日光に通じる道はいくつもある。日本橋から宇都宮で奥州街道から分かれる本街道に対し、専ら将軍の参宮に使われた日光御成街道、中山道から直行する日光例幣使街道、本街道の小山から近回りする壬生通り、奥州街道大田原から西進する日光北街道、会津とを結ぶ会津西街道、そして水戸街道から分岐し日光街道の石橋宿・雀宮宿の中間地点に合流する日光東往還などの脇往還があった。

日光東往還には山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10宿が置かれた。約80kmの街道である。



南柏

JR常磐線南柏駅東口から旧水戸街道にでて左折、八坂神社をすぎてまもなく日光東往還が水戸街道から北に分岐する。交差点最寄の水戸街道バス停名は新木戸。水戸街道は幕府直轄の小金牧を横断しており、牧の出入り口には野馬土手に木戸が作られた。日光東往還の起点も上野牧の出入口の一つであった。水戸街道沿い柏神社にその様子をえがいた絵図がある。図右側の「新木戸」から下方向に出ている道が日光東往還である。

江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地であり、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。その情景は下の「水戸土浦道中絵図」から探ることができます。牧の中を水戸街道が画面東西に走りぬけ、その街道沿いには松並木と思われる樹木、周辺の野原には野馬の群れる姿が見られます。牧のはずれには木戸(「柏木戸」、「新木戸」)が置かれ、その周囲には野馬土手が築かれている様子がわかります。水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入り口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていました。明治時代になって地租改正が行われ土地に番地がつくようになると、柏木戸のあったところが柏1番地となりました。現在、木戸は残されていませんが、水戸街道の「新木戸」や成田街道(現在の県道我孫子・関宿線)と言われた「花野井木戸」「船戸木戸」などが今でもバスの停留所の名称として使われています。

陸橋脇に旧道が残っている。階段を上がって常磐線を跨ぎ国道6号を横切る。交差点標識に「旧日光街道入口」とある。

稲荷神社前信号交差点角の新富稲荷神社境内に昭和48年(1973)建立の大きな
豊四季開拓百年記念碑がある。

明治維新になって小金牧は隣接する佐倉牧とともに廃止され、牧場は旧下級武士の失業対策として開墾事業にあてられた。新しく生まれかわった土地には、開拓入植順に縁起のよい地名がつけられた。

初富 はつとみ 鎌ヶ谷市 小金牧内 中野牧
二和 ふたわ 船橋市 小金牧内 下野牧
三咲 みさき 船橋市 小金牧内 下野牧
豊四季 とよしき 柏市 小金牧内 上野牧
五香 ごこう 松戸市 小金牧内 中野牧
六実 むつみ 松戸市 小金牧内 中野牧
七栄 ななえ 富里市 佐倉牧内 内野牧
八街 やちまた 八街市 佐倉牧内 柳沢牧
九美上 くみあげ 佐原市 佐倉牧内 湯田牧
十倉 とくら 富里市 佐倉牧内 高野牧
十余一 とよいち 白井市 小金牧内 印西牧
十余二 とよふた 柏市 小金牧内 高田台牧
十余三 とよみ 成田市 佐倉牧内 矢作牧

豊四季駅南口交差点のすこし手前、街道が東武野田線に最接近するあたり、左右のに木立の中に土居が数箇所見受けられた。これらも野馬土手の名残りだろうか。

街道は県道278号と交差する。左折して行くと右手、
永寿稲荷神社の境内に稲荷神社、開拓記念碑、木釘記念碑の三基が並んでいる。豊四季村開拓農家が副業として作った木釘が特産品になった。説明板がなく詳しいことはわからない。

街道はつくばエクスプレス「流山おおたかの森」駅のすこし手前あたり、角にスリーエフがある交差点を右に折れる。右手のきらら公園に突然
「一里塚」標石を見つけた。南柏起点からおよそ3kmの地点である。おもいがけない発見であった。標石はまだ新しい。周辺の旧日光東往還の道筋図と解説が添えられている。地元ではこの曲尺手を「西初石クランク」と呼んでいるらしい。

山中酒店の前で道は北西に向きをなおしたのち、流山おおたかの森駅前の整備事業で旧道は分断されている。工事現場の歩道をたどり駅の西側で旧道が復活している。

1kmほどすすんだ十字路を右におれ東武野田線踏切を渡ってオランダ観音に寄っていく。線路の手前右手に魅力的な道が残っていた。農道あるいは村道にしてはあまりに風雅な道である。これが旧街道ではないかと思いたかった。

