史跡墨俣宿高札場跡 墨俣町墨俣  大垣市 岐阜県
美濃路は東海道の宮宿から分かれ、名古屋・清洲・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣の七宿を経て中山道の垂井宿に至る脇街道である。墨俣宿は起宿から2里17町江戸から97里12町の位置にある。大名の定宿として本陣・脇本陣あり、宿立人馬の継立を業務とする問屋や、墨俣渡しの渡船場あり、弦歌が賑やかであったと伝えている。濃州徇行記は江戸時代の墨俣の町柄をよく伝えている。町の長さ7町7間あり。町の名を河端・中町・本町・西町・横町という。町並は大体よき処なり。中町・本町の間旅龍屋多し。本陣は中町にあり。農業の外には宿屋・茶屋・小商いを以て渡世とするよし。茶屋は皆長良川の堤上にありて景色よし。北裏に小百姓屋あり、これを殿町という。又その北犀川堤上にも民戸あり、ここを城の戸という。享和2年(西暦1802年)家数263軒、人□1218人とある。助郷制度に支えられて江戸時代墨俣は宿場町として繁栄しこの地域の経済・文化の中心地となる。