美濃路は江戸時代、東海道宮の宿から名古屋・清須・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣を経て中山道垂井の宿に至る街道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため美濃路と呼ばれた。平安時代、都から東国への道は、東山道と東海道があり、この二道を美濃~尾張で繋ぐ道が美濃路の原型となった。鎌倉時代には、京と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還(鎌倉街道ともいう)が最も重要な街道となった。江戸時代の美濃路は織田信長・信雄の頃から整備されたもので、関ケ原の戦いの後、京・大坂と江戸を結ぶ重要な官道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。美濃路は桶狭間の戦いで信長、小田原征伐で秀吉、関ケ原の戦いで家康の凱旋道となり、吉例街道と呼ぱれた。

以上は清洲、新川橋西詰めのポケットパークに設けられた美濃路案内板からの抜粋である。わかりやすい地図もあってすばらしい。
 




東海道との分岐点である三叉路から美濃路が始まる。国道1号を横切り、熱田神宮の手前、蓬莱軒の南隣に林桐葉の住居跡がある。林桐葉(林七左衛門)は熱田の郷士で、貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。また貞享4年11月にも『笈の小文』の旅路にあった芭蕉をもてなし、熱田三歌仙を巻いている。

正門である南門の鳥居をくぐって神宮の森に入る。広重は神宮の祭りで二頭の荒馬を競わせる神事を描いている。熱田神宮では5月5日の神輿渡御神事のあと、荒馬を競わせその年の豊作などを占った。絵では赤地と藍色の半纏グループが競っている。朱の鳥居の内側から門前の茶店を入れた構図である。正門の一の鳥居は簡素な掘立ての白木造りであった。近くにいた守衛に聞いたところ、熱田神宮に朱塗りの鳥居はないとのこと。広重の創作であろうと思われる。門前の通りはただ広い車道である。祭日にはここに出店が並ぶのであろう。

東参道と交差する右手の林の中に高さ8mを越す大灯篭がある。佐久間燈籠とよばれ、寛永7年(1630)佐久間勝之が寄進した。京都南禅寺の大灯篭、上野東照宮の「お化け灯籠」とともに日本三大石燈籠といわれている。南禅寺、東照宮ともに高さは6m余りで、熱田神宮の佐久間灯篭は飛びぬけて高い。なお、この三大灯篭はいずれも佐久間勝之の寄進によるものである。佐久間勝之(1568~1634)は信濃国長沼藩初代藩主。寛永7年から8年にかけて3基の大灯篭を日本の東、中央、西の都に一基ずつ寄進した。巨大灯篭マニアとでもいおうか、他地にも佐久間灯篭があるかも知れない。


東参道を少し入った右手に堅固な築地塀を両翼に従えた清雪門が保存されている。静寂の中でかたくなに閉ざした門は不開門(あかずのもん)とよばれ、朱鳥元年(686)以降不動の姿で佇んでいる。

表参道にもどり本宮近くまで進んでいくと左手に信長塀がある。織田信長が桶狭間出陣の際願文を奏し大勝したのでそのお礼として奉納した塀だという。京都三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大塀の一つといわれている。西宮神社の長大さに比べると長さがすこし物足りない気がした。

 

本殿前にやってきた。彫刻をちりばめ朱塗りや極彩色のけばけばしい神殿が多い中で、白木造りの熱田神宮は簡素ながらも荘厳なたたずまいで、神話の宮にふさわしい空気を満たしている。熱田神宮は三種の神器の一つ草薙剣を祀ることからはじまった。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときその体内から1本の剣が出てきた。後に日本武尊はこの剣を授けられて東征に赴いた。駿河の国で野火攻めにあったときこの剣で草をなぎ払って難を遁れて以来草薙剣と呼ばれるようになった。東征を終えた日本武尊は、結婚したばかりの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)にこの剣を預けて、こんどは伊吹山に荒ぶる神を鎮めようと出かけたが、そこで大蛇の妖気にあたって伊勢亀山の能褒野で亡くなった。宮簀媛命は熱田に社地を定め、預かっていた草薙剣を祀った。


熱田神宮を西門から出て、広い国道19号の左側歩道を北上する。左手誓願寺の前に源頼朝出生地がある。源義朝の正室は熱田大神宮藤原李範の娘由良御前で、出産にあたり実家に帰っていた由良御前はこの地にあった藤原李範の別邸で頼朝を生んだ。門の後ろは空き地のようで寺は無くなったかと思ったが右手の奥にあるようだ。