富田畳店の先、道路の左に「オランダ観音」の、右側に「神愛幼稚園」の案内標識が立つ丁字路を右折、森の中をすすみ教会前で右折、左折して森をぬけ住宅街に出る。最初の道を右折すると、左に自治会館、その先に「オランダ観音入口」の標識がみえる。そこを右にはいり突き当りを右折したところ左手白い鳥居の奥に
オランダ観音があった。祠に二基の馬頭観音が祀られている。オランダから輸入された馬がこの地になじめず暴れたので射殺された話が伝えられる。話は飛躍するが奥州街道の三戸に唐馬の碑があった。オランダ東インド会社から輸入されたペルシャ馬という意味で同じ話だ。時代はこちらのほうが古い。

街道にもどり初石駅前を過ぎ県道47号を横断し日光街道大橋で常磐道をまたぐ。橋にふくらみはなく常磐道が街道をくぐっている形だ。

その先にきれいな形で残っている曲尺手を経て
東武野田線江戸川台駅前に出る。このあたりで旧道筋は失われ西にすすんで再び旧道筋にもどる。

まっすぐな道をすすんでいくと左右に寺が向き合っている。右手の浄信寺境内には多数の石仏石塔が安置されて落ち着いた雰囲気に包まれている。向かいの慈眼院は本堂を失った廃寺の様子だ。長文の由来碑があるが近江の武将石田光成との係わりが記されている。後は読まなかった。

欅だろうか巨木が道を覆いかぶさるように聳えている。根元に祠がある。県指定記念物に値する巨大さだが説明板はない。立て札らしきものは工務店の看板であった。寺院、石仏、古木など史跡への教育委員会の関与が全くない。

「東深井中学校入口」信号交差点で県道5号(流山街道)と斜めに交差して旧道はそのまま直進する。交差点角地に長いブロック塀をめぐらせ門をかまえた
旧名主小倉家邸宅が建つ。突き当たり左手に八坂神社、正面には成田山、伊勢代々御神楽と刻まれた石塔や小祠が並んでいる。そこを右折し県道の手前でもう一度左、右と鍵形に曲がって県道5号に合流する。

東深井信号交差点のすぐ先右手の歩道縁石上に青面金剛塔が立ち
「左 の田 きの崎みち」「右 なりた くぜ」と刻まれている。文化13年の古いものだが史跡としての扱いを受けている様でない。

すぐ左手にある駒形神社は応永6年(1399)の建立で、源義家が奥州出陣の際立ち寄った伝承が残る。

街道は運河駅前で大きく左にまがって
利根運河を渡る。深く掘削された全長8kmの運河は江戸川と利根川を結ぶためにオランダ人技師ムルデルの指導のもとに明治23年完成した。銚子から利根川を遡上し関宿で江戸川に入る水運に比べ約40kmも短縮できたという。最盛期には年間37000余隻一日平均103隻もの船が行き交った利根運河は今は水辺公園として整備されている。

橋を渡って堤防を左にはいると道路脇に福の神がある。両足を突き出し奇怪な顔をした幼児の石像である。公園内のに土手にはムルデルの記念碑や利根運河碑が建てられている。

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山崎

東新田バス停手前右手に
石仏群があり、三猿を従えた庚申塔のほか祠にも三猿が彫られた台石に行者風の石像が立っている。両者ともその面相が大変ユニークで魅力的な迫力を発散させている。

街道は野田市山崎貝塚町に入る。ガストの先左手に立つ
山崎貝塚の案内標識に従って路地をはいっていくとつきあたりに東屋が設けられたポケットパークがある。案内地図によると黒々とした畑地の向こう側に山崎貝塚があるという。縄文時代の集落跡が発掘されたとあるが、埋め戻されたのだろう。あまりに跡地が美しい農地に変わって、遺跡の片鱗をみいだすことさえ難しい。

街道左手、東新田自治会館前バス停脇に「十社子安大明神」石塔を祀る祠がある。

道は「野田市山崎」信号でゆるやかなS字カーブとなっている。このあたりが山崎宿入口でカーブは曲尺手の名残りといわれている。角地の民家ブロック塀には凹みをつくってそこに屋根を設けて地蔵が安置されている。その先にも門塀をめぐらせた大きな民家があった。

