東海道との分岐点である三叉路から美濃路が始まる。国道1号を横切り、熱田神宮の手前、蓬莱軒の南隣に林桐葉の住居跡がある。林桐葉(林七左衛門)は熱田の郷士で、貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。また貞享4年11月にも『笈の小文』の旅路にあった芭蕉をもてなし、熱田三歌仙を巻いている。
正門である南門の鳥居をくぐって神宮の森に入る。広重は神宮の祭りで二頭の荒馬を競わせる神事を描いている。熱田神宮では5月5日の神輿渡御神事のあと、荒馬を競わせその年の豊作などを占った。絵では赤地と藍色の半纏グループが競っている。朱の鳥居の内側から門前の茶店を入れた構図である。正門の一の鳥居は簡素な掘立ての白木造りであった。近くにいた守衛に聞いたところ、熱田神宮に朱塗りの鳥居はないとのこと。広重の創作であろうと思われる。門前の通りはただ広い車道である。祭日にはここに出店が並ぶのであろう。
東参道と交差する右手の林の中に高さ8mを越す大灯篭がある。佐久間燈籠とよばれ、寛永7年(1630)佐久間勝之が寄進した。京都南禅寺の大灯篭、上野東照宮の「お化け灯籠」とともに日本三大石燈籠といわれている。南禅寺、東照宮ともに高さは6m余りで、熱田神宮の佐久間灯篭は飛びぬけて高い。なお、この三大灯篭はいずれも佐久間勝之の寄進によるものである。佐久間勝之(1568~1634)は信濃国長沼藩初代藩主。寛永7年から8年にかけて3基の大灯篭を日本の東、中央、西の都に一基ずつ寄進した。巨大灯篭マニアとでもいおうか、他地にも佐久間灯篭があるかも知れない。
本殿前にやってきた。彫刻をちりばめ朱塗りや極彩色のけばけばしい神殿が多い中で、白木造りの熱田神宮は簡素ながらも荘厳なたたずまいで、神話の宮にふさわしい空気を満たしている。熱田神宮は三種の神器の一つ草薙剣を祀ることからはじまった。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときその体内から1本の剣が出てきた。後に日本武尊はこの剣を授けられて東征に赴いた。駿河の国で野火攻めにあったときこの剣で草をなぎ払って難を遁れて以来草薙剣と呼ばれるようになった。東征を終えた日本武尊は、結婚したばかりの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)にこの剣を預けて、こんどは伊吹山に荒ぶる神を鎮めようと出かけたが、そこで大蛇の妖気にあたって伊勢亀山の能褒野で亡くなった。宮簀媛命は熱田に社地を定め、預かっていた草薙剣を祀った。
熱田神宮を西門から出て、広い国道19号の左側歩道を北上する。左手誓願寺の前に源頼朝出生地がある。源義朝の正室は熱田大神宮藤原李範の娘由良御前で、出産にあたり実家に帰っていた由良御前はこの地にあった藤原李範の別邸で頼朝を生んだ。門の後ろは空き地のようで寺は無くなったかと思ったが右手の奥にあるようだ。
旗屋2丁目歩道橋の手前に熱田神宮第二神門址の碑をみて、すぐ先左手に断夫山(だんぷやま)古墳がある。東海地方最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。6世紀はじめ尾張氏の首長の墓と考えられている。尾張氏は日本武尊の新妻宮簀媛命の実家である。熱田神宮に近いこの地に埋葬されたことはうなづける。
古墳からすぐ先に美しい白壁塀に囲まれた青大悲寺がある。宝暦6年(1756)この地で生まれた「きの」という女性が開いた如来教の本山である。名古屋弁で語られた説教がそのまま経典となった。通常の寺に見られる大屋根の本堂は見られず、小規模な庵風の建物や小堂、平屋建ての座敷はあたかもご婦人方が茶会を楽しんでいる別荘屋敷の趣である。ここで当世名古屋市長の数倍も純な名古屋弁で説法が行われていたと想像するとおもわず笑みがこぼれるほど愛らしくおかしい。
しばらく進んで、新尾頭(しんおとう)交差点の少し手前の車道縁に「熱田神宮第一神門址」の石碑がある。その左手にある道を入って行くと突き当たりの右手に妙安寺がある。高台にある妙安寺の庭からは伊勢湾が間近に眺められ、名古屋三景の一つとして文人墨客がよく訪れた。いくつかの句碑にまじって亀の甲に乗った芭蕉の句碑がある。
南接するビル脇の坂道をおりて右折、住吉橋東詰め北側に住吉神社がある。大坂廻船名古屋荷主が運漕守護のため創建、住吉神社から航海の神を勧請した。鳥居両脇に立つ常夜灯にも大坂船問屋木津屋、淡路屋、名古屋船問屋の柏屋、桒名屋の名が刻まれている。境内には江戸中期の三俳人の句を彫った三吟塚がある。芭蕉以外の句は興味がわかない。
熱田神宮南交差点から国道19号を2.4kmきた金山新橋南交差点の角に佐屋街道道標がたっている。文政4年(1821)に佐屋街道筋の旅籠仲間が立てたものである。「左 さや海道 つしま道」とあるのが佐屋街道・津島道(県道115号)である。ここを北へ向かって直進するのが美濃路で、名古屋・清洲・大垣を経て垂井で中山道に合流する。この交差点は北名古屋、南熱田、西佐屋に分かれることから三所の境と呼ばれた。
織田信長は1534年、現在の右古屋城二の丸跡にあった那古野城(名古屋城)で生まれたという。21才で淆洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた。美濃、斎藤道三の娘、濃姫を妻として迎えたのも那古野城である。清州城に移ったあと1560年、今川義元を迎え討つため、若き日の豊臣秀吉等を引き達れ桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街道である。 美濃路まちづくり推進協議会 |
この地は慶長年間(1596~1614)、徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。昭和30年に移転するまでの約300年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。(中略)市場での取引は荷主と買主の相対売買が原則であった。買主は素人すなわち直接消費者でもよく、これは他の市場にみられない大きな特色の一つであった。 |
稲葉宿は、家数336軒、人口1572人、旅籠屋8軒、本陣・脇本陣各1軒、問屋場3箇所がありました。(天保14年(1843年))。本陣である小沢村の原所次右衛門の家は、門構・玄関付で建坪133坪(約439㎡)、脇本陣である稲葉村東町の吉田又吉の家は門構・玄関付で建坪70坪(約231㎡)でした。稲葉村西町の西問屋場は原氏と伊東氏が交代で勤め、稲葉村東町の中問屋場を伊東氏、小沢村の東問屋場を原氏があずかり、1問屋場2日交代で勤めたといいます。宿場の長さは、8町21間(約911m)でした。 |