この通りは江戸時代に日光東往還と呼ばれた。「東」と付けたのは干住から栗橋へ延びる正式の日光街道の東側を通る脇道という意味によるものだろうが、正式には関宿通多功道、別名関宿道、久世街道、結城街道などとも言われた。 水戸街道の向小金新田を起点に、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城を経て雀宮で正式の日光街道と合流する。その道のりは17里14町(約70km)、宿場は10ケ所設けられ、市内には山崎と中里に宿場がおかれた。 将軍がこの街道を通って日光東照宮に参詣したという記録は残っていないが、その準備のために表街道を避けた諸大名などが通過した。
日光東往還 鶴奉 野田市 千葉県