山崎宿は水戸街道小金宿から約4里の行程にあり日光東往還最初の宿場である。梅郷駅前あたりが旧宿場の中心であった。

歩道橋の手前左手にブロックと青い波板の塀で植え込みのある広い敷地を囲った民家がある。山崎の
名主で本陣を勤めた吉岡家で、歩道に木製の常夜燈が立つ。道向かいの吉岡酒店の本宅であろう。

問屋は吉岡金太郎家と中村熊太郎家だった。

駅前通りの左にある福寿院は応永12年(1405)創建で、本陣としても使用された。

旧道は梅郷駅入口信号五叉路で左にカーブしていく県道5号と分かれて直進する。
東武線に接近して突き当たりを右折、踏み切りを渡る。鉄道で分断された形になっていてかってはスムーズな一本道でつながっていた。

街道は国道16号と並行するように真っ直ぐに延びる。
左手に
花井明神神社がある。寛永16年(1639)に旧花井村の守神として建立された。街道沿いに庚申塔等の石仏・石塔が多く並んでいる。宝暦6年の庚申塔は浮彫もしっかりしていて立派なものだ。 

すぐ先右手にある菅原神社には一つの石に
芭蕉と素堂の句を刻んだ珍しい句碑がある。

梅可香耳能つ登日濃出る山路か南   (梅が香にのつと日の出る山路かな)  はせを
日能廻累世界を梅のにほひか南     (日の廻る世界を梅の尓本ひか南)   素堂

文化14年(1817年)の建立で市内最古の芭蕉句碑である。

県道46号との中根交差点にさしかかる。ここで街道から離れて醤油造りの町、野田によっていく。寛文年間(1661〜1673)高梨兵左衛門、茂木佐平治などが醤油醸造を始め野田は大消費地江戸を控えた一大醤油醸造地として繁栄した。大正年間に入って野田の醸造家が大同団結して
野田醤油を設立、変遷を経て現在のキッコーマンに至っている。

野田駅の西側にキッコーマン本社がかまえ、周辺一帯は創業者
茂木家一族の屋敷が集まる茂木村である。多くの分家があって固体識別ができない。江戸時代を思わせる長屋門、石蔵を袖に配した明治・大正時代のレトロ調屋敷など、いずれも個人の居宅であり、中にはいることができないが外観を見て歩くだけでも十分に見ごたえがあった。

美術館、博物館、工場見学などは省いて街道にもどる。

もりの遊園地から市役所にかけて街道の東側には手付かずの林が続く。かつてこのあたりの街道には松並木があったらしい。野田市役所前に
野馬土手が残る。歩道には日光東往還と野馬除土手の説明板がある。野馬が田畑に入らないように地面を掘り、土を傍に盛る。これで堀と土塁ができて高低さが二倍になる。街道に沿って林の中に残る土手の上に立つと土手の林側にも堀跡の窪みが見られ、良く整備保存されている。

野田市役所入口交差点から街道はしだいに国道16号に近づき、いったん接した後離れ、やがて国道を渡って千葉カントリークラブ野田コースの正門を入る。手前右手に
春津島弁財天があり正門を入った右手に馬頭観音と何かの供養塔が残って街道の道筋であったことを示している。

旧道道筋はクラブハウスを突きぬけて背後の林の中の道に出ていた。左に直角に折れて林間の直線道路をすすむと間もなく国道を斜めに横切って県道17号に入る。

合流してまっすぐな道を進む。蕃昌、舟形、吉春、谷津と家並が途切れることなく集落が続く。

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中里

川間駅入り口の向かいに西岸寺がある。このあたりから中里宿がはじまっていた。

山崎宿から2里11町、およそ10kmの距離である。本陣は当地の名主染谷新右衛門宅、問屋は西山庄左衛門であった。地元の人に尋ねて
染谷家宅を教えてもらった。古い建物はなく、昔を偲ぶ情景はない。向かいの平井米店の建物がわずかに街道筋の面影を残している。

旧宿場町を通り抜けて国道をくぐると満蔵寺がある。ここに
道標を兼ねた庚申塔があるという。境内をあるいてみると実に多くの庚申塔が保存されている。案内板などはなく一つ一つ調べていくほかなかった。ようやく台石の一面に「右せきやどみち(関宿道」」と刻まれている庚申塔をみつけた。他の庚申塔には「総州庄内領中里宿」と刻まれているものがある。宿内の石塔類を本寺境内に集めたのだろう。

