぐさきの交差点を左折(5の曲がり)、二筋目を右折(6の曲がり)する。右角に
問屋場跡の立て札と標柱がたっている。角の建物の前には宿場関係の札、板看板類が雑然と飾られている。個人の趣味だろうか。この通りは竹島町で、問屋や本陣があって繁華な場所だったことが窺われる。

駅前大通り(県道57号)にでる手前右手にある竹島会館が
本陣跡である。明治天皇行在所跡の石碑もある。大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が初めて本陣を創立した。以後、本陣役は玉屋岡田藤兵衛を経て、天保14年(1843)以降は飯沼家が問屋を兼ねて勤めた。明治天皇は、明治11年(1878)10月に宿泊している。

県道57号にでて左折(7の曲がり)する。角にある家は、街路樹で妨げられて良く見えないが、大きく立派な町屋である。一筋目の信号交差点を右折(8の曲がり)する。右手の白壁に卯建が上がった町屋は、創業宝暦5年(1755)の
柿羊羹槌屋(つちや)本店である。瓦屋根の門に守られた屋根看板が歴史の風格を感じさせる。

美濃路は広くなった道をそのまま西にすすみ最初の信号を左折する(9の曲がり)。交差点の反対側には本草学者飯沼慾斉の胸像が建っていた。

ここで
大垣城に寄っていく。大垣城は天文4年(1535)、美濃守護だった土岐氏一族の宮川安定により創建された。関ケ原合戦では西軍石田三成の本拠地となり壮絶な攻防戦がくり広げられた。四層四階総漆喰塗りの優美な天守閣は天正16年(1588)豊臣秀吉の命で完成したものである。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和34年(1959)に再建されたものである。 

街道に戻り美濃路は南に下って京橋に至る。手前左側に大垣城
西総門跡(美濃路 京口御門跡)の石柱が建っている。西総門は大垣城下の京口門で、門の近くには二重の櫓を組み、周りには土塀が巡らされていた。

橋を渡ると船町である。水門川の両岸は桜並木が美しい大垣市最大の観光スポットになっている。貝殻橋の東袂に大きな
船町道標があり、「左江戸道 右京みち」と深く刻まれている。

水門川は江戸時代には大垣城の外濠になっていた。貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館があり、その北側には観光船の船着場になっている。ちょうど舟下り芭蕉祭りの最中で、花見をかねた観光客で賑わっていた。

美濃路は貝殻橋から
水門川の左岸に沿って下る。途中に架かる朱色の住吉橋からながめると、上も下も川の流れと並木の桜が春を謳歌している。

住吉橋の下流左岸に一隻の船が繋がれているのは
船町港跡である。そばに木造の住吉燈台が高い板袴をはいて八頭身の美形を誇っている。船町港は大垣と桑名を結ぶ水門川の川港で、江戸から明治にかけて交通の要衝として栄えた。明治16年には大垣と桑名を結ぶ蒸気船が運航している。水門川から揖斐川を経て伊勢や桑名へ結んでいた。

住吉神社あたりの美濃路左手には往時の船町の賑いを偲ばせる商家の佇まいが残っている。街道はその先の高橋交差点を右折する。これで大垣城下10曲がりの完成である。

水門川に架かる高橋を渡った右手に
奥の細道むすびの地の記念碑がある。芭蕉生誕360記念として2004年に建てられた。松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)、深川を出て8月下旬大垣に到着し長旅を終えた。大垣にしばらく逗留した後9月6日(新暦10月18日)、伊勢神宮遷宮参拝のため大垣を後にした。

伊勢へ旅立つ芭蕉とそれを見送る木因の銅像の奥に、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ谷木因の家に泊まった時に、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられる
道標(複製)と、芭蕉の奥の細道結びの句が彫られた句碑がある。私は芭蕉を追って2003年4月19日に深川を発った。まだ鳴子をこえたところでウロウロしている内に途中を端折って終点に来てしまった。まだ見てはならないものを見てしまった気がしている。

美濃路はここから県道31号を西に向って進む。沿道には漆喰壁・格子造りで虫籠窓、駒寄、卯建を設けた古い町屋が多く残っていて趣きある家並みを見ることができる。
歩を進めるにつれて歩道に「ふたつめはし」、「みつめはし」の石柱が立ち現れる。

船町交番交差点を越えた愛宕神社隣の正覚寺入口に
「史跡 芭蕉木因遺跡」の標柱が建っている。狭い路地を入ると正覚寺本堂前の一角に多くの石碑が集められていて、その中に芭蕉翁追悼碑と芭蕉の俳友木因の碑があった。芭蕉の大垣来遊は4回に及び、そのたびに北村季吟門下の友である木因と親交が深かった。自然石に芭蕉翁と刻まれた追悼碑は、芭蕉没後百日目の追善法要として建立されたものである。

