関宿城址 関宿町 野田市 千葉県
関宿城の歴史
関宿城の歴史はおよそ長禄元年(1457)簗田満助の手によって、茨城県総和町水海より現在の地に築城されたのが始まりと云われている。当時は城といっても平屋の建物が配置されているだけであった。 簗田氏の支配は満助から持助まで六代続いていたが、やがて関宿も戦国の動乱に巻き込まれ、北条氏との激しい戦いののちに、ついに北条氏の手に落ちてしまう。その後すぐ豊臣・徳川連合軍の関東攻めにあい、北条が守る関宿城は連合軍の手に落ち、天正18年(1590)徳川家康関東入封の折り、家康の実弟である松平康元が関宿城に二万石にて入城する。以後城主は、松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野久世と城主が交代したが宝永2年(1705)久世重之以後明治に至るまで関宿は代々久世氏の治める領地となった。 明治2年(1869)藩籍奉環後、関宿城の所管は明治政府の手に移り、同5年にはその所管が政府から陸軍省へ移され廃城と決定され、同8年また城の所管が陸軍省から再び政府に移動したのをきっかけに、親藩・譜代7家23人の大名を輩出した関宿城は同年末までに全て破却されるに至った。 現在城跡として残っているのは全休の一部で、約三分の二は、明治以後何回となく繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっているが、当時の城の大きさは本丸、二の丸、三の丸部分だけでも約6000坪あったといわれている。 野田市教育委員会