満蔵寺から中里須賀神社参道にかけて
旧道跡が残っている。県道との間に「中里上宿」の銘がある庚申塔がポツンと立っている。

旧道はトステム野田工場内に消えた後、県道の一筋左の静かな道なって復活している。その先、林に入る手前の二股に
二基の庚申塔がある。そのひとつの台座に「北はほうしゆ花・せきやど」「南 xxやまざき」と刻んである。xxは「のだ」か。

旧道は千葉カントリークラブ川間コースの塀に突き当たり県道に出る。県道が川間コースと離れる場所に短い
旧道跡が残っており、寛永4年(1627)の古い石仏や道標を兼ねた宝暦10年(1760)の庚申塔があった。

県道の歩道を兼ねた旧道を歩いた後木間ケ瀬の須賀神社を見て東宝珠花(ひがしほうしゅばな)に至る。

いちいのホールは平成15年野田市との合併前の関宿町役場である。関宿町は旧関宿町と二川村、木間ヶ瀬村の3町村が合併して成立したもので、役場は中間の二川村東宝珠花に置かれた。宿場城下町である元関宿町は新関宿町の北部に位置する。

いちいのホール5階に坂田三吉と争った関根名人(慶応4年(1868)〜昭和21年(1946))の記念館がある。ホールの北隣に
関根名人の生家があり、その北日枝神社向かいの墓地にある関根名人の墓の傍に将棋の駒の形をした記念碑がある。宿敵坂田三吉とは15勝16敗1分。江戸時代以来世襲制だった名人位を実力名人制に変えた近代将棋の父である。

日枝神社の前で県道と分かれて左の旧道に入ると江戸川堤防に突き当たる。昔の街道筋は河川敷に埋もれてしまった。見晴らしのよい堤防の上を歩いていく。河川敷はかつての河岸跡で多くの高瀬船が出入り移していた。

宝珠花橋の袂に高瀬舟のモニュメントが飾られている。そこから道は堤防下に降りて県道17号に合流し川から離れていく。

親野井を過ぎ柏寺に入ると道沿いに若い松の木が植えられている。かってこのあたりにあった松並木を復活させようとの試みであろう。事実、柏寺信号あたりに2、3本の名残の松が残っている。


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関宿(せきやど)

新田戸、東高野あたりから関宿城下へは二通りの道筋があった。
ひとつは台町道とよばれるルートで、
工業団地入口信号で右の旧道にはいり、すぐに県道17号にもどってそのまま関宿台町に入っていく。交差点脇に「旧日光街道東往還関宿多功道」の説明板が立っている。このルートを意識したものか、いかにもこちらが本道であるかのようである。

旧道にはいったところ右手の小林家前に
関宿城埋門(うずめもん)が移築されている。この門は城内にあった大きな門(佐竹門・辰の門)の間にあった埋門といわれる四脚門である。戦が始まり城に篭城しなければならない状態になった時には、戸や塀の内側を約3分の2程、土で埋めてしまうことから埋門という名がついた。ここに移された所以は記されていない。小林宅のいかにも旧家らしいたたずまいからして、名主か重臣でもあったのだろう。

門の少し先の三叉路に、享保2年(1717)につくられた路分け地蔵と呼ばれる六地蔵がある。詳しい説明板があり、脇の天保八年(1837)銘の二十三夜塔に「左・木間ヶ瀬・右・江戸道、ほうしぱな」と刻まれているらしいが、表面の石が剥脱されて読解不能だった。

もうひとつのルートは関宿城大手門に通じる道で、いわゆる本道である。工業団地入口信号のすこし手前、
「出羽鶴見晴屋」の看板を掲げた酒店の脇を入る。100mほどの砂利道だが、直ぐに舗装路となって工業団地を抜けていく。

江戸川に近づきつつ関宿元町に入る。右手吉祥寺をすぎたあたりで小気味よい
曲尺手を折れると釜半商店前から堤防が目の前に見えてくる。かって行人河岸と呼ばれる渡船場があったところで、釜半商店は萬屋の屋号で船客相手に食料雑貨を商っていた。

関宿大手門に通じる道が
雲国寺前を通っていた。二股を右にとり江戸川の堤下の道が旧道である。大日堂をすぎて関宿橋から降りてきた県道26号に合流し関宿町中に入っていく。

曲がり角に
関宿関所跡の碑が建っている。堤防の方へはいった右手に香取神社がある。神社脇に関宿城の大手門があり、また関宿本陣の会田家もこのあたりにあったらしい。近所のおばさんに聞くと家は残っておらず、雲国寺からの旧道沿いに美容院を経営している会田さんが末裔ではないかという話だった。