養老鉄道の踏切を渡り、久瀬川4丁目交差点の先で山王用水を渡ったところの路地を左にはいって
杭瀬川の土手下の道を進んでいく。土手の桜と左手の古い民家の家並みが郷愁をそそる。このあたりは昔、杭瀬川の塩田港があったところで、土手下に建ち並ぶ商家風の建物が当時の店並を偲ばせる。

杭瀬川に架かる旧塩田橋を渡ると左手に立派な
常夜燈が建っている。特に銅板葺き(当初は茅葺き)の木造屋根は彫刻が施された豪華なものである。明治13年(1880)に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識と伊勢両宮への献燈として、塩田港の両岸に建立された。塩田港は中山道赤坂宿と東海道桑名宿とを結ぶ川運の中継港として常時20〜30隻の船が停泊し、大変賑やかだったという。 

県道31号を横切る手前左手に蔵・門を配した豪商を思わせる大きな
佐久間家住宅が目を引いた。

道は県道を渡って左に折れて西進する。300mほど歩くと、左手に
久徳一里塚が現存している。塚の形もよく保存されていて塚木の榎も残っている。

この先旧街道は太平洋工業内で消失している。県道に出てしばらく県道を歩き大垣自動車学校の東側、荒川町東信号の路地を右に入ると一筋目で旧道が復活している。そこを左折して200mあまり進むと変則十字路の北西角に石灰岩自然石に谷汲道と刻んだ道標がある。谷汲道とはここから北へ20数キロもはなれた谷汲山華厳寺へ至る道である。桓武天皇の延暦17年(798)創建という岐阜の名刹で秘仏十一面観世音を本尊とし、古来より朝廷、皇室の帰依篤く広く信仰を集めてきた。桜と紅葉の名所としても知られる。

道は大谷川に突き当たり県道に合流、橋を渡ってすぐ右の旧道にもどる。南宮社参道入口に
二基の道標がある。南宮社とは垂井にある神社である。近道という道を少し入ったところに南宮大社元鳥居址の柱が建っていた。垂井宿を経由しない近道があるのだろう。


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垂井


旧美濃路は左右に折れながら北に向かい、国道21号のガードをくぐって左に曲がり、国道に合流したのち綾戸口交差点で右斜めの旧道に戻る。私にとっての故郷の山伊吹山を正面に眺めながら落ち着いた
綾戸集落の中を終点に向って歩を進める。途中に「熊坂長範物見の松200m→」の案内標識を見たが寄らなかった。

まもなく美濃街道で唯一の
松並木が現れる。約1kmにわたって両側にかなりの数の松の木が残っている。

松並木がおわると風景は市街地に変わる。垂井郵便局を通りすぎるとさりげなく美濃路の終点、中山道との
追分が現れた。角に宝永六年(1709)の追分石や解説板があって、それなりの達成感を与えてくれた。そばに建つ蕎麦屋風の美濃路追分庵は休業中か。 

相川橋を渡る。この堤でもさくら祭りで大勢の人が出ていた。川をまたいでコイノボリが翻っている。背景の山並みの後ろに伊吹山が白い嶺を覗かせている。

橋を渡った左手、垂井宿の東見付に大きな宿場案内板が出迎えてくれる。実は45年前にここを歩いていたのだ。その時にこんな案内板なぞなかった。垂井の宿で何をみたのか、垂井の泉だけはおぼえている。古い写真ファイルをみると垂井では2枚のディジタル化した写真が残っていた。
 
郷愁を覚えながら垂井の宿を歩き直す。
垂井には古い町並みが残っている。一々の建物の案内は省略する。街道をすこし奥まったわかり難い場所に
紙屋塚があった。垂井は美濃紙という古紙の故郷であるという。

曲尺手角に今も旅館として営業を続けている
亀丸屋がある。立て札には2階に鉄砲窓が残るとあったが、見つけることはできなかった。

丹波屋の屋号札がかかる松井家住宅も旅籠であった。45年前に撮った写真の1枚がこれであった。比べてみても植木を除いてはあまり変わっていない。

南宮大社の鳥居をくぐって
垂井の泉を再訪する。大ケヤキの根本から湧出している泉であることに変わりはないが、冷水が流れ出る溝にヤカンが漬けられている風景から、高価そうな鯉が池を遊泳している景色に変わっていた。

元禄4年、芭蕉が垂井の本龍寺で詠んだ「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句碑があった。

街道にもどり西に歩を進める。右手の長浜屋も元旅籠で皇女和宮の一行、総数3200名が垂井宿に宿泊したおり、御輿担ぎ23名が泊まったという記録が残っている。

本龍寺第八世住職規外は芭蕉の門人であった。芭蕉は奥の細道を終えた2年後の元禄4年(1691)の10月、この寺の規外を訪ね、冬篭りもして「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを詠んだ。本堂の脇に作り木塚がある。

いよいよ垂井宿の西端まで来た。
西の見付である。安藤広重の絵のプレートが置かれている。現在の家並みも広重絵の茶屋の面影を伝えていた。

 
(2011年4月)
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