江戸時代 | 昌平橋 | 筋違橋 | ーーーー |
明治5年 | 相生橋 | 万世橋 | ーーーー |
明治6年 | ーーーー | 万世橋 | ーーーー |
明治??年 | ーーーー | 万世橋 | 昌平橋 |
明治32年 | 昌平橋 | 万世橋 | 新万世橋 |
明治36年 | 昌平橋 | 元万世橋 | 万世橋 |
明治39年 | 昌平橋 | ーーーー | 万世橋 |
祭神1:「大己貴命(オオナムチノミコト)」大国主命、「だいこく様」。国土経営・夫婦和合・縁結びの神。 |
祭神2:「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」「えびす様」。商売繁昌・医薬健康・開運招福の神。 |
祭神3:「平将門命(タイラノマサカドノミコト)」平安時代末に活躍した武将で、関東の英雄。江戸東京の守護神。 |
こぎれいな本郷通りを歩いていく。心持ち学生の姿が多い気がしてくる。本郷2丁目交差点では数人の学生が通行人にビラを手渡す中で、一人の若者がマイクを口につけつつも目は原稿からひと時も離さず、一生懸命に何かを読み上げていた。左派系政党の宣伝だが、ひじょうに丁寧で穏やかな口調がむしろ初々しい。北に進むにつれ学生の数がさらに増してくる。
![]() 『本郷も かねやす までは江戸のうち』 と古川柳にも歌れた由縁であろう。 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。 −郷土愛をはぐくむ文化財− 文京区教育委員会 昭和61年3月 |
この不動尊は、もとは赤目不動尊といわれていた。元和年間(1615〜24)万行(まんこう)和尚が伊勢国の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、今の動坂の地に庵を結んだ。寛永年間(1624〜44)鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜り、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。(中略)江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。 天台宗南国寺 文京区本駒込1−20−20 文京区教育委員会 平成3年3月 |
江戸五色不動とは、江戸府内の名ある不動尊を指定して江戸城の東西南北中央の五方角を色で示したものである。不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、密教が盛んになった平安時代にはじまった。
目赤 | 天台宗 南谷寺 | 文京区本駒込1丁目 |
目白 | 真言宗豊山派 金乗院 | 豊島区高田2丁目 |
目黄 | 天台宗 永久寺 | 台東区三輪2丁目 |
目青 | 天台宗 数学院 | 世田谷区太子堂4丁目 |
目黒 | 天台宗 滝泉寺(ロウセンジ) | 目黒区下目黒3丁目 |
好色5人女 | 巻一 | 巻二 | 巻三 | 巻四 | 巻五 |
姿姫路清十郎物語 | 情入を入れし樽屋物語 | 中段に見る暦屋物語 | 恋草からげし八百屋物語 | 恋の山源五兵衛物語 | |
舞台 | 兵庫、室津・姫路 | 大坂、天満橋 | 京都、四条通り | 東京、駒込 | 鹿児島 |
女親 | 姫路米問屋、但馬屋九左衛門 | 貧農 | 室町商家 | 八百屋太郎兵衛 | 琉球屋 |
女 | 但馬屋娘お夏16歳 | 薬種屋女中、おせん15歳 | 今小町おさん | 一人娘お七16歳 | 跡取り娘おまん |
男親 | 室津酒屋、和泉清左衛門 | 暦屋大経師 | 武士 | 実親武士、養親両替商 | |
男 | 息子「清十郎」25歳 | @樽屋職人 A麹屋長左衛門 |
@跡取息子、以俊 A手代、茂右衛門 |
小野川吉三郎16歳 | 源五兵衛(ホモ)、両替商に養子 |
出会い | 勘当された後、奉公先にて | @老女の仲介 A法事の手伝い |
@男の一目ぼれ A女中の恋の手助け |
花火大会 火災避難先での再会 |
おまんの一目ぼれ |
関係 | 商家の娘と手代、主従の恋 | @職人樽屋と女中の恋 A人妻と得意先主人 |
@幸せな結婚 A女主人と手代・女中の彼氏 |
商家娘と寺小姓 | ホモ男と商家跡とり娘 |
障害 | 九左衛門の結婚反対 |
不倫関係(後家のいじめ) | 子無夫婦、勘違い | 親の反対 | ホモ相手 |
アクション | かけおち | 不義密通未遂 | ミイラになったミイラとり 駆け落ち、偽装自殺 |
自宅放火 | 出家したホモ男と、男装しておしかけ結婚 |
挿話 | 700両盗難事件 | 伊勢抜け参り、薬種屋手代の誘惑、 麹屋後家の嫉妬 |
夫出張中のできごと 女中りんと手代の恋 近江、丹後逃避行 |
親留守宅の逢引 小坊主珍念の裏切り |
ホモ友達八十郎の死 両替商の倒産 |
結末:女 | 狂乱 | 自殺 | 死刑、りんも連座死刑 | 引き回し・火刑 | 琉球屋を継いで幸せ |
結末:男 | 冤罪(窃盗)で死刑 | 引き回し・獄門 | 死刑 | 出家 | 同上 |
比翼塚 | 姫路、慶雲寺 | 駒込、吉祥寺 | 関係なし |