堤防にあがってみる。見晴らしがよい。すこし北に歩いたところに
「棒出し跡」の解説板が立っている。権現堂川の増水時に江戸川利根川東遷にからむ関東北部の河川流路変遷は何度読んでも頭に入らない難物である。ここでも権現堂川、江戸川、利根川、逆川が絡んで複雑な話になっている。深く立ち入らない。

関所跡碑に戻る。東に向かって宿場が形成されていた。遺構は残っていない。旧道は次ぎの角を右に折れて清信寺跡に突き当る。右手八幡神社の両側に火袋のない灯籠のような石塔が立っている。正面に「奉納武運長久」と刻まれている。出征記念碑か。

八幡神社の反対側進んで
「関宿落とし」と呼ぶ細い用排水路を渡る旧道をたどる。このジグザグは曲尺手であろうか。それとも関宿城の南、大手門の東側に大沼につながる堀があって、街道はその南縁を迂回しただけなのか。細い水路を渡った左手に、大沼からその水路を開削して利根川につないだ関宿悪水落堀の実行者船橋随庵の顕彰碑がある。

「瑠璃殿」の扁額をかかげた薬師堂の先で県道26号に合流するとすぐ関宿台町交差点に出る。ここで工業団地入り口交差点を右折して来た第一のルート、台町道が合流する。

直進するのが街道筋だが、ここを右折して台町道沿いにある
宗英寺を訪ねる。宗英寺は徳川家康の弟、藩祖松平康元(関宿城主)によって創建された。松平康元をはじめ、足利晴氏、船橋随庵の墓がある古刹である。

台町交差点にもどりお目当ての
関宿城博物館に向う。交差点北側に鈴木貫太郎記念館があるが省略。県道26号が県道17号と合流する三角地帯に「納谷の首切り塚」と呼ばれた関宿藩処刑場跡があった。そこには今も髭題目供養塔が建っているとのことだが、見つけられなかった。

県道17号に合流してすぐ博物館入口信号を左に入る。そのまま行けば博物館であるが旧道はすぐの十字路を右に曲がって利根川につきあたる道筋であった。

堤防を100mほど上流にいったあたりに対岸の境宿とをむすぶ渡し場があった。遺構や立て札類はない。

堤防に上がってみると西方向に関宿城を復元した博物館が美しく望める。

堤防下の道を博物館に向っていくと三軒家集落に
鬼門除け稲荷がある。昔はここに文字通り3軒の家があった。赤い塗料がはがれかけた小ぶりの鳥居が微小な集落に似つかわしい情景を描いている。

関宿城博物館は平成7年に開館、建物のうち天守閣部分はかつての関宿城を復元したものである。「利根川舟運と利根運河」の特別展示が開催中であった。今年で利根運河が全川通水してから120年が経ったとある。

天守閣の頂上から
江戸川と利根川の合流点を探った。かなり遠くに左右から水流が寄り合う箇所が認められた。ガラス越であるうえ、写真は大きくトリミングしてあるので鮮明でない。その水辺までいける道は無いか訪ねたが中ノ島公園にわたって河川敷の草むらを分け進むしかないとのこと。また、距離もかなりあるようで、あきらめた。

博物館裾のけやき茶屋前から出ている農道を500mほどたどっていくと
関宿城址の石碑がある。6000坪あった敷地の3分の2は幾度の河川改修によって堤防の下に埋もれてしまった。

関宿城は長禄元年(1457)に簗田氏により築城されたが、天正18年(1590)徳川家康の江戸入府後は江戸城防備の要衝として初代関宿藩主に家康の異父弟、松平康元が城主として入城する。その後宝永2年(1705)からは久世氏が代々の城主を務めて明治維新を迎える。同6年に政府の手で城は破却された。唯一の遺構として埋門が東高野の小林家に移築されている。

境大橋で利根川を渡り境町に入る。船渡しであった利根川に昭和7年(1932)船橋が架けられた。幾度と無く洪水のたびに船橋は流され、昭和39年(1964)になって境大橋が開通した。

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橋を渡ると土手下には県道を挟んで境みちの駅と大型小売店がならぶ大きなショッピングモールがある。境の町全体の購買力をもってしても余りある規模で、旧宿場の商店街がどんなものか想像するに難くない。