 

旗屋2丁目歩道橋の手前に熱田神宮第二神門址の碑をみて、すぐ先左手に断夫山(だんぷやま)古墳がある。東海地方最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。6世紀はじめ尾張氏の首長の墓と考えられている。尾張氏は日本武尊の新妻宮簀媛命の実家である。熱田神宮に近いこの地に埋葬されたことはうなづける。

 

古墳からすぐ先に美しい白壁塀に囲まれた青大悲寺がある。宝暦6年(1756)この地で生まれた「きの」という女性が開いた如来教の本山である。名古屋弁で語られた説教がそのまま経典となった。通常の寺に見られる大屋根の本堂は見られず、小規模な庵風の建物や小堂、平屋建ての座敷はあたかもご婦人方が茶会を楽しんでいる別荘屋敷の趣である。ここで当世名古屋市長の数倍も純な名古屋弁で説法が行われていたと想像するとおもわず笑みがこぼれるほど愛らしくおかしい。

 

しばらく進んで、新尾頭(しんおとう)交差点の少し手前の車道縁に「熱田神宮第一神門址」の石碑がある。その左手にある道を入って行くと突き当たりの右手に妙安寺がある。高台にある妙安寺の庭からは伊勢湾が間近に眺められ、名古屋三景の一つとして文人墨客がよく訪れた。いくつかの句碑にまじって亀の甲に乗った芭蕉の句碑がある。

旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、しばらくとどまらせんとせしほどに
  此うみに草鞋すてん笠しぐれ
貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の往路、林桐葉亭に招かれて詠んだ句。桐葉亭はそこから草鞋を投げ捨てられるほど海が近かった。

 

南接するビル脇の坂道をおりて右折、住吉橋東詰め北側に住吉神社がある。大坂廻船名古屋荷主が運漕守護のため創建、住吉神社から航海の神を勧請した。鳥居両脇に立つ常夜灯にも大坂船問屋木津屋、淡路屋、名古屋船問屋の柏屋、桒名屋の名が刻まれている。境内には江戸中期の三俳人の句を彫った三吟塚がある。芭蕉以外の句は興味がわかない。

 

熱田神宮南交差点から国道19号を2.4kmきた金山新橋南交差点の角に佐屋街道道標がたっている。文政4年(1821)に佐屋街道筋の旅籠仲間が立てたものである。「左 さや海道 つしま道」とあるのが佐屋街道・津島道(県道115号)である。ここを北へ向かって直進するのが美濃路で、名古屋・清洲・大垣を経て垂井で中山道に合流する。この交差点は北名古屋、南熱田、西佐屋に分かれることから三所の境と呼ばれた。


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名古屋

美濃路の旧道は国道19号の古渡町交差点の先で右斜めに分かれて門前町通に入る。この分岐点に江戸時代
橘町大木戸が設置されていた。

最初の十字路を右折して
東本願寺名古屋別院(東別院)を訪ねる。大きな常夜燈を両脇に配し堂々と建つ本堂は元禄15年(1702年)に創建された。濃尾一向宗の中心的寺院として尾張藩領内526か寺を支配した。現在の建物は昭和20年の空襲で焼失後再建されたものである。

境内の西南端に
古渡城址の碑が立つ。古渡城は織田信長の父信秀が天文3年(1534)築いた居城で織田信長はここで元服したと伝わる。信秀の死後に廃城となり跡地は元禄3年(1690)尾張2代藩主光友から東別院に寄進された。

東別院の北側には江戸時代千本松原と称された処刑場があった。寛文4年(1664)隠れ切支丹宗徒二百余名が処刑されたところである。その翌年、尾張二代藩主光友は刑場を他の地に移し、その跡に菩提を弔うため清涼庵を建立、後に栄国寺と改められた。境内の一角にはやや趣の異なる墓石からなる
切支丹塚がある。また寺には切支丹遺跡資料館が設置されている。

旧道にもどる。沿道には古いたたずまいの店舗が数軒みかけられ、旧道の雰囲気を感じ取れる。すすむにつれて道路の両側は仏具店に占領された商店街になっている。これほど濃密な仏具店街をみたことがない。