江戸・東京の農業 駒込ナス 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。ここ巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。 平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業 |
染井通り | ![]() |
霊園のさらに奥にある慈眼寺には、芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓がある。そういえば、染井通りに「芥川」の名を見かけて、珍しい姓だなと思いながら通り過ぎたが、慈眼寺の墓とは関係がないらしい。谷崎潤一郎の墓は、京都左京区鹿ヶ谷の法然院にもある。その先は国道17号線沿いの「駒込土物店」の末裔、巣鴨青果市場である。横に由緒を記した説明板があった。
巣鴨薬園跡 このあたりは、伊勢国津藩主藤堂和泉守家の抱え屋敷の一部であったが、明和6年(1769)に伊奈半左衛門預かりの幕府御用林となった後、寛政10年(1798)頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった場所である。(中略)巣鴨薬園は別名綿羊屋敷とも呼ばれていた。これは渋江長伯が文化14年(1817)に日本で初めて綿羊を飼育し、羅紗織の試作を行ったことからきたものとされている。明治維新後、巣鴨薬園は廃止されてしばらくの間私有地となっていたが、昭和12年(1937)3月、東京市中央卸売市場豊島分場が開設され、その後東京都中央卸売市場豊島市場となり現在に至っている。 平成14年3月 東京都豊島区教育委員会 |
洋紙発祥の碑 日本の洋紙生産は、明治6年(1873)ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一が「抄紙会社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。田園の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和20年(1945)、戦災によりその歴史を閉じました。この碑は、工場創立80周年を記念し、昭和28年、その跡地に建てられたものです。 日本製紙株式会社 |
飛鳥山碑 八代将軍徳川吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽した。元文2年(1737)にはこの地を王子権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の5経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを宣伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(1321〜3)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。 平成9年3月31日 建設 東京都教育委員会 |
蝉丸公は延喜帝の第4皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手でああり、又髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の古屋美女(ふるやのびじょ)に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並びに「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代ここ王子神社境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和20年4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼びかけ浄財を募り昭和34年5月24日これを再建せり。 王子神社宮司 |
王子大坂 飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、 石神井川を渡って左に曲がり、 現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。 江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登リ口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、 昔は縁日で賑わった。 また、坂の地形が海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなので、「うとう坂」の名もある。 |