堤防上の国道354号を西に進む。関宿町の旧道が利根川にぶつかったあたりの対岸地点が船戸町
旧河岸跡で、河岸問屋兼本陣の青木家と小松原家などが大店を構えて賑わっていた。明治45年(1912)利根川河川改修工事で船戸町の大半が東往還筋の松岡町や下妻街道筋の旭町に移ってしまった。

かっての境河岸を復元した場所はそこから数十m先で、石階段と船着場が整備されている。ここからは4月から9月にかけて高瀬舟が運行されており、江戸川の水閘門までの往復遊覧船が就航している。その河岸入り口に高瀬舟が展示されていた。オフシーズンで引上げられた就航船なのか、恒久的な展示品なのか知らない。

さらにその先には常夜燈が建てられ、東屋とベンチも用意されて公園風に作られている。利根川の向こう岸には関宿城が望めよい景色である。さらに好天の日には富士山が眺められるスポットで写真愛好家にとっては人気があるらしい。あいにくこの日は低気圧が通過中で、竜巻を起こしそうな黒い雲が帯状にのびてきて頭上を覆いつつあった。

旧河岸跡まで戻り、階段で堤防を降りる。現
本船町から旧道が復活している。建物は古くないが船町食堂はその名に河岸の名残をとどめている。交差点角に筆屋を営んでいた高木書店が今も重厚な白壁の店蔵を残している。完全に締め切られた様子で廃業した模様である。

下仲町の左手、武蔵屋本店脇の路地を覗くと板塀が奥行き長く続いていて、町屋の造りである。

仲町交差点から古河街道が左にのび次の信号では下妻街道(県道137号)が交差する。仲町交差点から街道は県道126号となって上町、住吉町、松岡町と北上して旧境宿を出る。長い商店街だった。すぐ近くに大型ショッピンモールを控えてかっての繁華街はその賑いを失ったようだが、駅前シャッター商店街のような無機質な寂れではなく、ところどころに旧街道筋の趣を宿した懐かしさを感じさせる町並であった。

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谷貝

長井戸をすぎて旧道は県道17号と合流する。 猿山集落を通り過ぎて古河市三和町谷貝(やがい)に入る。谷貝宿は境宿より5kmほどの近距離である。工場をすぎたあたりから谷貝の集落がはじまる。どこが中心なのかよくわからない町並みである。延命地蔵がある路地の左奥に寺が見えたので入ってみた。遍照寺という。本堂左側に背景をもたない墓地が広がって境内全体が空疎に見える。

帰り道、参道でであった婦人に
本陣初見家のことをきいてみた。道向かいの千手観音堂を指差して、「これが初見さんの家です。その横に一家の墓があります。本家は東京へいかれて、ここはその子孫が住んでおられます。」
「さぞかし大地主だったんでしょうね」
「谷貝村一帯が初見さんの土地でした。東京へ移られるとき屋敷には色々な高価なものがでてきて、みんな奥さんの実家にいきました」

確かに今も初見姓が多い。地図をみただけでも、初見畳店、初見送電、初見設備、初見建材、初見板金、初見肥料、初見自動車販売、初見建築、初見商事、初見自動車板金塗装と、谷貝の南端から北端まで街道沿いに分布している。

参道入り口のすぐ先右手に欅の大樹がそびえている。その根元に大きな
石碑があった。よく見ると「初見…云々」の題目があり、本文冒頭部分だけ解読を試みてみた。「君ハ文久2年…・真壁郡下妻町萩原忠三郎ノ二男ユエ…・初見治三郎ノ女婿ト為リ…・茨城県茶業組合連合会議所会頭…・」

大いに事業を起こし地域経済の発展に尽くした人物とは外から来た婿で初見家は地元の大地主だったということだろうか。最後まで読んでいないので無責任だが、先の「奥さんの実家云々」と結びつきそうな話である。

その先、道が左に曲がるところに林を丸呑みしたような庭を延々と板塀で囲った屋敷が現れた。敷地の北端に「初見肥料店」とあった。

初見村ともいうべき谷貝を離れる。

東山田にはいって大きな長屋門のあるひいらぎ幼稚園を通り過ぎる。堂々とした長屋門だけでなく、それに続く塀も武家屋敷のような立派なものである。表札は「初見」ではなかったが、土地の旧家であるに違いない。


(2010年11月)
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日光東往還(1)



南柏−山崎中里関宿谷貝

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日本紀行
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