大須(おおす)交差点をこえると賑やかな門前町風情の中に
大須観音(真言宗宝生院)がある。元亨4年(1324)に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建、元弘3年(1333)に同社の別当寺として真福寺が創建されたのが当寺の始まりである。慶長10年(1605)木曽川の洪水で流失、同17年に徳川家康が現在地に移し復興させた。建物は昭和時代に再建されたものである。朱塗りの高欄が両翼をつなぎ、まるで寝殿造りのような豪壮な造りである。

道路際境内に
芭蕉句碑があった。貞享4年(1687)12月3日、「笈の小文」の旅で名古屋を訪れた芭蕉を書林風月堂当主夕道(せきどう)が雪見の宴に招いた。風月堂は長谷川孫助(夕道)が京都の書肆風月堂で修行したのち、名古屋(現在の丸の内3丁目中日病院)で開業したものである。
  
 
いざさらば雪見にころぶ所まで    芭蕉翁

若宮大通りを越えると沿道の景観は庶民的な門前商店街から近代的なオフィス街に一転する。広小路を越え、伝馬町通(桜通りの一筋南)との交差点が
名古屋宿札の辻跡である。名古屋宿の中心地で、交差点東南角に高札場、西南角に問屋場が設けられていた。名古屋宿は「宿」と称されていたが、御三家名古屋城下のため本陣や旅籠もない特殊な宿場であった。伝馬番所は最初は渡辺金左衛門が勤め、寛文3年には吉田伊兵衛が受け継ぎ以後吉田家が世襲した。原則として諸大名の宿泊はなく、宮宿と清須宿間を直通させ名古屋宿を通過させた。朝鮮通信使は当時門前町にあった性高院を宿所とし、一般の旅人は玉屋町(現本町通り、伝馬町-錦通間)にあった22軒の旅籠屋を利用した。

美濃路は札の辻を左におれて伝馬町通を西にむかう。日銀前で国道19号伏見通を越え
堀川にかかる伝馬橋に出る。高圧的な高層ビルがやや影を潜め街道の趣がかすかに復活してくる。堀川は徳川家康が名古屋城築城のため資材運搬用に開削した運河である。この周辺には材木屋が多かった。橋の東詰めに木戸があった。

伝馬橋を渡って右に折れ、堀川の西岸にそって北上する。桜通りを横ぎって次ぎの十字路を左折すると、一筋西側に浅間神社前から
四間道(しけみち)と呼ばれる風情漂う道が延びている。元禄13年(1700)の大火後、藩が防火対策として堀川端の問屋街の裏通りを4間に広げ、道路の東側を一段高くさせて石積みの上に土蔵を連ねて建てさせた。西側には町屋が建ち並び独特な景観を作り上げている。

土蔵の一つに「青木家」の説明札がある。天文23年(1554)創業の塩問屋で、清洲越しで名古屋城下に移転してきた。尾張藩の勝手方御用達十人衆といわれた豪商である。

その続きに同じく清須越商人、
伊藤家の蔵が建ち並ぶ。松坂屋創業者の伊藤家に対し堀川沿いの伊藤家を川伊藤と呼ばれていた。美濃路沿いに重々しい格子窓を設けた伊藤家母屋がある。

街道は
五条橋の西詰めを通りすぎる。五条橋は清須城下にあったものを慶長15年(1610)の清須越で移築したものである。清須城下町を丸ごと名古屋へ引越したとはいえ、橋まで持ってくるとは。

外堀通りをわたった後、幅下1丁目の旧道筋は小学校と北に隣接する公園の建設で失われている。左手サンゲツ本社の南側の道に入って幅下公園に突き当たり、公園の北縁沿いに進むと、最初の丁字路で旧道が復活している。国道22号を歩道橋で渡って旧道の延長線にもどる。

ここで国道22号を東にむかい幅下橋を渡って
名古屋城を見ていく。慶長15年(1610)の清須越で家康は織田信長の居城清州城を廃し、名古屋に壮大な城を築き上げた。正門から入り公園を抜けると眼前に優美な天守閣が全貌を現す。加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名が普請を命じられ慶長17年(1612)に完成させた。石垣の石には普請を担った藩や大名の目印としてが刻まれている。