王寺駅北口から北本通りを数分あるくと、街灯に小豆色の布地に「おうじぎんざ」と白抜きした旗がゆれている。路地を一本はいると角に装束稲荷がある。はためく赤幟を払って祠に近寄ると左右に、それぞれ玉と鉤をくわえたスリムな狐が待ち受けている。サラリーマンや若い女性、近所の主婦や店主風の男性など、ありふれた平日の真昼でも、入れ替わり立ち代って寄っていく人が多かった。広重の錦絵では、ここから田畑越しに王子稲荷神社の森が望めたはずだが、いまや視界は50mも広がらない。毎年大晦日になると関東中の狐たちが、ここにある榎の大木の下に集まってきた。
富士講と富士塚![]() 富士講は、こうした信仰を背景に江戸時代、関東地方を中心に都市や村落社会に結成された庶民の慣習的な信仰団体です。 講による富士信仰の基礎となったのは、江戸時代初期に江戸市中で呪術的な医療活動によって流行病の治癒につくした畫行藤仏(長谷川武邦)という修験道系統の修験者の活動です。また、中期には村上光清や食行身禄(伊藤伊兵衛)といった富士信仰中興の修験者があらわれます。特に身禄は、幕府の政治・経済政策の混乱、封建制の身分秩序による人々の苦難が「弥勒の世の実現」という富士信仰思想によって救済されると述べ、これを男女の平等や日常生活のうえで人としての守るべき規範の積極的実践という考え方から説きおこしていきます。 こうした考え方は社会秩序の混乱や男女差別・身分的差別に苦しむ当時の人々に広く受け入れられ、各地に富士山に登拝できない人々のために遥拝所として富士塚が築造されるにいたりました。十条富士塚も、このような富士塚の一つで、江戸時代には毎年5月晦日と6月朔日、現在では毎年6月30日と7月1日に富士山の開山にともなう祭礼が催され、露店が立ち並び、数多くの参詣者をあつめています。 |
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。 |
左の図は、旧川口宿の本陣であった永瀬洋治家に伝わる文政4年(1821)に描かれた『川口宿絵図』です。この図からは、将軍家が日光墓参のために整備した、日光御成道の岩淵宿につぐ第二の宿場として発達した、旧川口宿の往時の姿をうかがうことができます。街道に沿って町屋が軒を並べ、その西側には裏町が形成されていたことも見てとれます。現在「本一通り」として、その景観の一部を残しています。なお、「鋳物のまち」としての川口は、この裏町を中心に発達しました。錫杖寺は、この宿の来たのはずれに位置しています。まさに川口宿のかなめとして、まちの発展を見守り続けてきました。 |
鎌倉時代の大納言源雅忠の娘が書いた『とはずがたり』には、現在の川口にあたる「小川口」の情景が描かれています。当時このあたりは、鎌倉街道中道が通っていました。そして江戸時代、日光御成道が整備され、岩淵宿につぐ川口宿が成立しました。 江戸時代後期の『遊歴雑記』には、「この駅の南 うら町筋に釜屋数十軒あり、但し鍋のみ鋳家あり、釜のみ作る舎あり、・・・」と書かれており、当時現在の裏町通り沿いに鋳物屋がならび、鍋・釜・鉄瓶といった日用品を製造していた様子が記されています。川口鋳物は、室町時代末期にはすでに行われていたようですが、鋳物に適した砂や粘土がとれたこと、この街道や荒川と芝川の船運、江戸という大消費地に隣接していたことなどの要因によって盛んになっていきました。 |
伊奈氏の系譜![]()
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161号線にもどり南西にすすむと、鳩ヶ谷宿の地蔵院三叉路にまいもどってきた。右にまがって再び新井宿を通り過ぎる。戸塚をぬけ、JR武蔵野線をこえると東川口である。街道は台地の東端を縦走する地形になっていて、右手の崖下に広く東川口の町がひろがっている。かっては低湿地だったが、武蔵野線開通に伴って開発された。一本木公園にある諏訪神社の簡素な社殿の後から、眼下にひろがる眺めがよい。
この斜面林は、緑のトラスト保全第一号地として、「さいたま緑のトラスト基金」により取得・保全したものです。ここは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体になって、最も見沼らしさを残している埼玉の原風景の一つです。この原風景を末永くみんなで保全していきましょう。 埼玉県 財団法人さいたま緑のトラスト協会 |
将軍吉宗の命を受けた井沢為永は、このあたりの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢をみました。見沼の主で龍神という美しい女が現れ、私の住む所がなくなる、新しい住家を探すまで工事を中止してほしい・・・・と言います。来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は一日も休めません。 以下略 |
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西行法師見返りの松碑 西行法師は、文治2年(1186)69歳のとき、東北地方への旅の途中、ここ下高野のお堂(後の東大寺)に参拝したが、激しい雪の日の寒さと旅の疲れとで病に倒れ村人たちの親切な看護を受けた。そして、西行は、静養中に庭の松をとても愛し、病気が治ると村人たちにお礼を言ってこの松を振り返り、振り返り再び旅立った。その後、村人たちは、この松を「西行法師見返りの松」と呼んだと伝えられている。(後略) 杉戸町教育委員会 |