堀に沿って北側からまわっていくと天守閣の礎石や、なぜかしら島根県松江市の古墳石室がある。本丸では御殿の復元工事が進行中で、立ち入り禁止区域があちこちにあった。

東出口付近に
清正石とよばれる巨岩が石垣に組み込まれている。二の丸には大岩にのって指揮をとる加藤清正の像がある。各地で巨石の石積みを見るたびにその技術と労力に感嘆するのだが、いつも同時にピラミッドのことを思って納得するのである。

国道22号にもどり黒板塀に見越しの松を配した粋な長登屋とマグドナルドに挟まれた旧道を北に入っていく。突き当りを左折、江川郵便局の先の交差点角に
一里塚跡の立て札がある。電柱や金網にまぎれて注意しないと見落としそうだ。

高速道路ガード下を通り抜けるとすぐ右手の民家金網に樽屋町の
大木戸跡を示す説明札が掛けられている。名古屋城下には南口橘町と東口の飯田街道入口、そしてここ樽屋町に西口大木戸があった。

押切北信号をわたると右手に満開の桜をうけて
白山神社が現れる。このあたりは名古屋と清須宿の中間にあたり、茶屋が並ぶ立て場であった。かっては傍に川が流れ権現橋という石橋が架けられていた。その欄干が白山神社の垣根の一部として使われているという。神社石垣の上を飾る石欄干がそうだろうか。その柱の一つに札が掛けられ「美濃難の信長」と題した記述があった。

織田信長は1534年、現在の右古屋城二の丸跡にあった那古野城(名古屋城)で生まれたという。21才で淆洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた。美濃、斎藤道三の娘、濃姫を妻として迎えたのも那古野城である。清州城に移ったあと1560年、今川義元を迎え討つため、若き日の豊臣秀吉等を引き達れ桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街道である。 
美濃路まちづくり推進協議会

国道22号を横断して古い家並みが残る通りを行く。民家の一階屋根に小さな祠が乗せてある。
屋根神様といい、かっては尾張地方に広く見られたものだという。これからも美濃路で度々見かけることになる。

その先右手に
清音寺がある。治承3年(1179)琵琶の名手である時の太政大臣藤原師長は、平清盛のため尾張国井戸田(名古屋氏瑞穂区妙音通)に流された。師長は村長横江氏の娘を寵愛したが、翌年平清盛の死により赦されて都に帰るとき、形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。しかし、娘は別れを悲しみ、この近くの池に身を投じたという。これに因んで枇杷島の名がついた。

庄内川の堤防下に昔の枇杷島橋をかたどった
モニュメントがある。当時は中洲を挟んで大小2つの総桧造りの橋がかけられていた。ここにも師長伝説が刻まれている。入水した娘が琵琶の甲に書き残した歌が胸を打つ。現地妻でしかなかった男への痛烈な恨みに聞こえてならない。

   四つの緒の 調べも絶えて 三瀬川 沈み果てぬと 君につたへよ

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清洲

枇杷島橋で
庄内川を渡る。今も見える中洲が当時の中島だろうか、橋はこの島の左右に架けられていた。橋をわたり堤防下の交差点角に橋詰神社がある。境内右奥にある土蔵は山車蔵で、中には頼朝車といわれるからくり山車が納められている。

神社から堤防下の道をすこし上流に行った左手に立派な
道標とその後ろに巨大な大根を担いだ男の石像がある。道標は文政10年(1827)建立で、旧枇杷島橋小橋のたもとに立てられた。西は津島天王、清州宿道、東は東海道名古屋道、北 岩倉道とある。

大根を担ぐ男はここより西方に開けた枇杷島青果市場「下小田井の市」のモニュメントである。
この地は慶長年間(1596~1614)、徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。昭和30年に移転するまでの約300年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。(中略)市場での取引は荷主と買主の相対売買が原則であった。買主は素人すなわち直接消費者でもよく、これは他の市場にみられない大きな特色の一つであった。

ここから美濃路はその旧青果問屋街を通り抜けていく。

県道67号の西側が西枇杷島町でJR東海道線路との区間が
旧問屋市場跡である。現地名も美濃路を挟んで北側が「問屋」、南側が「南問屋」と、そのものである。ほとんどが店を閉じた状態の中で「カネヨシ金物店」が独り問屋街の跡をまもっている風であった。

高架をくぐりぬけると古風な町並みが延びている。左手にある古民家を利用した
みのじの館に入って美濃路散策ルートマップをもらった。一宮市尾西歴史民族資料館による4部作で宮宿から垂井宿まで美濃路全ルートをカバーした優れものである。

少し先の右手に
問屋記念館がある。枇杷島橋たもとにある市場モニュメントの碑に記されていた枇杷島青物問屋創業者の一人、山田九左衛門家の旧住居を移築したものである。間口は狭く大きな家とはみえないが長い奥行きの中に大座敷を有する商家である。残念ながら休館日に当って中を見学することができなかった。

美濃路の沿道には格子、駒寄せ、梲(うだつ)などを設けた古い町屋が多くみかけられ、旧街道商店街の雰囲気を色濃く残した町並みがつづく。宿場でもない町並みとしては特異な存在といえる。散見される
屋根神様が尾張特有の色を添えて一層趣を増しているようである。屋根神様にもその様式にはバリエーションがあって面白い。

街道が西枇杷島町から土器野地区に入り右にゆるやかにカーブした先右手に
瑞正寺があり、境内には日本一といわれる宝塔がある。この北に尾張藩の断罪仕置場があり、罪人を弔うため法華信者二人が文化5年(1808)から8年の歳月をかけて建立したという。高さは説明札によれば4.5m、散策マップによれば3.6mとなっている。4.5mは台石を含めたものか。

新川橋を渡る。すぐ北を名鉄電車が頻繁に行き交う。電車の長さはほぼ鉄橋の長さに等しい。橋を渡った左手土手脇にポケットパークが作られていて、旧新川橋の親柱や、津島街道追分道標、美濃路案内板、新川開削頌徳碑などが集まっている。

新川は庄内川治水対策として開削されたものである。1787年に完成した。

ここから分岐する津島街道は上街道とよばれる旧道で、津島と名古屋を結ぶ道として大いに利用された。

「美濃路の歴史」と題した案内板が建てられている。そこに添えてある地図が大変わかりやすく要を得たもので、一目で美濃路のありようが理解できる。本旅行記の冒頭に引用させてもらった。

名鉄津島線の踏切りをこえた先の小さな石橋の北側左手に
須ノ口一里塚跡碑がある。

石橋の架かる用水の改修工事中に川底から古い
自然石道標が出土した。「北美濃街道 西津島街道」を示している。一里塚に建てられていたものであろう。道標は正覚寺門前にある。

その正覚寺境内には桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元の菩提を弔うため築かれた今川塚がある。元は須ヶ口の民家敷地内にあったが、平成19年11月、ここに移設された。

通りには
古い町屋の建物が残る。伊勢安商店は昔ながらの行灯風屋根付き看板を立て「まげわっぱ」を商っている。曲げ輪っぱとはスギやヒノキなどの薄板を円筒形に曲げて作られる箱のことで伝統工芸品の一つである。格子、二階手摺のほか近江でよくみかけるバッタリもあった。感じのよい店である。

道は清州丸の内局の前で曲尺手状に左におれて県道127号に合流して右折する。名鉄の高架をくぐった先で県道と分かれて直進する。
一二階と駒寄せに繊細な格子を施した見事な町屋建物が目を引いた。目障りなものを一切排してツンとすました美しさだ。

長者橋を通り過ごし五条橋で
五条川を渡る。東詰めに「清須の前田利家とまつ」と題する説明板が建っている。大河ドラマを機に設置されたものだろう。

西詰めには五条橋の説明板と「清洲古城址」碑がある。五条橋は清須越しで名古屋堀川にうつされた。擬宝珠のオリジナルは名古屋城にある。

堤防は桜が満開で川をまたいでコイノボリが翻っている。いい季節になった。

橋を渡ると道は丁字路にさしかかる。左にある清涼寺の鐘は清須宿内に時を告げていた。この丁字路が美濃路清須宿の中心にあたり、高札場があった
札の辻である。清須宿は慶長7年(1602)清須城下の伝馬町に設けられたが慶長15年(1610)の清須越しで廃止された。その後元和2年(1616)桑名町に再設されたが寛文8年(1668)の火災で焼失、その後神明町に新たに開設された。天保14年(1843)時点で、清須宿は家屋521軒、人口2545人、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠21軒となっている。

札の辻を右折すると、
清洲宿の本陣跡がある。本陣は林惣兵衛家で美濃路最大の建坪312坪を誇っていた。今も正門が残っており明治天皇小休所の碑が立っている。林医院はその末裔であろう。この一角だけが風情をとどめている。

その先の十字路を右折して
清州公園に寄る。満開の桜の下で若い善男善女が数グループに分かれて花見の最中であった。遠い昔の我が身を見ているようで私にとっての原風景である。公園に織田信長の銅像が立つ。桶狭間の戦いへの出陣姿だというが、逆光で表情がよくわからなかった。

堤防をつたって
清洲城を訪ねる。4階の天守閣は下2階が黒基調、上2階は白肌の面白い配色になっている。城の歴史は説明板にまかせよう。清州は名古屋に移るまで尾張の中心であった。

ところで、今まで気になっていながら適当にすませていた「きよす」の表記だが、歴史的には「清須」が古く「清洲」は新しいということのようだ。古くから両方が使われていて、絶対的な基準はないらしい。現在の市名は清須であるが地区名は清洲となっている。城の名も名古屋への引越しも、資料によって清須城・清洲城、清須越・清洲越と、まちまちである。結論として気にしないことにした。

街道にもどる。
東海道本線、新幹線のガードをくぐった直後の三叉路を左にとり、東名阪自動車道をくぐった先でそのまま県道127号に乗って変則十字路を右斜めに進んでいく。

御嶽神社のところで左折し、すぐの二股で県道と分かれて右折していく。
一場集落は落ちついた町並みをみせ、ところどころに古い家が残っている。

美濃路は清洲市一場から稲沢市北市場町屋敷に入る。

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稲葉


左手路傍に信長菩提寺総見院の立て札がある。元参道だった駐車場の奥に総見院がある。

北市場美濃路公園前を通り過ぎてまもなく、長光寺の前に
「右ぎふ道 左京都道」と深く彫られた道標がある。文政2年(1819)建立のこの道標は美濃路と岐阜街道との分岐点である四ッ家追分にあったもの。交通事故にあって折られてしまったという。本来は「右 ぎふ道并浅井道 左 京都道并大垣道」と刻まれていたらしいが、浅井道、大垣道の刻字はみていない。

長光寺は六角堂と呼ばれる地蔵堂が有名で、室町時代のもので重要文化財である。

長光寺の南側角地の民家敷地内に浅野長勝邸跡の石碑がある。浅野長勝邸は豊臣秀吉正室ねねの義父であった。

街道は県道136号につきあたり左折する。すぐの丁字路が
四ッ家追分で、ここから岐阜街道が右に分岐していく。分岐点に昭和44年の石碑が立てられている。ここにあった古い道標は長光寺門前に移された。岐阜街道はここから一宮を経て岐阜に至る、6里半(約26km)の街道である。長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上するため岐阜街道を通ったことから別名「御鮨街道」、「鮎鮨街道」とも呼ばれる。同様な街道が近江にもあり、若狭小浜でとれた鯖を一塩して京へ運んだ道を鯖街道と呼んでいる。御鮨街道は岐阜から江戸までだからスケールが大きい。一塩では無理でなれ鮨にした。

美濃路は追分を直進しJR東海道本線の
大垣街道踏切を渡りまっすぐ西進する。井之口団地前の二股信号で県道136号標識に従って右に曲がっていく。福田川を渡った先の二股で県道と分かれて右に入ると左手に美濃路案内板が設けられていて稲葉宿の説明があった。稲葉宿の最初は稲葉村単独であったが寛永年間に小沢村が加わった。稲沢の地名は明治になって両村が合併した結果である。

稲葉宿は、家数336軒、人口1572人、旅籠屋8軒、本陣・脇本陣各1軒、問屋場3箇所がありました。(天保14年(1843年))。本陣である小沢村の原所次右衛門の家は、門構・玄関付で建坪133坪(約439㎡)、脇本陣である稲葉村東町の吉田又吉の家は門構・玄関付で建坪70坪(約231㎡)でした。稲葉村西町の西問屋場は原氏と伊東氏が交代で勤め、稲葉村東町の中問屋場を伊東氏、小沢村の東問屋場を原氏があずかり、1問屋場2日交代で勤めたといいます。宿場の長さは、8町21間(約911m)でした。

そこから一筋東の細道沿いに
長束(なずか)正家邸跡碑が他の石碑と並んである。長束正家は豊臣秀吉5奉行の一人として活躍した。

旧街道筋にもどり次ぎの十字路を左折して県道136号に合流する。手前左手に美濃路標識があって、矢印で県道を右折するように示している。

稲沢団地横を通り過ぎ県道は大きな信号交差点を左折していく。名鉄名古屋本線の踏切手前に国府宮一ノ鳥居が建つ。

高御堂保育園前の二股で県道は右斜めに折れていく。ここにも美濃路案内標識があって道を間違うことはない。大江川を渡り六差路を直進、県道65号を斜めに横切り、道幅が細くなる手前の丁字路右手の民家庭先に、小さな
稲葉一里塚跡の木標がある。

小沢西交差点を越えて丁字路にぶつかる。交差点からすこし右手の農林水産事務所敷地生垣内に
本陣跡の石碑があった。石碑は交差点からは見えない。原所次右衛門の邸宅跡で、建坪133坪あったという。事務所入口左側には稲沢町道路元標がある。

丁字路を左折し旧稲葉宿の中心地に入っていく。出格子、駒寄、虫籠窓など古い町屋が残っていて、風情ある街並みである。そのうちの一軒が
稲葉宿東町中問屋場址、伊東氏住宅である。ロータリークラブによる立派な石碑が駒寄内に建っている。

道が右にカーブする左手丁字路脇に円柱の道標があり、「右つしま道三里」と刻まれている。今までも美濃路から分岐して津島に通じる道があった。津島の人気がうかがえる。

街道は稲葉宿を後にして幼稚園がある稲葉口交差点を右折、浅井会計事務所の前で左折して県道14号に出る。旧道はここで一旦途絶し、稲沢市上下水道庁舎前から再び県道136号となって復活している。稲沢市から一宮市に入り、道なりに突き当たりを左折する。

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萩原

長屋門の民家をみながら中嶋宮一の鳥居前を通りすぎ、光堂川を渡る。文化元年(1804)銘の髭題目碑が立つ静かなたたずまいの高木集落の中を歩いていくと橋から400mほどいったところに高木一里塚跡がある。右手すこし奥まって立派な石碑が建ち、左手にも一里塚跡を示す表示があった。そばに聳える大木はあたかも塚木のようである。

高木神社の先で右にカーブした道はそのさきの十字路交差点で県道136号と分かれて直進、串作郷集落を左折、右折して県道513号に出る。県道を西に向かい串作信号で国道155号を横断、名鉄尾西線踏み切りを渡ると萩原商店街のアーチが出迎える。踏切りを渡った直後の左手長屋の一軒に舟木一夫生家跡と記された標識がドアの前に立てられていた。郷土史研究会によるものだが、プライバシーとの関係で微妙な感じがしないでもない。

萩原宿は美濃路の中で一番小さな宿場で、天保14年の萩原宿は家数236軒、人口1002人、旅籠屋17軒、本陣・脇本陣各1軒、問屋場2ヶ所で鵜飼家と木全家が勤めた。本陣は森権左衛門、脇本陣は庄屋の森半兵衛となっていた。

格子造りの古い家にまじって石造りの洋風建物がレトロは雰囲気を醸している。郵便局か銀行だったのだろう。
 
萩原商店街の西端、正瑞寺の前で街道(県道136号)は直角にまがり、萩原中町に移る。この場所に高札場があった。曲がった左手に連子格子、虫籠窓造りの町屋風建物が目に付く。

左手に小さなお堂が二つ建っている。左が宝暦13年(1763)の馬頭観世音が祀られている。祠は最近建て替えたようで新しい。背後の建物二階のベランダに屋根神様が見える。階下は神輿蔵のようだ。

右手ジュエリーサロンUKAI脇に「美濃路 萩原宿問屋場跡」の標柱が建っている。上と下の二つの問屋があり、ここは上の問屋場跡である。鵜飼家が勤めていた。UKAIはその末裔であろう。

すぐ先に萩原宿本陣跡の石碑がある。森権左右衛門家の跡地である。

街道はイワタ電機前を左折し日光川を萩原橋で渡る。

(2011年4月)
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美濃路 1



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